◆ 昨夜も遅くまで、バーで知り合った男とホテルの一室で抱き合った綾人は、やや眠気に襲われながらも家を出た。 綾人が向かう先は、彼が通い始めて二年にもなる国立大だ。綾人はその経済学部に所属していた。 もうすぐ好きな人に会える。そう思うと、歩く速度は自然と上がる。 中学や高校とは違い、山の中にある大学は、家から電車で二時間はかかる。そうまでしてなぜこの大学を選んだのかといえば、理由は単純だ。綾人が恋をしている、凌雅がそこに通うからだ。 綾人と凌雅は都内の高校で知り合った。勉強や運動神経もさることながら、容姿だって凛々しい彼は常に人の輪の中心にいた。綾人は気がつけば彼を目で追うようになり、高校二年の時、念願だった彼と同じクラスになった。 こうして綾人は凌雅に必死に話しかけ、見事、親友という席を手に入れた。しかし、綾人の苦悩はまだ続く。ようやく凌雅とお近づきになれたと思ったら、あと一年で卒業という別れがやって来る。就職や進学といった運命の分岐点に立たされるのだ。 凌雅の父親は大手貿易会社の社長で、彼はそのひとり息子だ。当然、凌雅は大学を出た後、父親の会社の後を継ぐことになる。 対する綾人の父親は一般企業のサラリーマンで、母は専業主婦をしている。彼とは住む世界が違う。そうはいうものの、しかし凌雅への想いを諦めることができなかった。 だから綾人は凌雅と共に偏差値が高いこの国立大を選んだ。 綾人は、凌雅には本当の理由を隠し、ただ奨学金が下りるし経済学部はオールラウンドで卒業してからも文系にも進めるからという理由をこじつけ、図々しくも傍にいる。 綾人が凌雅と共に受けている経済史の講義は二時限目の十二時からで、いつもより少しはゆっくりできる。 それでも、身体は気だるさを隠せないのは、毎夜、凌雅を重ねて別の男に身体を開いているからだ。 好きな人の面影を求めて身体を開くこの行為はいつか止めなければならないだろう。 これを延々と繰り返せば、身体は疎(おろ)か、自分の心さえも見失い、やがては自滅する。 綾人は十分そのことを理解しているものの、けれど四年越しのこの恋はあまりにも深く根付いてしまった。自ら終止符を打つことができなくなっていた。 「おはよう」 綾人が電車に揺られ、長い距離の間に二回ほどの乗り継ぎを経て、大学の第二号館まで辿り着くと、綾人はすっかり耳に焼き付いて離れない彼の声にはっとした。 (あ、凌雅……) 綾人が振り向けば、そこには綾人の想い人、凌雅が立っていた。綾人とは違い、彼は正当な理由があって経済学部に所属している。一限目の授業を終え、経済史の授業に向かう途中でたまたま出会した綾人に声をかけたのだろう。それでも、待ち合わせもしていないのにこうして凌雅と会えるのは嬉しい。 自分よりも頭ひとつ分高い背。すらりとした長い手足。クセひとつない短い黒髪に、ほっそりとした顎のライン。まだ学生という立場にもかかわらず、落ち着いた物腰。 鋭い目が微笑を浮かべ、漆黒の瞳に綾人を映し出す。 相変わらず彼は格好いい。 「なんだ? 今日も寝不足か?」 気怠そうな綾人を見た凌雅の薄い唇が孤を描く。その微笑みの効果は絶大で、綾人の胸を大きく震わせた。 綾人の心は、彼の一挙一動に心奪われる――。 ……凌雅の面影を求めて夜な夜な同性に身体を開く淫らな自分を、彼は知らない――……。 そう思えば、胸がギュッと締め付けられる。 「……うん」 不特定多数の人間に身体を開く淫らな自分とは違い、どこまでも純粋に自分のことを友人として付き合ってくれる凌雅。 彼を前にするとそれ以上何も言えず、自分という存在が急に恥ずかしくなる。 綾人は凌雅と重なった視線を外し、目を伏せた。 「綾人? 何かああったのか? 俺でよければいつでも相談に乗るぞ?」 彼はどうやら綾人が何かしらの悩みを抱えていると思ったようだ。大きな手が伸びてくる。 相談事ならいつだってある。しかし、綾人の胸を締めつけているのはその本人だ。当然、悩みを打ち明けられるはずもない。 『自分は実は貴方のことが好きでした』 そんなことを言えば、彼は綾人の元から離れ、去っていくに決まっている。 凌雅の骨張った大きな手が綾人の繊細な髪を撫でる。綾人は彼から差し出された手をふりほどかず、優しい撫で心地にうっとりと目を閉ざす。そのまま身を任せた。 (このまま――ずっとこうしていてほしい) だが、凌雅は自分とは違う。 綾人のことを、気の合う友人としか思っていない。 傍から見れば、自分の行動がいかに不自然な行為なのかも知っている。それに時間は刻一刻と進んでいく。 綾人は後ろ髪を引かれる思いで、止めていた足をふたたび動かした。自然と凌雅の手が自分から離れる。 心苦しい気持ちが胸に広がった。 そんな綾人の心を見透かすように、ふたり仲良く肩を並べて歩く男女の姿が横目に映った。彼らもおそらく、経済史の講義を取った学生だろう。 ――いっそのこと、凌雅が恋人でも作れば自分のこの気持ちは消えてなくなるのではないか。 綾人の脳裏にふと無謀な考えが過ぎった。少なくとも綾人が凌雅を知っているその時から、女子に人気があった。一日に告白される回数も数え切れないほどあったのを思い出す。そのたびに凌雅に想いを寄せている綾人は、凌雅が取られるのではないかとどれほど冷や冷やしたか。――そして凌雅が大学生になった今、告白される回数がなくなるはずはないだろう。 なにせ彼は、歳を重ねて行くに連れ、男の色香を持ち、さらに魅力的な男性になっているのだから……。 「ねぇ、凌雅は恋人作らないの?」 そうは言ったものの、けれどそれは自分にとって失言だったことにすぐ気が付いた。 もし今、凌雅に好きな人がいると告げられたらどうしよう。実は恋人がいると告白されでもしたら……? 凌雅は眉目秀麗だ。突然彼女ができたとしてもおかしくはない。 自分が尋ねたこととはいえ、それが綾人をさらなる苦しみへと誘う。 しかし、凌雅の言葉は綾人が想像していたものとは違った。 「ん〜、めんどいからいいや、お前いるし」 そう言って、白い歯を見せて爽やかに笑う凌雅。 彼が告げたそれは、綾人のポジションこそが恋人であるという意味なのか。 何気ない凌雅の言葉で心が浮き立つような感情が湧き起こる。 しかし、逆に綾人を苦しめる結果になるのも事実だった。 彼がこうだから、綾人は凌雅を諦めることができないのだ。 彼は優しすぎる。 そして、ひどく残酷だ。 凌雅のたったひと言で、綾人は一喜一憂してしまう。 おかげで綾人は今夜もまた、凌雅に似た男性を探して身体を開く。 そうして綾人は帰宅途中にある『EN-COUNTER』でどこか一箇所でも凌雅に似た男を引っかけるのだ。 しかし、その日常は間もなく崩壊する。それを綾人が知るのは翌日のことだった。