◆ 「……ん……」 ここはどこだろう? 目を開けたそこは――天井の離れたところに通気口がふたつ見えた。 時折冷たい風が半分ひらいた窓から入ってきて、白いカーテンがゆらゆら揺れる……。 カーテンと同じ白色をした壁にかかっている時計を見ると、時刻は昼の2時を指していた。 どうやら僕はあれから少し気を失っていたらしい。 僕はふかふかのベッドで仰向けになっていた。 白で統一されたこの部屋はどこだか知っている。 一階の、職員室の隣にある保健室だ。 「あ、気がついた?」 ――え? 次に、僕の耳に飛び込んできた声でびっくりした。 僕がびっくりしたのは、保健室にいるのは僕ひとりだと思っていたから、まさか声をかけられるなんて思わなかった。 ……っていうのももちろんあるんだけど、実はそれだけじゃない。 だって、僕の救世主、アラタさんの声が聞こえたんだ。驚かない方がおかしい。 僕は布団を跳ねのけ、上体を起こす。 そんな僕の隣には、新先生が細い眉をハの字にして、パイプ椅子に座っていたんだ。 「保健の先生は睡眠不足だって言っていたよ。君が急に目の前で倒れたから驚いた。何か悩みがある? いや、言えないんだったらいいんだ。無理にとは言わない。ただ、君と俺は男同士だし、年齢もそこまで離れているってわけじゃないだろう? 何か役に立てればって思ったんだ」 『やっぱり迷惑かな』 新先生はそう言うと、眉間にしわを寄せて心配そうに僕を見つめていた。 迷惑だなんてとんでもない。 だって、僕がココにいるっていうことは、気絶している僕を先生が抱えて保健室まで運んでくれたっていうことでしょう? それに、僕が目が覚めるまでずっと側にいてくれたっていうことだろうから……。 そう思うと、心配をかけてしまってものすごく申し訳ないって思う反面、気にかけてくれて嬉しいとも感じた。 だって、僕はかなりの人見知りで、小学校や中学校なんかでも今まで何度も教育実習生はやって来たけれど、結局その人たちとしゃべったことなんてないんだから。 当然、相手も僕のことなんて気にかけることもなかったと思うし、僕っていう人物がいたっていうことも記憶には残っていないと思う。 だけど、新先生は違った。突然倒れたっていうのもあるんだろうけど、彼は僕を心配してくれている。そのことがとても嬉しい。 だから僕は、他人にはめったに言わない自分のことについて、新先生に話しはじめる。 ほぼ面識のない人にこんなことを言うのはおかしいって自分でも思う。 だけど僕にとってアラタさんは救世主で、そんなアラタさんの声にそっくりな新先生だ。 言ってみようかなって思うのも、ムリはないよね。 「僕、昔から熟睡できない体質なんです。でも、日に日に睡眠時間が減ってきてて、2時間ごとに目が覚めるっていうか……。そんな感じで夜は寝たり起きたりを繰り返すようになっていたんです。たぶん、原因は僕の『考えすぎ』にあるじゃないかなって思うんですけど、でもこれはどうにもできなくって……。『考えすぎ』っていうのは――僕、人と話すことが苦手で、コミュニケーションがうまくできないんです。他人の目ばかり気になって、ちょっとしたことなんですけど、たとえば、月曜の朝礼の時、朝から人をかき分けて並ぶのがいやだなぁとか。自分の出席番号と同じ数字の日が来たら授業で当てられる回数も増えるし、当てられた時にどんな質問が来るんだろうとか。質問に答えられなかったら、みんなに馬鹿にされるんじゃないかとか。――そんなことが頭の中でぐるぐる回ってしまうんです」 ここまで一息に言うと、僕は静かに息を吐いた。 心臓がドクドク言ってる。 自分のことを話すと、どうしてこんなに息が詰まるんだろう。 コンプレックスを簡単に口にできない自分がものすごくもどかしい。 その間、新先生はずっと黙ったまま僕の話を聞いてくれている。 僕は息継ぎのため、口を閉ざしたんだけど、新先生は続きがまだあるだろうっていうことがわかるみたい。 僕がまた話すのを待ってくれているみたいだった。 新先生が黙っていなければ、きっと僕はこの続きを話そうとはしなかったと思う。だって、この続きはアラタさんっていう僕にとって特別な人を通しての出来事だ。 コンプレックスを話すよりもずっと口にすることができない大切なものなんだから......。 だけど、新先生は言葉を挟まない。 そしてまた、僕は口をひらいて続きを話しはじめる。 「それから毎日、こうやって熟睡できない日が続いてました。でも、今から一週間前くらいの時までは寝る前に放送している、あるラジオ番組を聴くようになってそれも改善されたんです。その番組でパーソナリティーをしている人の声がとても心地よくて、気がついたら朝まで眠れるようになっていました。だけど――」 「また眠れなくなったのはどうして?」 そこではじめて、新先生は口を開き、優しい声音で僕に問うた。 どうやら話の続きを知りたがっているようだ。眠れるようになった僕がどうしてまた眠れない日々を送っているのか。 新先生は小心者の僕を馬鹿にするんじゃなくって、僕自体に興味を抱いてくれているみたいだ……。 そんなふうに思ってくれるのははじめてで、僕は少し嬉しくなって、続きを話す。 「もともとパーソナリティーを務めていた人がいて、その人が風邪で寝込んじゃった代わりに彼はパーソナリティーを臨時ですることになったそうなんです」 「なるほど、それで元のパーソナリティーが仕事に復帰して、声が聞けなくなったから、海里君はまた眠れなくなってしまったのか……」 「その人の声を聴いて眠れるとかおかしいって思うかもしれないけど、そうなんです。それで、その人の声と新先生の声がすごく似ていて……」 「俺の声が、そのパーソナリティーの声に?」 「はい」 驚いている新先生に、僕はゆっくりうなずいた。 パーソナリティーの『アラタさん』の声に出会って安眠できていたこと。 そして、アラタさんの声と新先生の声が似ていることを全部、話した。 もうこれ以上は、何も話すことがない。それが僕の中にあったことすべてだからだ。 だけど、それから新先生は黙ったきりになってしまった。 それって、新先生は僕のことをかなりの小心者だって思っているのかもしれない。 どうして眠れないのかって訊かなきゃよかったと後悔しているのかもしれない。 ――いや、それよりも、男がこんな悩みで眠れなくなるなんておかしいと思っているのかもしれない。 アラタさんと同じ声っていう、たったそれだけで、これを話したのは間違いだったのかも……。 僕は顔を俯けたまま、新先生の表情が気になって、うわ掛け布団の上から視線だけを移した。 そうしたら、新先生がグレーのスーツの懐からメモ帳とボールペンを取り出したのを見た。 サラサラと、ボールペンが紙の上をなぞる音が奏でられる。 「?」 いったい何を書いているんだろう。 何を書いているのかが気になって、新先生を見上げる。 そうしておかしな沈黙を破ったのは新先生の方だった。 「これ、俺の電話番号。俺でよかったら電話してくるといいよ。眠る前でもいいし、ヒマな時でもいいから」 メモ帳をビリリと破って、うわ掛け布団を握っていた僕の手に渡してくれた一枚の、紙の切れはし。 そこには十一桁の数字が連なる番号が書かれてあった。 それが電話番号だって気がついたのは、新先生が次の授業のために保健室から出て行ったあとのことだったりする。 ……けっきょく、その日、僕は保健の先生に帰宅するようすすめられ、家に戻った。