メルヘンに恋して。
第一章





chapter:おかしな出来事その@




(四)



 今日もいつもと同じ、過酷な一日がはじまる――。

 そう覚悟していた篤(あつし)だが、今日はなんだかいつもと勝手が違う。気がついたのは昼食の時だった。

 今日もやはりと言うべきか、営業部として訪問した量販店にことごとく断られた午前中――。食欲はなかったが、そういう時にこそきちんと食事をするようにと営業担当の先輩に言われたこともあり、手頃なファミリーレストランに入った。

「いらっしゃいませ。二名様でございますか?」

 こんなダメダメ社員の自分にも、どのファミリーレストランに入ってもいつも必ず明るい声で出迎えてくれるウェイトレス。けれど彼女の口からは、なにやらいつもとは違う、不可思議な言葉を聞いた。

「えっ?」
(二名?)

 入社して三年。いくらダメ社員だと言えども、いつまでも先輩と一緒に行動するわけにはいかない。だから当然、自分が誰かと一緒にいる筈(はず)もない。それなのに、ウェイトレスは二名かと訊(たず)ねてくる。

 もしかすると、誰かが自分と同じタイミングで入ったのだろうか。

 後ろを振り向けば、すぐに自動ドアが見える。

 当然のことながら誰もいる筈がない。

「あの……」

 彼女はいったい、何と見間違えたのだろう。

「あ、申し訳ございません。見間違いだったようです。一名様でございますね、喫煙席でよければ空いておりますが……」

 戸惑いながらも訊ねると、彼女は瞬きを数回繰り返し、見間違いだったことを謝った。

 ウェイトレスの件はただの見間違いだ。篤はこの時かすかな違和感を覚えるものの、それでも見間違いは誰にでもあると思い直し、忘れることにした。

 しかし、おかしな出来事は、それだけでは終わらなかった。



 その日は飲み屋の座敷一部屋を借りた、営業部、総勢六十名参加の、十二月の商戦に向けての飲み会があった。

「ほい、烏龍茶」
「ありがとう」

 取締役や社長といった重職の話を聞き、各々が食事を楽しむ中、酒が飲めない下戸の篤は同僚の中根から烏龍茶を受け取った。

 彼は篤と同期だ。身長は百八十五センチと、篤と同じくらいだが、体格は違う。広い肩幅に無駄のない、がっしりとした体つき。髪型は短髪で、健康的でほどよく日に焼けた肌。目は、二重で大きく、左頬には笑うとえくぼが現れる。そんな彼の性格は見た目どおり、明るく快活な言動で、周囲を和ませてくれるムードメーカー的な存在だ。
 彼は営業でもその力を十二分に発揮し、巧みな話術と交渉力が買われ、部内では期待のエースとも言われている。当然、社内の女子からの人気も高い。

 彼とは同い年なのに、こうも違うものなのかと思えるほど、頼り甲斐がある青年だった。篤にとって彼は、よき相談相手でもあり、手本だった。

 そして篤が求めるものすべてを持っている彼は、コンプレックスを刺激する相手でもある。

 自分を棚に上げて他人を羨(うらや)むなんて情けない。

 篤は悲観的になりつつあった自分に叱咤し、気を取り直すため、中根から受け取った烏龍茶を喉の奥に押し込んだ。

 その途端だった。烏龍茶を流し込んだ喉が、熱を帯びる。

「あれ?」

 何かがおかしい。
 そう思った時にはすでに遅く、激しい目眩と熱に襲われる。

 篤は座敷の上に崩れ落ちた。

「うわっ、お前、ほんとに酒に弱いのな」

 中根の驚きに満ちた声が、篤の中に生まれた疑いを決定づけられた。

 篤が飲んだのは、烏龍茶にあらず、ウイスキーだったのだ。

 匂いに気づけばよかったのだが、いまだに量販店と交渉がうまくいかず、自分のダメさ加減に嫌気が差していた。

 篤にとって、冬の商戦に向けての飲み会は重荷にしかならず、いっそう落ち込むだけだ。

 意識は散漫していて、どんなにいいものを食べても、何を飲んでも、緊張で味わうどころではない。

 だから篤は渡されたそれが酒だということに気づかなかった。

 そして何よりも決定的な失態は、中根という人物がどういう人間なのかを忘れていたことにある。

 彼は篤のような根っからの真面目人間をからかうことに生き甲斐を感じている人間だった。

 背中から、粘っこい、いやな汗がにじみ出る。

 身体は焼けるような強い熱に見舞われ、吐き気も込み上げてきた。

 篤は、胃のむかつきに耐えきれず、うずくまる。

 今の篤には、ここがどんなに重大な場であるのかを考える余裕さえない。

 押し寄せてくるおう吐に抗う力もなく、意識を手放した。


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