◆ 「ね、ひとり? だったら今からホテルにどう?」 ……綾人にとって、これから自分がどうなろうが、どう思われようがもう、どうでも良かった。 好きな人に軽蔑の眼差しを送られ、散々泣かされた綾人は、そうして自分を抱いてくれそうな相手を探し、声をかけた。その男にもはや凌雅の面影を重ねることはない。 綾人がなりふり構わず声を掛けたのは、歳は四十代半ばの小太り気味な男だった。その男からは凌雅の似ている部分を見いだせない。今までとは正反対のタイプだった。 ここへきて、綾人はただ性欲を満たしてくれる相手を探した。 男ははじめ、見るからに自分よりもずっと年下の相手に話しかけられ、驚いた様子だったが、それも綾人の容姿を見るまでのことだった。彼は椅子から腰を上げ、ふたり一緒にふたたび夜の街へと繰り出した。 男は我が物顔で腕を伸ばし、綾人の肩を引き寄せる。じっとりとまとわりつくような感触が気持ち悪い。そう思うのに、綾人は深い絶望感を忘れるため、肩に回された手を振り解かなかった。 今の気分は最悪だ。暗闇のどん底にいるような気分だ。 しかし、それは凌雅に無理矢理抱かれたことがショックなのではない。軽蔑されたことが原因だ。 綾人はたとえどんなに酷い仕打ちを受けたとしても、凌雅を嫌いにはなれなかった。それだけ、彼への想いが深いことを思い知る。 「…………」 明日から、きっと凌雅は口も聞いてくれなくなるだろう。綾人は唇を引き結び、大声で泣き叫びたくなるのを堪えた。 こんなことになるなら、凌雅に組み敷かれた時にきちんと告白しておけばよかった。そうすれば、こっぴどく振られた自分はいつまでも未練がましく彼を想うことはなかっただろう。 明日も明後日も……。これからは凌雅がいない世界を生きていくのだと思うと、悲しみで心が引き裂かれそうだ。 やはり、今はセックスなんてできる気分ではない。 今日のそれが、たとえ望まぬ抱かれ方だったとしても、凌雅に抱かれたのは事実だ。せめて自分の身体に好きな人の感覚がある内はそれを大切にしたい。 綾人は、『EN-COUNTER』で男に声を掛けてしまったものの、断ろうと唇を開く。 しかし、事は既に遅い。 気がつけば裏通りを抜け、今ではすっかり見知った白塗りのホテルの前にいた。綾人は我に返り、尻込みをしてしまう。 「さあ、今夜はうんと愉(たの)しもう」 男は綾人と肉体関係になることで頭が一杯だった。舌なめずりをして綾人を見やる。 それもまた、生理的に受け付けない。 どうして今夜の相手にこういう男を選んでしまったのか。綾人は過ぎてしまった過去の自分に苛立った。 「あの……やっぱり、今日は……」 緊張でかさつく唇のまま告げると、男は綾人が何を言いたいのかわかったらしい。言葉を遮った。 「おいおい、自分から誘っておいてそれはないだろう? いいからホテルはもう目の前だ。すぐに気持ち悦くなるさ。俺のものを突っ込んで欲しいんだろう?」 男は綾人の耳元でぼそりと囁いた。 男の視線が綾人の身体をなぶるように見つめ、肩に回していた腕の力が綾人を逃がすまいと強くなる。その瞬間、綾人は好きな人以外に抱かれる恐怖を覚えた。 今までは麻痺していた神経が目を覚ました。それはおそらく、好きな人に抱かれたからだろう。いくら慣らされていないとはいえ、苦痛を訴えながらも綾人は凌雅を受け入れた。それもすべて、恋心というものがあるからだ。 ――ああ、自分はなんて愚かだったのだろうか。凌雅に嫌われることを恐れ、他人に身体を開いたところで結局は何の解決にもならなかったのに……。 綾人は過去の行いを悔いた。 「いやだ、離して!」 綾人は必死に抵抗し、男から逃れようと踏ん張る。しかし、男は綾人よりも頭ひとつ分は高く、身体もずっと大きい。綾人は引きずられるがままにホテルへと連れて行かれる。 「凌雅! いやっ、助けて!!」 愛おしい彼を呼んでも無駄なこと――。 凌雅は綾人の性癖を蔑(さげす)み、誰にでも身体を開く淫らな奴だと罵(ののし)った。どんなに叫んでも彼が来ないことはもう知っている。 それでも綾人は好きな人の名前を叫び続ける。 「凌雅、凌雅!!」 幾度となく悲壮感を漂わせた声が赤い唇から放たれる。 「綾人!」 「へ? うわわっ!!」 凌雅を呼び続けていったい何度目だろう。綾人の想い人である凌雅の声が突然背後から聞こえた。その途端、綾人の身体が勢いよく後ろに引っ張られ、新たに現れた誰かの両腕にすっぽりと収まった。 綾人を包み込むその腕は強い。抱き締められていると、なぜかとても落ち着いた。 (誰?) 綾人は恐る恐る顔を上げると、そこには襟足まで満たない短い黒髪に一重の目。均衡のとれた凛々しい凌雅がいた。 (凌雅!?) 嘘だ。自分は嫌われてしまった。だからいくら綾人が望んだとしても目の前に現れるわけがない。 綾人は自分の目を疑い、何度も瞬きを繰り返す。 これが幻覚だと自分に言い聞かすものの、腰に回された彼の腕が妙に現実味を帯びている。 綾人を背後から抱き締めるような格好でいる凌雅を、綾人はただ見つめ続けた。 「悪いが、これは俺の連れだ、返してもらう」 相変わらず強気な物言いをする凌雅はたとえ年上でも怯まない。それは優柔不断の綾人が好きになった、自分にはない彼の一面だ。 しかし、相手の男はやはり年上ということもあり、余裕だ。 「返すも何も、こいつがホテルに行こうと俺を誘ったんだ。こいつは俺に抱かれたがってるんだよ」 「っつ……」 男の言葉に、綾人の身体がひとつ大きく震えた。 自分はまた、男と一緒にホテルに入るところを凌雅に見られてしまった。 自分の身体を包むこの腕はやがて消えていくことだろう。 綾人は唇を噛みしめ、俯く。 けれども凌雅は綾人の考えているようには動かなかった。綾人の身体に回っている腕に力が入る。 これには綾人もびっくりだ。俯(うつむ)けた顔をふたたび上げると、口角を上げ、不敵に笑う彼がいた。 「残念だけど、こいつに見合うのはあんたみたいなおっさんじゃなくて、あんたよりもずっと顔も性格もいい俺の方なんだよ」 凌雅は相変わらず自信たっぷりの物言いだ。しかし、モデルのような容姿の凌雅を目にした誰もが違うと言い切れないのも事実だ。自分に自信があるところもまた彼の魅力でもある。 「綾人……」 そうだろう? 耳元で息を吹きかけられ、尋ねられればもう何もできない。 「ん……」 綾人はゆっくりと頷いた。 「凌雅、凌雅……」 たとえこの凌雅が綾人の幻覚でもいい。綾人は凌雅の首に腕を回し、縋りついた。 トクントクンと規則正しく鼓動する心音が心地好い。 綾人はたくましい凌雅に身体を預けた。 「綾人……」 熱っぽい声が綾人の旋毛に触れたかと思うと、腰に回されていた手は頬へ移動した。その手に促(うなが)されるまま上を向くと、綾人の唇が塞がれる。 「っふ、んぅう……」 信じられなかった。 だって今、自分の唇を塞いでいるのはバーで知り合った男ではなく、自分が想いを寄せているその人なのだ。 だからこれは綾人の勝手な夢だと自分に言い聞かせる。 そうこうしているうちにも、彼の手が後頭部へ移動し、綾人の口角が代わる。そうなるとよりいっそう唇の接合が深くなった。 「んっ、っふ……」 綾人が悩ましげに唇を開くと、滑らかな舌が口内に入ってくる。 上顎から歯列へ、そして下顎へと我が物顔で口内を蹂躙する舌を追いかけ、絡めると、凌雅もまた負けじと綾人の唇を貪る。キスの合間には綾人の悩ましげな声が弾き出る。 (凌雅、凌雅……) 「っふ、んぅ……っは……」 綾人は差し出された舌を夢中になって貪る。そのたびに淫猥な水音が生まれた。 まだキスしかしていないのに、彼との口づけだけで綾人の下肢が疼きはじめる。 この続きを心待ちにしていた綾人の淫らな身体は、しかしそれ以上のものは与えられなかった。 「……行ったな」 唇を離し、そう言った彼の意図を、綾人はそこでようやく理解した。 後ろを振り返れば、綾人が引っかけたはずの男がいない。 今はこの場所に凌雅と綾人の二人きりだった。 ――それはつまり、男をこの場所から遠ざけるための手段だったことに他ならない。 「もう大丈夫だ。恐かったよな……」 凌雅は綾人の乱れた髪を整えながら静寂を破った。大きなその手が綾人の頭を優しく撫でてもけっして嬉しくはない。 彼の低い声で我に返った綾人は頭打ちを食らった。 そうだ。凌雅という人物は、昔からこういう一面があった。いつも強気で凛々しい彼は一見すると冷たい印象を見られ勝ちだが、その実は世話好きだった。それを自分はなぜ、今の今まで忘れていたのだろう。 彼にとって、綾人の胸を焦がすようなキスは他愛のない、ただ困っている人を助けるためのなのでしかない。 もしかすると心の奥底では自分とのキスは気持ちが悪いと思っているかもしれない。だって綾人は普通では考えられない性癖を抱えている。 今日の午前中、自分はそれを痛いほど目の当たりにしたではないか。 ……胸が痛い。 息ができないくらい、苦しい。 また、凌雅に蔑んだ目で見られるのかと考えただけで、綾人の心は潰れてしまいそうだ。 「……助けてくれてありがとう。でも別によかったんだ。ほら、僕って誰にでも身体を開く淫乱だし? ああそうか、凌雅ももしかして僕の身体が好きになったの?」 それが本当ならどれだけ救われただろう。凌雅が堅物ではなく、欲望に忠実な人間だったならどんなに良かっただろう。『身体だけの関係でもいいから付き合ってほしい』とそう言えたなら、綾人はこんなに苦労しない。 だが、実際のところ凌雅はいつだってどんな人間にも対等だ。だからただ単に身体の相性がいいセックスだったからという理由で綾人を組み敷くことはない。 彼はいつだって気高い王子様のような人なのだ。だからこそ、綾人は凌雅に恋をした。彼の身代わりなんて、誰にもできない。 「僕の身体が気に入ったならそう言ってくれればいいのに……」 綾人は込み上げてくる涙を必死に堪え、自らの唇を凌雅の唇に近づけた。口づけをするために爪先を立てて身を寄せれば、凌雅の手が綾人の両肩を押さえた。 「やめろ!! もう十分だ」 凌雅の拒絶する声が綾人の胸を貫く。 「……そう、だよね。ごめん。汚いよね……」 (ほら、やっぱりだ) ――女子にも人気の彼が、いったいどうして穢れた自分に手を出すだろう。 自嘲気味に笑う綾人の声は裏返っている。 自分がものすごく惨めに感じた。 綾人は嗚咽を漏らさないよう唇を引き結び、彼の腕から離れようとした。しかし思いのほか肩を固定する手の力が強い。 「凌雅、離して……もう、大丈夫だから。貴方の前には今後一切現れない……だから……安心して……」 大学の編入も考えなければ――……。 凌雅とはもう二度と会わない。それを決意した途端、とうとうはしばみ色の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。 「綾人?」 涙を流す綾人の顔を心配そうに覗き込む凌雅が恨めしい。 早くここから出なければ――。これ以上優しくされたなら、『好き』という気持ちがさらに大きく膨らんでいく。 この気持ちがこれ以上大きく膨らんでしまえば、いったい自分はどうなってしまうのだろう。 凌雅に溺れてしまう自分が恐い。 「ごめん、だけどひとつだけ……貴方を好きでいることを許してほしい」 好きな人の代わりを探し、凌雅に抱かれる夢を見て、彼を穢した。こんなに汚い自分だけれど、それでもこの気持ちだけは大切にしたい。 綾人は、四年越しの恋を告げるため、震えた唇で紡いでいく……。 「綾人? なにを言って……」 「凌雅を好きになってごめんね、ごめんなさい。同性に何言ってるんだって思うよね。気持ち、悪いよね」 だから早く離してほしい。もう優しい言葉なんてかけてくれなくてもいい。冷たくあしらって、嫌いだと言って。そうしたら自分はきっと……今でなくてもいつの日か、凌雅を忘れられる日が来ると思うから……。 綾人は願いを込めて胸板を押す。 すると、凌雅はまだ困惑気味のようで、綾人に尋ねた。 「綾人? 好きってなに? どういうこと?」 自ら犯してしまった罪を言わなければならないことが辛い。それでも自分がしたことは凌雅を穢す行為に他ならない。 綾人はゆっくり唇を開く。 「凌雅に嫌われるのが恐くて告白できなかった。意気地のない僕が悪かったんだ。僕と同じような性癖の人が集まるバーで凌雅に似た仕草や格好の人を探して、凌雅を重ねて寝た……」 「じゃあ、さっきのも?」 尋ねる凌雅の声は不機嫌だ。たしかに、あの男と凌雅が似たような箇所があると言われたらショックだろう。なにせあの男といったら、凌雅とはかけ離れすぎたルックスだった。 「あれは……もうヤケになったっていうか……凌雅に嫌われたから……どうでもいいかと思って……」 もういいでしょう? 離して――。 綾人は三度口を開く。だが、力強い腕は綾人を離さなかった。それどころか、さっきよりもずっと強い力で閉じ込められる。 「凌雅!!」 パニックになった綾人は短い悲鳴を上げた。 「嫌だ。離すもんか。――ああ、嘘だろう? 綾人が俺を好きってなんだよそれ」 困惑を隠せない綾人の旋毛に、唇が落とされた。 「違うんだ。謝るのは俺の方だ。なんていうの、この気持ち。すげぇ嬉しい!!」 「……凌雅?」 てっきり凌雅に拒絶されるのかと思っていた綾人は、これには驚いた。瞬きを繰り返す。そのたびに、大粒の涙がこぼれ落ちていく……。 「……違うんだ。今朝のは、その、なんていうか……お前に当たったんだ。……ごめん」 「当たる?」 彼はいったい何を言っているのだろうか。綾人の頭は混乱している。 眉根を寄せ、彼を見上げると、凌雅は整った眉毛をハの字にして苦笑を漏らしていた。 「綾人の一番は俺じゃないって思ったら腹が立ってきて……。綾人が知らない男と一緒にいることが嫌だった……俺ってほんとまだまだガキだよな」 「えっ? それって……?」 「好きだよ綾人。俺は君を想っている」 「っつ!!」 これは夢? それとも現実? 綾人は恐る恐る、凌雅の頬に触れた。 凌雅を確かめる行為に、凌雅もまた綾人の手を大きな手で覆う。凌雅は綾人の手をそのまま薄い唇まで滑らせ、手のひらにキスを落とした。 「んっ……」 綾人がくすぐったくて肩を窄ませると、薄い唇が綾人の耳朶を食んだ。 「お前はずっと俺の側にいるもんだと勘違いしていたんだ。いなくなって初めて気が付いた。酷いことをしたのは自覚しているし、謝って済む問題じゃないのはわかってる。だけど俺は……」 「凌雅……好きでいていいの? 凌雅を想っていてもいい?」 綾人は現実が信じられず、凌雅の言葉を遮った。 「綾人が嫌だって言っても、俺が未練たらしく綾人を想うし、離さない」 凌雅がそんなことを言うわけがない。だって彼はいつだって冷静沈着だ。どんなに美人な女性に告白されても見向きもしなかったその彼が、同性で、しかも他の男に身体を開く穢らわしい自分を想ってくれるはずがない。 綾人は四年もの間、ずっと凌雅に恋をしていたのだ。 これはきっと何かの間違いで、もしかしたら自分はおかしな妄想をしているのかもしれない。 でも、それでも……。 今を逃したら、これ以上の幸福はないだろう。 「夢、でもいい。僕は……」 天にも昇る気持ちとはまさにこういうことを言うのだろう。 綾人は涙ぐみ、凌雅に縋る。 「う〜ん、夢じゃないんだけどな……」 困ったようにそう言う凌雅の手が、綾人の腰に回る。 たとえ夢の中でも自分を受け入れてくれる凌雅が嬉しくて、彼の胸に頬を寄せた。 しかし、どうも様子が変だ。綾人の腰に回っている凌雅の手の動きがおかしい。 凌雅は綾人のそこをしきりに撫でている。 「あの、凌雅? お尻……」 綾人は自分の双丘を撫でる手に身じろいだ。どうしたのかと彼を窺えば、凌雅は唇の端を上げ、いたずらっぽく微笑んだ。 「セックスのやり直し、させて」 その言葉の意味は知っている。彼は綾人を抱く気だ。 実感すると、綾人の身体が熱を持ち、疼きはじめる。 「……っでも、あの……」 恥ずかしい。いくら自分を組み敷く凌雅に抱かれる空想をしていたとはいえ、しかし、実際に凌雅とこういう関係になるとは夢にも思っていなかった。 いや、実際といっても今のこれは夢だと思うから、現実ではないにしても、それでも凌雅とのセックスは他の相手とは訳が違う。 綾人の心臓は大きく鼓動を繰り返している。 「ラブホテルが目の前にあるのにやることをやらないのは恋人としてどうなの?」 耳元で尋ねられた凌雅の甘い吐息が綾人の耳孔に直接注ぎ込まれる。 「それにこれは綾人の夢なんだから、別にいいでしょう?」 「そう、だったとしても、でもっ!!」 たとえ夢でも好きな人に抱かれるのだ。心の準備というものが必要になる。 「…………」 これはなんて勝手な夢だろう。それだけ自分は凌雅に抱かれたいと思っているのだろうか。自分の目の前にいる凛々しい凌雅を恨みがましく睨んでみると、薄い唇が孤を描く。 凌雅の姿に見惚れた綾人は、彼に釘付け状態だ。拒絶することを忘れてしまった。 「綾人が欲しい」 「っつ!!」 耳元でぼそりと囁く凌雅に、綾人は身体を震わせた。 (凌雅……) 綾人はにっこり微笑む凌雅に抵抗できず、観念して頷いた。