chapter:一輪の花 (七) 「ん……」 次にフィンレイが目覚めると、寝台から身体を起こした。 自分身なりを確認するため見下ろせば、きちんとチュニックやズボンを穿(は)いている。 大きな蛇や獅子の姿はどこにもない。 果たして本当に鮮明なあれは夢だったのか。気怠い感覚も、妙に現実味を帯びているような気がした。 フィンレイが窓の外を見やれば、空は白じみはじめている。 寝覚めが悪かったせいか、もう一度眠りにつく気がなくなったフィンレイは、そのまま寝室を抜け、外の新鮮な空気を吸うべく、屋外に出た。 ただなんとなく足が赴くままに進んでいけば、小さな温室に辿り着いた。 (誰が育てているのだろう) 興味本位で温室の中に入ると、そこには美しい青の花びらを身にまとった薔薇が咲き乱れていた。 いったい誰がこのような美しい花を咲かせているのだろうか。おそらくその者は限りない慈しみや愛を、この薔薇たちに注ぎ込み、育てているに違いない。 たしか青の花びらを持つ薔薇は特に繊細で、闇が勢力を増しはじめた頃からその数は激減し、ずいぶん昔に絶滅したと聞いていた。それがまさか、まだこの地に咲いていようとは――。この世界にもまだこのようにして絶滅したと言われるものが存在している。それが何よりも嬉しくて、フィンレイは笑みを浮かべた。彼の視線は薔薇に釘付けだ。 「綺麗……」 美しく咲き乱れる花々を見ていると、今朝方に見た嫌な夢など忘れ去ってしまう。おかげで温室に入ってきた人物に気づけなかった。 「薔薇が気に入ったのか?」 「えっ?」 突然、背後から低い声に話しかけられ、驚いたフィンレイは慌てて振り向いた。 すぐ背後には、フェイニア国王子、キアランがいた。 まだ朝さえも明けきっていないのに、とても爽やかな出で立ちをしていた彼は、身にまとう深い緑のチュニックと月光のような淡く輝く艶やかな金髪が相まって、朝露のようだ。 「驚かせてすまない」 大地に芽吹く新緑のようなエメラルドの瞳がフィンレイを射貫く。しかし三日前にあった自分を邪険にするような言葉や表情はなかった。 少なからずとも、彼は自分をフェイニア国の一員として受け入れてくれようとしているのだろうか。 そのことが素直に嬉しい。 「あ……わたくしの国は氷に覆われた場所でございます。花はここに来てはじめて目にします」 フィンレイは心ならず身体が熱をもちはじめているのがわかった。 理由はわからないが、美しい王子といると、なぜかこうなってしまうのだ。 「…………」 「…………」 長い沈黙が続く。 その沈黙のおかげで心がとてもそわそわする。何かを話さねばと思うのに、彼の親衛隊隊長のジュリウスのように言葉を巧みに操ることもできない。面白みのない自分には、話の取っ掛かりさえも出てこない。 どうするべきかとフィンレイが俯いていると、キアランは手折れている一輪の薔薇を見つけ、折れた茎の部分を手慣れた手つきではさみで切った。 「あの、これは貴方がお育てになられたのですか?」 「元々は亡き母上の薔薇だったのだが、今は俺が引き継いで育てている」 フィンレイの言葉に、王子はぶっきらぼうに答えた。 「……お悔やみ申し上げます」 キアランの母君は従者の裏切られ、命を落としたとジェライド王が言っていたのをフィンレイは思い出した。この一件は他人の自分が聞いてはいけない話だったのかもしれない。フィンレイがこっそり彼の表情を窺えば、キアランは特に怒っているふうでもなかった。 「あとで花瓶を用意するよう、従者に伝えておく。毎朝、花瓶の水を替えてやるといい」 一輪の薔薇を差し出され、フィンレイは慌てて両手で受け取った。ほんの少し、彼と指が交わる。 彼の熱が伝わり、指先が痺れるような感覚になった。 「ありがとう」 フィンレイが礼を言うと、そこには背を向けて去っていくキアランの姿があった。 胸がほんのりあたたかになる。フィンレイは一輪の青薔薇を胸の前で包み込んだ。 あんな夢ではあるものの、それでもこの美しい薔薇一輪が手に入ったのだ。戦利品は遙かに大きい。普段、こんなに早起きをしたことがないフィンレイにとって、あの夢のおかげで今、この場にいるのだとそう言っても過言ではない。寝覚めは悪かったものの、それでも良いかと思う自分はなんと調子が良いのだろう。 フィンレイは青薔薇が咲き誇るその場所で苦笑を漏らした。 その姿をグレアムが見ているのに気づかずに……。 「これはこれは。フィンレイ王子ではございませんか」 「…………」 今朝になって声を掛けられるのは二度目になる。野太い声に反応したフィンレイは顔を上げると、そこにはチュニックでも鍛え上げられた身体を隠せない筋肉質なグレアムがいた。 彼の姿を目にした途端、フィンレイの身体が強張った。青薔薇を持つ手に力が入る。 「なんとも美しい青薔薇でございますな」 黄色い目を窄め、にっこり微笑まれても気分が和むどころか、心臓が大きく鼓動を繰り返す。 「キアラン王子がお育てになれらたそうです」 それでも何とか平常心を保ちながら答えると、キアランを思い浮かべた。 月光を思わせる美しい金髪の王子、キアラン。あの刺々しい言葉の裏に隠れた真実はおそらく、この薔薇のように美しい慈悲の心を持っているのだろう。美しいあの王子に育てられたこの薔薇たちはさぞや喜んでいることだろう。 キアランのことを考えるだけで、なぜだかいつも胸があたたかになる。そして自分の心が澄んでいくのだ。 グレアムがいるのもそっちのけで、知らず知らずのうちにフィンレイの口元が緩む。 「てっきり青薔薇は絶滅したと思っておりましたのに……」 グレアムの言葉に、我に返ったフィンレイは顔を上げた。 「わたくしも、そのように思っておりました」 もうこの世界に神の恩恵というものはなく、ノースニアに存在しているユニコーンと同じで、滅んでいくばかりだと思っていた。しかし、ここにこうして青薔薇が咲き乱れている。それは自分にはまだ、この世界を守る価値があるのだと、そう教えてくれる。 「しかし、如何(いか)なる美しく繊細な薔薇であろうとも、貴方様の美しさを前にしては曇ってしまいますな」 グレアムが一歩、また一歩とジリジリと近づいてくる。それはまるで、獰猛な肉食獣が獲物を見つけ、捕らえる時のようだ。フィンレイは迫ってくるグレアムに恐怖を感じ、後退する。 しかし、それもすぐに終わる。温室の中は思いのほか狭い。フィンレイの進路は壁によって阻まれた。 「実に美しい……」 とうとうグレアムとフィンレイとの距離がわずか数センチにも満たなくなった。 フィンレイのサファイアの瞳や赤い唇。鎖骨に胸部。下肢へと彼の視線が華奢な肢体に降り注ぐ。 「貴方という薔薇を摘み取り、傍に置いておきたくなるほどに……」 フィンレイに触れようと、彼が鍛え上げられた強靱な腕を伸ばす。 「早く薔薇に水をあげたいのでわたくしはこれで……」 ねっとりと身体にまとわりつく視線が気持ち悪い。 フィンレイは伸びてくる彼の手を咄嗟(とっさ)に避け、足早にグレアムから逃げた。 |