メルヘンに恋して。
第一章





chapter:おかしな出来事そのA




(五)



 翌日、気がつけば、今ではすっかりお気に入りになったペンギンの縫いぐるみを抱いて、篤(あつし)はベッドで目覚めた。

 腕の中には、ちゃっかりエンペンくんがいる。無意識のまま抱きつくほど、気に入っているのだろう。思わず苦笑が漏れてしまう。

 服は昨日の朝とは違い、きちんと着ている。ただし、一晩中着ていたこともあり、スーツはヨレヨレになってはいるが……。

(えっと? なんで俺……?)

 昨日、意識があったところまでは覚えている。たしか中根に烏龍茶だと言われ手渡されたそれは、実はウイスキーで、篤は気づかず飲んでしまった。

 しかし、覚えているのはそこまでで、それからの記憶がない。


(俺、どうやって家に帰って来られたんだろう……)

 疑問を抱くが、もしかすると中根が家まで送ってくれたのかもしれない。

 たったひとくち、飲んだだけで倒れるなんて無様すぎる。

 さすがの彼も驚いた様子だったし、有り得る話だ。

 そもそもの原因は中根にある。篤がこんな目にあったのは彼の悪戯のせいだ。だがしかし、他の人間では考えられないほど酒が弱い自分にも責任はある。

 出勤したらお礼くらいは言おう。

「…………」

 まだ胃が気持ち悪い。吐き気がする。けれど、これは昨夜の酒のせいではない。

(ああ、今日。仕事に行きたくないなあ)


 ただでさえ、自分は部内で足を引っ張っている身だ。昨夜の飲み会で倒れたなんて、恥ずかしい意外の何ものでもない。

 しかも部内だけではなく、上司までもが集まる中での大失態だ。さぞやげんなりされていることだろう。

 ダメダメ社員の篤には、もう明るい未来は見えない。


(きっと笑いものになるんだろうな……)

 いつにも増して、億劫になる気分。

 おかげで食欲もない。

 せめて身なりだけでもなんとかしようと、アイロン掛けを済ませ、家を出た。


 人間とは不思議なものだ。行きたくないと思えば思うほど、自然と足は速度を増す。

 朝食も口にしなかったこともあってか、出社する時間も早い。

 空はすこぶる快晴で、青空に浮ぶ雲は薄い。秋空が広がっていた。

 けれども、昨日犯した大失態のおかげで、篤の気分は少しも楽にならない。

 篤はもう一度大きなため息をついた。

 篤が世話になっている会社はけっして大企業ではないものの、そこそこ大きい。

 大きな道路沿いにある、五階建ての黒いビル。その二階に、営業部がある。

 一階のホールには大きな観葉植物が置かれ、その天井は吹き抜けになっている。今日のような天気の良い日は、頭上から明るい陽の光が差し込み、居心地のよい空間が作り出される。


 和やかな雰囲気を醸し出しているそこは、篤のお気に入りの風景でもあった。

 そんなロビーは早朝ということもあってか、まだ人はほとんどおらず、がらんとしていた。

 篤は、自分の部署へと向かう。

 エレベーターを中央に置いて、円を描くように部屋が配置される社内はとても広く見える。エレベーターを降り、真正面に見える部屋が営業部第一課だ。篤の勤めている部署でもある。

 誰も出社していないせいもあって、やはりロビーと同じで室内も静かだ。

 壁に掛かっているアルミフレームの時計を見れば、時刻はまだ七時前だった。

「昨日は悪かった。大丈夫だったか?」


 キリキリと痛む胃を抱えたまま出社した篤に、一番はじめに声をかけたのは中根だ。

 どうやら中根が一番に出社したようだ。

 篤は自分用のデスクに鞄を置きながら、小さなため息をついた。


「ああ、うん……」

 これから皆が出社しはじめる。同僚と顔を合わせた時に何を言えばいいのだろうか。

 心ここにあらず。気分はそぞろで、謝罪する中根にあやふやな返事をする。


「だけどさ、びっくりしたぜ? お前ん家、ホームステイでもしてるのか?」

「え? ホームステイ? そんなのしてないけど……」

 中根の、思いも寄らない言葉が篤を驚かせる。

 落ちていた視線は必然的に中根へと移動した。

 彼もまた、驚きを隠せない様子で大きな目を何度も瞬かせている。

 どうやら冗談ではなさそうだ。

「いや、待てよ? でもさ、昨日。家族だって名乗る男がお前を背負って家に帰ったんだぞ?」

「えっ? それって、どんな人だった?」

 訊ねたのは、篤の脳裏にふと、あることが過ぎったからだ。

 それは昨日、昼間に起きたこと。

 訪れたファミリーレストランでの一件。『二名様でございますね』と言う、ウェイトレスの言葉。

 一度は彼女の見間違いだと否定したが、しかし、どうも引っかかって仕方がないのだ。

 まさかとは思うが、ストーカーでもしている人物がいるということだろうか。

 しかしながら、果たしてこんなダメな奴をストーカーする人間は存在するのか。

 まずストーカーは有り得ない。篤は自分の思い違いだと打ち消しながらも、空想とは勝手なもので、意図しなくとも膨らんでいく……。

「どんなって……背が高くて、金髪ですんげぇ美形の……。日本語が上手くてさ、びっくりしたぜ?」

 金髪で美形。


(まさか!!)

 いや、そんな筈はない。

 そこで思い浮かんだのは、夢の中に出てきた、アドレーと名乗る美青年だ。いやしかし、彼は篤の夢の中の産物に過ぎない。現実に出てくるなど有り得ない話だ。

 篤は生まれ出た考えに首を振る。

 だが……。

 否定しても、不可思議なことが続いているのも確かだ。

 そういえば、アドレーの夢を見たのは、あのペンギンを購入した直後だったような気がする。

 もしかして、あのペンギンの縫いぐるみに何か曰(いわ)くでもあるのだろうか。

 たしかに、あの縫いぐるみは他のホビー店と比べても、価格が安かった。

 曰く付きのものだから安かったのだろうか。

 全身から血の気が引いていく……。


「顔色悪いぞ? 大丈夫か?」

「あっ、ああ、うん」

 その日、部内では、昨夜の篤の失態については触れられることなく、金髪美青年の話でもちきりだった。


 そして篤は、もう恐ろしい考えしか思い浮かばず、ただただ怯えるばかりだった。


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