◆ 誰もが寝静まったその日の夜、春菊は縁側を抜け、庭へ降り立った。 少し寒い……。 そう感じるのは、何も今が紅葉の季節だからというわけではない。 『匡也から離れる』 そう思うだけでいっそう寒さが増した。 けれど、このまま、自分がここに居れば、必ず匡也に迷惑がかかる。 それならば、匡也の母親に言われたとおり、ここから早々に出ていくしかない。 (でも、匡也さんから離れてどこに行けと言うのだろう) 金子も持ち合わせがない自分には行き先など、どこにもない。薄手の衣のまま、立派な門構えをくぐり抜けると、見えてくるのは大きな川だ。 はじめてここへ来た当初、緩やかに流れる川は故郷の海に繋がっているのかもしれないと、ふと思った。 (この川に添って行けば、海に出られるだろうか……) ふと、そんなことを思ってしまう。 このままいなくなっても平気だろう。誰も自分を心配する人など居るはずがない。 匡也だって、一時の虚しさだけで、奥さんを迎え入れればすぐに立ち直り、そうしてあたたかい家庭を築く。 ただ自分が死を受け入れさえすれば……。 どのみち、自分はあの廓の中にいれば死を待つばかりの人間だった。結果は同じで、ただ死ぬのが早いか遅くなったかだけのことだ。 春菊は自分にそう言い聞かせ、川の水に足を沈めた。 ひんやりとした身を凍らせるような冷たさが全身を襲う。 だが、それもほんの一時だけだ。 (すぐに麻痺してしまうだろう。この……胸の痛みと一緒に……) 春菊は死を覚悟して目を瞑(つむ)る。 瞼の裏にあるのは愛おしい、優しい微笑みを浮かべた匡也の顔だ。 歩を進め、身体をゆっくり沈めていく……。 そうして胸のあたりまで水に沈んだその時だった。 「春菊!!」 自分の名を呼ぶ愛おしい人の声が聞こえたのは気のせいだろう。なにせ彼は、自分がいなくなったことを知らないのだ。 (絶対、彼の声なんかじゃない!!) 春菊は自分の考えを否定するとさらに身を沈ませようと力を抜いた時だ。力強い腕を感じたかと思えば、春菊の身体が水面から引き上げられた。 見上げれば、そこには幻聴だと思ったその人の姿がある。 「いやぁ、離してっ、離してっ!! お願い死なせてぇぇっ!!」 春菊は必死に身体をひねり、自分の腰に巻きついているたくましい腕から逃れようともがく。 だが、まだ病み上がりの春菊には健康な彼の腕を振りほどくことは困難で、だからすぐに川から引きずり出された。 (俺は死ぬことも許されないのか?) 川のほとりに倒され、春菊は絶望に暮れる。 「貴方は何を考えているんです、春菊!? 」 荒々しい息を立てながら、同じようにずぶ濡れになってしまった彼――匡也が怒鳴った。 そんな荒々しい声を春菊に発せられることが今までになかったから、内心とても驚いた。 しかし、それもそのハズだ。なにせ彼は人の命を助ける医者で、みすみす自殺しようとする人間を許せるはずがないだろうから。 そう思った時、春菊の頭は、考えることを止めた。 「ひどい……」 冷たい水に浸かったおかげで身体の芯から凍えてしまう。 おそらく、唇は真っ青になっているだろう。 その唇から出た言葉は震えている。けれどその震えは寒いからだけではない。匡也にはけっして通じない想いがあるからだ。 「匡也さんは酷い。貴方を想っているのに……身請けしてくれて嬉しかったのに……なのに、俺を抱いてくれないどころか寝屋も別で、しかもお嫁さんを迎えるなんてっ!! ずっとずっと想い続けて、側にいられると思って……それなのに、俺を捨てようともしないなんて!! 俺がどんなに貴方を想っているのか知らないでしょう? 死にたい、死なせてよ、俺はもう貴方なしじゃ生きられないっ!!」 涙が頬を伝い、春菊の悲しみが胸に広がる。 この想いを知られたのだ。もう側に居ることすらできないだろう。 春菊はやがて去って行く彼から視線を外し、ただ地面に項垂れ、嗚咽とともに涙を流す。 こうして自分はひとりで生きていくのだと、そう思った。だが、その考えは外れる。 春菊の身体は突然冷たい地面から浮いた。 「本当に? それは本当かい?」 訊ねてきた声は春菊と同じように震えている。腰に回された腕の熱を感じて春菊の呼吸が一瞬止まった。 「本当に、君は俺を想ってくれてるのかい?」 「あ、あの……匡也さ……っふ」 突然の出来事に何が起きているのか分からず、匡也に訊ねようと口を開けると、すぐに唇が降りてきて塞がれた。 「ん、っぅぅ……」 唇を重ねた先に熱い舌が滑り込み、春菊の口内を蹂躙する。 川の水を浴びた身体は冷え切っているはずなのに、匡也から受けた口づけで熱を持つ。 春菊は何も考えられないまま彼の首に腕を回し、与えられた唇の感触にうっとりと目を閉じた。 口づけの熱にうっとりしていたから、春菊は匡也に抱きかかえられ、屋敷に戻ってきたことを気づけずにいた。 そのことに気がついたのは、明かりに照らされた部屋で柔らかな敷布団の上に寝かされてからだ。