◆ 「ただいま〜」 木枯らしが吹いている風に当てられて、冷たくなった手をこすりながら、五階建てのマンションの螺旋階段を上り、501号室と書いてあるプレートの下についている桃色のドアを開けた。 オレは、辞書や教科書。それから友達から借りた少年系の雑誌やらと、多種多様なものが入った大きい学生鞄を廊下に置いて、学生靴からスリッパに履き替えようとしていた。 「サクラ、お帰り。ちょうど良かったわ。雅くんのところにオカズを持って行ってあげてほしいのよ」 雅さんのことを考えていたちょうどその矢先――真っ直ぐ伸びた廊下の先にある台所から、母さんの声がして、オレの心臓が跳ねた。 「ええ〜? めんどくさい」 とっさに出た言葉。だけど本音は違う。 オレはいつだって、雅さんに会いにいく都合を何かと考えている。 跳ねる心臓をなんとかしたくて、照れ隠しでそう言ったんだ……。 「なにが、『めんどくさい』よ。今日から一週間、雅くんのご両親は旅行に行ってるでしょう? しっかり者の雅くんだから、大丈夫だとは思うけれど、学校が終わってからご飯を作ったり大変だものね。ウダウダ文句言わずに行ってきて」 そんな感じで、抗議するオレの内心を知らない母さんは、怒り口調でそう言うと、スタスタと足早に目の前までやって来た。 ズイっと突き出された片手鍋からは、クリームシチューの匂いがした。 「今日、シチュー?」 匂いを嗅いで尋ねると、母さんは腰に手を当てて、頷(うなず)いた。 「雅くん、大好物だから。ついでにアンタもだったわね」 『ついでに』って、ものすごく傷つくよ母さん。 オレがシチューを好きになったのも、もちろん雅さんの影響だったりする。 ――ああ、オレって、ほんとに雅さんばっかりなんだな……。 そう思うと、勝手に口元に笑みがこぼれる。 今まで、よくもまあ、雅さんへの想いに気づかなかったよな、オレ。 ――なんて思いながら、差し出された片手鍋を学生カバンの代わりに受け取って、学ランの上にコートを羽織ったままの、いわゆる学校から帰ってきたままの格好でドアノブに手をかける。 あたたかい蒸気があった家から一歩外へ出ると、枯葉をひとつ運んだ木枯らしが、まるで標的を見つけたみたいにオレめがけて吹いてくる。 「さむっ!!」 ひらひらと舞う枯葉を横目で追いながら、502号室と書いたプレートの下にあるインターホンを鳴らすと、乾燥している空気に機械音が虚しく響いた。 だけど、今のオレにとっては幸せの鐘の音のように思える。 ……なんて、ちょっと大げさだったかな。 「はい」 澄んだテノールの声が機械越しから聞こえると、それだけで、心臓は早鐘を打つ。 「雅、だれ?」 『雅さんが好きなシチューを持ってきたよ』 そう伝えようと、口を開けた。だけど、インターホン越しから聞こえる女性の声に、木枯らしは容赦なくオレの体を突き抜けていった。 ああ、彼女さん、居たんだ……。 手にしていた鍋がなぜだろう、ものすごくちっぽけなものに見えて、ひらきかけた唇を噛み締める。 オレの脳裏には、街中で見かけた時の――ふたりが笑い合う姿が脳裏に過(よ)ぎった。 けっして届かない恋心。 わかりきっている答えを目の前で突きつけられて、オレの心さえもが冷たく凍っていく……。 「……っつ!!」 胸が、張り裂けそうなくらい痛い。 オレは何も言わないまま、来た道を戻った。 さっき出て行った桃色のドアを開け、家に戻ってきたオレは、スリッパに履き替えず、素足のまま廊下の突き当たりの台所にあるテーブルに片手鍋を乱暴に置いた。 おかげで、雅さんに渡そうとしていた小鍋が、虚しく音を立てて存在を強調してきた。 オレの想像の中では、雅さんはひとりで家にいて、嬉しそうに小鍋を受け取ってくれる場面だった。 だけど、実際はどうだろう。彼は彼女さんと一緒にいる。いいようにシナリオを作っていた自分が、惨めでたまらない。 衝撃的な出来事を早く忘れたくて、オレは足早に自分の部屋に向かう。 「サクラ? ちゃんと雅くんにシチュー渡せた?」 台所の隣にある部屋から、テレビの音と一緒に聞こえた母さんの言葉が最後のトドメ――。 渡せるわけがない。 彼女さんが、おそらくは夕食を作ってくれているだろうその場面で、『母さんがシチューを作ったから、持ってきた』などと、言えるわけがない。 それ以前に、オレ以外の人と笑い合っている雅さんの顔なんて見たくない。 「渡してない。彼女さんがご飯作ってたっ!!」 言ってからすぐに自室のドアを閉め、待ち構えているベッドへと倒れ込む。 「……っつ」 雅さんに彼女さんがいるっていうことは知っていた。今さら傷ついてどうするんだよ。 仮に、彼女さんがいなくたって、彼と同性のオレは恋愛対象にもされない立場だ。 馬鹿だなオレ、勝手に想って勝手に傷ついてさ……。 ほんと、バカ。 今まで我慢していた涙が目からあふれ、口からは嗚咽が漏れる。 泣けば余計に悲しくなる。 「…………っふ」 そしてまた、オレは新しい涙を流すんだ。