◆ その日は、広い屋敷にいるのはいつものことながら、世話を焼いてくれる侍女と二人だけで、匡也は仕事で家を留守にしていた。 太陽の光がさんさんと輝き、静かな昼間が続く。 けれど、どんなに明るい日差しの中でも春菊の気分は落ち着かなかった。それはまるで、これから起こる出来事を感じ取っていたのかもしれない。 「奥方様、この先は困ります!!」 「何が困るのですか。息子がどのように暮らしているのかを知るのは母として当然のことでしょう?」 春菊は、甲高い女の人と、その人を制するための侍女の焦り声がこちらへ向かってくる足音と共に聞こえ、寝間から起き上がった。 体調は世話してくれる侍女と匡也のおかげでずいぶん良くなり、今では広い屋敷の庭を隅から隅まで軽々と歩けるようになっていた。――にも関わらず、塞ぎがちになっているのは、匡也に捨てられるかもしれないという思いと、離れたくないという想いがあったからだ。 おそらく、匡也は自分が動けるようになればすぐに捨てるだろうとそう考えていたからであった。 春菊は傍らに置いてある反物を肩にかけたと同時に、目の前の障子(しょうじ)がコトリと開いた。 目の前では、いつも春菊を世話してくれている侍女と、肩で呼吸する見知らぬ女性が立っていた。 ――いや、違う。その女性はどこかしら雰囲気が匡也に似ている。春菊はそう思った。 「私が知らないうちに、こんな得体の知れないのをどこで拾ってきたの!! 母に相談もしないで!!」 春菊を見るなり、大声で怒鳴る女性の目は血走っている。母と名乗るその人物は、やはり匡也の親族のようだ。 どうりで雰囲気がどこかしら似ているはずだ。 「奥方様!! この方は!!」 「お黙りなさい、侍女ごときが!!」 侍女が春菊と女性の間に入り、制止させようと試みるものの、女性は怒りっぽいようだ。侍女を見下し、進路の邪魔になっている彼女を跳ね除けた。 「いいこと? 匡也はね、さる立派なお屋敷の方からお抱え医師になるよう説得されているような身の上です。貴方みたいなのを囲っているなどと知られれば、世間体が悪くなる一方ですのよ? 貴方はここから早々に出て行くべきです。そうは思いませんか?」 (ああ、俺はやっぱり、匡也さんの邪魔になっているんだ……) もうだいぶ身体はよくなったというのに、呼吸困難になったように胸が苦しい。恐れていたことが現実になったのだと思った。 絶望を感じ、唇を噛み締め、ただただ項垂れる春菊に、匡也の母親だと名乗る女性は、これが最後だと言わんばかりに、とどめを刺してきた。 「あの子にはいい縁談がきているんです。三日までに出て行ってちょうだい」 女性はぴしゃりと言い放つとすぐに春菊の前から立ち去った。彼女を見送るため、侍女も後を追う。 春菊以外誰もいなくなったその場所はシン……と静まり返った。 「……っつ!」 三日後に縁談――匡也の母親はそう言った。 ――想っているのは自分ひとりだけで、やはり彼は自分を想ってくれてはいない。 ひとつ屋根の下にいながら、手を出さなかったのが何よりの証拠だ。それどころか、彼は春菊を突き放すように寝室を別にしたのだから……。 「……っ情けなんて……かけられたくなかったっ……」 ひとり取り残された春菊は、痛む胸を押さえ、悲しみに耐えるしかない。 春菊は切れない涙を流し、やがてやって来る別れを感じながら一人の時間を費やした。