◆ 「…………」 どのくらい、泣いていただろうか。遠くから、インターホンのチャイムが鳴る音が聞こえた。 母さんが笑う声がやけに癪(しゃく)にさわる。 「さくら〜」 そこへまた、癪にさわる呼び声。 なんだよ、息子が悲しんでいるっていうのにさ……。 オレは目を擦り、なんとか悲しい気持ちをぬぐい捨てようと試みる。だけどそれも無駄なあがきだった。 今の自分を想像すると、余計に悲しくなる。 嗚咽を殺すために、ギュッと唇を噛み締め、ベッドから起き上がった。 軽快な足音と一緒に、母さんの明るい声が近づいてくる。 勝手にひらく、部屋のドア。 視線を上げると、そこには――。 今、まさにオレが泣いている原因のその人が、いたんだ……。 「あとでお茶持ってくるわね」 「すみません、気になさらないでください。すぐ帰りますから」 ――えっ? どうして? なんで? なんで、彼が、ココにいるの? 部屋に入ってきたその人を目に入れれば、息を飲んでしまう。 「さっき、来てくれただろう?」 ――そう言って、普段鋭い射抜くような目がスッと細められて、優しく笑うその人。 ――そう言って、目を瞬いているオレの頭を優しく撫でてくれる、雅さんがいた。 ……そっか、雅さんは、インターホン越しでオレの姿を見たんだ……。 今更気がついた大失態に、また自分が情けなくなる。 「どうして……」 ぽつりと独り言のように訊(たず)ねると、「うん?」と小首をかしげて訊(き)いてくる。 「彼女さん……は?」 訊ねるオレは、彼女さんよりもオレの方を気にしてくれたと、淡い期待を持ってしまう。 雅さんにとって、オレは彼女さんよりも価値あるものだと、勘違いしてしまいそうになる。 だけどそれとは反対に、彼女さん雅さんとが互いに信頼し合っているんだと思えば、胸が痛くて仕方ない。 また……我慢していた涙が、目からこぼれ落ちてしまう。 そんなオレを引き寄せて頭を撫でてくれる雅さんの手を感じながら、オレはそっと目を閉じた。 「杏子(きょうこ)のことかな? 彼女なら大丈夫、少し出ると言って来たからね。だけどサクラくんの泣き虫さんは昔から変わらないな」 頭上で、クスリと笑う息が、頭のてっぺんにある固くてカールされている髪に当たる。それがこそばゆくて、心地いい。 オレはもう、昔と違って泣き虫じゃない。 でも、雅さんのことだと、泣いてしまう。 それだけ、あなたのことが好きなんだよ? 「シチューを持って来てくれたんだって?」 「……はい」 グスリと鼻を鳴らして返事をしたら、「もらっていくね」と、雅さんはお礼を言ってくれる。 ――たった、それだけのこと。 だけど、それがとても嬉しい。 オレって、なんて単純なんだろう……。 「さて、サクラくんはどうして泣いていたのかな?」 ようやく泣き止み、笑みを漏らすオレに、雅さんは尋ねてくる。 「っつ、それは……」 答えられるはずもない返事に、言葉を詰まらせてしまう。 「うん?」 雅さんは、オレが答えるのを待っている。 だけどこれは言えない。 言っちゃいけない。 言ったら最後、雅さんに気持ち悪がられて、それでさよならされる。 「……オレ、ずっと好きな人がいて……その人はオレじゃない人に優しく笑いかけていたから……」 言葉を濁して理由を話した。 そう言ったのは、ちょっとした謎かけをしたかったのと、当てつけて反応を見たかったからだ。 「そっか……」 だけど当然、雅さんはまさか自分のことだと思わないだろう。 たった、そのひと言が、彼から返ってきただけだった。 ……それもそうだ。恋愛は男女間でするものだ。けっして、同性では有り得ない。だから雅さんも、まさかそれが自分の事だとは思いもしないだろう。 雅さんの態度を少し期待してしまった自分がバカみたいだ。 返事が淡白なのは当たり前。 それに、オレは雅さんにとって悪ければ近所に住むガキ。よくいって弟みたいな存在――。 たった、それだけなんだから……。 ギュッと苦しくなる胸を落ち着かせようと、呼吸を繰り返せば、浅いものになってしまう。 「サクラくんを見ないなんて、その人は見る目がないね」 まさか自分のことだと思わない雅さんは、そう言ってオレの背中を撫でて、宥(なだ)めてくれる。 ――ねぇ、雅さん。オレはあなたが好きなんです。 オレは、あたたかな手の感触に、身を委(ゆだ)ね、この気持ちがどうか届いてくれますように――届かないでくれますようにと、複雑な気持ちを抱いた。 そうして穏やかな空気が流れはじめた空間は、チャイムに邪魔された。 母さんが玄関のドアを開けたらしい音と、玄関から離れているオレの部屋まで聞こえてくる甲高い、聞いたことのある女性の声。 その声に、ビクリと体を震わせるオレの頭をひと撫でして、雅さんは立ち上がった。 雅さんの表情は、見られない。 だって、オレじゃない人の姿を思って笑う顔なんて見たくもないから……。 だけど、ねぇ。オレから離れて行かないでよ。雅さんが離れると、悲しくなるんだ……。 そっと伸ばして彼を追いかけるオレの手は、だけど空をなぞった。 雅さんが……帰ってしまうんだ。 オレは雅さんの広い背中を追いかけて、急ぎ足で玄関まで向かう。 見えたのは、以前、雅さんと肩を並べていた、あのショートカットの女性だった。 雅さんの彼女さんだ。 「出て行くって言ってから全然帰ってこないから心配したのよ?」 雅さんは怒り肩になっている彼女さんの背中を押して、謝りながら出て行った。 ふたりのやり取りが気になったオレは、いけないと思いつつ、驚いている母さんを横切って雅さんに続いて玄関を出る。 それと同時に乾いた音が響いて、隣を見れば、左頬をさする雅さんから背中を向けて、去っていく彼女さんの姿があった。 「怒らせちゃった」 オレの姿に気がついた雅さんはそう言って微笑む。 その微笑みは、すごく寂しそうだった。 ――その日を境に、彼女さんを見かけなくなった。 怒らせちゃったんだ。 それって、オレのせいだ。 雅さんに謝ったら、雅さんは違うと否定してくれた。 最近行き違いが多くなっていると、雅さんは眉根を寄せて笑う。 ……そっか、彼女さんとうまくいってないんだ……。 好きな人が悲しそうなのに、それを嬉しいと思う自分がいる。 オレはなんて身勝手なんだろう。 そうやって自己嫌悪に陥(おちい)っていても、おじさんとおばさんが旅行で、しばらくの間一人暮らしも同然の雅さんの家にちゃっかり上がり込むオレは、なんて腹黒で、なんて冷たい奴なんだろう。