◆ ――――。 「やっぱり絵はいいね。見ていると荒んだ心が晴れるように清々しい気持ちにさせてくれる」 美術館から少し離れたこの小さな喫茶店は、一面真っ白い壁で小綺麗な空間を演出していた。 各テーブルごとに小さなポトスが添えられていて、なんだか優しい雰囲気だ。 微笑んで紅茶をすする雅さんに、オレは、「うん」と元気よく頷いた。 今日の展覧会はパステル画。 優しい印象を与えてくれるパステル画は、とてもあたたかだった。 「油彩も好きですけど、やっぱりあたたかみがあるのは、パステル画ですね。特に今日みたいな寒い時だと、パステル画のあたたかさが恋しくなっちゃいます」 今日という、この、イヴの日に、大好きな人と大好きな絵を見ることができて、すごく嬉しい。 心が浮き立つような感じってこういうことを言うんだろうな。 嬉しさのあまり、口元がついついニヤけてしまう。 オレは、雅さんに変顔を見られたくなくて、目下であたたかいものだと強調しているミルクココアの湯気を見つめる。 「よかった。元気になってくれて」 ――え? 気恥ずかしくて直視できない雅さんを瞳に映し、どういうことかと首を傾げる。 「うん? 最近、サクラくんの元気がなかったようだったから、心配だったんだ」 雅さんは、スッと目元を細めて微笑んだ。 オレが、元気がなかったのは……。 雅さん、彼女さんと一緒だったし、喧嘩してるみたいだし、悲しそうだったし……。 でも、一番悲しいのは、彼女さんと雅さんを恋人だと認めたくない自分がいることだ……。 何も知らない優しい雅さんは、こうして汚いオレを励ましてくれる。 ズキズキ、ズキズキ。 忘れていた嫉妬を思い出し、罪悪感がオレを襲う。 痛み出す胸で呼吸する息が喉に詰まる。 「そ、それは……もうすぐ引っ越しちゃうから……仲が良かったクラスの連中とか、雅さんとはもう……会えないのかって思ったら悲しくなっちゃって……」 ――それは嘘。引っ越すからっていう理由で悲しいんじゃない。 今、こうしている間も好きな人を祝福できないっていうオレの心が悲しい。 ――だけど、半分は本当。だって、もう雅さんにはもう会えなくなる。 そう思うと胸が痛い。 オレは、瞼(まぶた)をまた、伏せた。 あたたかさが欲しくて、湯気を放つミルクココアのカップを両手で包む。 「そっか……引越しは、もうすぐなんだね。でも、ここから三時間程度なんだろう? 言うほど遠くはないよ」 『また遊びに行く』 彼は、にっこり笑ってそう言った。 だけど、知っているよ? 距離があると、会おうと思わないかぎりは会えないこと――。 雅さんにそんな強い気持ちはないだろう。 雅さんを想っているのは、オレだけだから……。 悲しい気持ちを誤魔化すために、顔を上げて微笑んでみる。 「そうですね、あっちの生活が慣れたらまた来ます」 ――これは全部嘘。本当は、もう会わないでいるつもり。 だって、雅さんと会えばきっと、もっと好きになる。 せっかく雅さんと離れられるのに、せっかくこの想いを忘れられるのに、オレから来ることはない。 だからもう、会えないんだ……。 ――カランコロン。 喫茶店の壁紙と同じ真っ白な扉を開けて、外に出る。 冬は日が陰るのが早い。 美術館を出た時はまだ橙色の優しい夕日が外を照らしていたのに、もう薄暗くなっている。 その代わり、真っ白な木々に飾られている様々な色でライトアップされた照明が、オレ達を照らす。 その光はまるでロウソクのように薄ぼんやりと輝く。 冷えたこの街に、魔法をかけ、心を浮き立たせてくれる。 ぼーっと景色を眺めていると、一本道の木々に飾られたイルミネーションの下を、手を繋ぎ合っている恋人や、楽しそうに笑い合う家族が通り過ぎる。 明るい人々の笑い声が、周囲を包む。 今は――今だけはオレもその声に混ざろう。 雅さんの隣にいられる、この幸福を楽しもう。 今日というこの日を……心に刻むんだ。 そっと目を瞑(つむ)って決意した矢先――。 さっきまであたたかな店の中に居たオレ目がけて、木枯らしが吹いた。 木枯らしは、足元を標的にして、オレを凍えさせようとしてくる。 オレは、寒さから身を守るため、体を丸めた。 だけど、やっぱり寒い。 北風に包まれたオレの体は、小刻みに震えはじめる。 「サクラくん、少しあそこで待っていてくれる?」 そう言って、雅さんが指をさしたのは、街灯がひとつ、白いベンチを照らしている場所。 「あ、はい」 雅さんは二つ返事をしたオレに頷くと、どこかへ言ってしまった。 どうしたんだろう? 喫茶店に忘れ物でもしたのかな? 吹きさらしのベンチに腰を下ろすと、冷気がさらにオレを襲う。 だけど、立ったまま雅さんを待つと木枯らしはオレを標的にして包み込んでくる。 どっちも寒い思いをするなら、腰掛けて待つ方がいい。 ガタガタ震えながら、冷たくなった指先に、はぁっと息を吐きかけると、口から出る息は白く、空気が冷えていることを教えてくれる。 「雪、降るかな……」 ベンチに座りながら、藍色に染まった物悲しい空を見上げる。 初雪が降ったら――……。 叶わないと知っている決定済みの恋でさえ、願掛けをしてしまう滑稽(こっけい)なオレ。 でも……もしかしたら……。 そうやって期待してしまうのは、雅さんが優しすぎるから。 そんなこと、あるわけないのに……。 オレはクスリと乾いた笑いを乗せて、冷えた空気に吐き出した。 「ね、こんな寒空の下にキミひとり?」 ――え? 突然かけられた男の人の声に、はっと我に返って顔を上げる。 そこには、茶髪に耳ピアスをした、いかにも軽そうな男の人がいた。 たぶん、大学生くらいだろうか。 なんだろう? 首を傾げながら瞬きをすると、その人は眉根を寄せて話しかけてくる。 「少しでいいんだ。暇ならこの先にあるバーでくつろがない?」 集客のバイトかな……。 「いいです。待っている人いますから」 雅さんを待っていなくちゃなんないし、それにオレはまだ未成年で酒を飲める年になってない。だから断った。 「でも、その人来ないじゃん? 寒いでしょ? ここで待ち合わせるよりも暖かいところの方がいいじゃん? 携帯持ってるでしょ? その人と連絡付けてさ、ね?」 グイッ。 一度断ったのに、男の人は冷たくなったオレの右手を無理矢理引っ張った。 「いいです、ほんとに困りますから!!」 握られた手を振りほどこうとするけど、その人も集客に必死なんだろう。 なかなか繋いだ手を離してくれない。 「離してください、ほんとに迷惑なんですっ!!」 断るのはこれで何回目になるだろう。 前のめりになりながらもベンチから腰を離さないようにと踏ん張っていたら……。 ……タン。 オレと男の人の間に長い腕が伸びてきた。 街灯にもたれるようにして対峙するその人。 オレよりも背が高くて、スラッとした体型に、漆黒の髪。 「ごめん、この子に何か用?」 その人から放たれるテノールの声は、雅さんのものだった。 「なんでも……」 雅さんと向き合った男の人は、自分が不利だと感じたのか、背中を向けてそそくさとオレたちが歩いてきた方向へ逃げていった。 「サクラくん、大丈夫? 遅くなってごめんね」 何が起こったのかわからなくて、呆然としているオレの顔を覗き込む、グレーの瞳。 「へ? あ、わわっ!!」 顔の近さにびっくりして、寒さでガチガチに凍った体を反らした。 そうしたら、視界が半回転して、体が振り子みたいに行ったり来たりをする。 「あわわわわっ」 コケるっ!! やがてやってくる痛みを覚悟してギュッと目を瞑った。 パフン。 硬い地面に直撃すると思っていたのに、柔らかい布が顔に当たる。 あれ? 不思議になって瞑った目をそっと開けると、そこには長いまつ毛と、すっと通った鼻に、薄い唇をした雅さんの顔があった。 「大丈夫? 寒かったものね。体が冷えちゃったんだね。ごめんね、もう少しさっきの喫茶店で待っていてもらえばよかったね」 「あ、いえ。あの、えっと、いえっ!!」 自分が何を言いたいのかわからない。 動揺した今のオレは、さぞや挙動不審に見えるだろう。 ――恥ずかしい。 オレは、雅さんの顔を真っ直ぐ見つめることさえできなくて、視線を下へ向ける。 「はい、どうぞ」 そうしたら、伸びてきた手はオレの空いた手へと向けられた。 そっと握らせてくれたのは、あたたかい缶コーヒー。 もしかして、これを買いに行っていたんだろうか? 逸(そ)らした顔をまた上げて、雅さんを見る。 目を細めて笑う雅さんの表情が、とても優しくて……。 「本当はショップを探したかったんだけどね、自販機しか見当たらなくてね。この近くにはないらしい。広場にあるそうなんだ。もう少し、これで我慢してくれる?」 ――え? 彼はいったい何を言っているんだろう。 あまりにもパニックになりすぎて、雅さんの言っていることがわからなくって、それでも何か言わなきゃと思って、コクコクと何度も頷いた。 「よかった。それじゃ、もう少し歩こうか」 そう言って、歩きはじめる雅さん。缶コーヒーを持つオレの手とは反対側の手は雅さんに包まれている。 ドクン、ドクン。 心臓が何度も恋心を強調してくる。 雅さんと繋いだ手が、痺れていくのがわかる。 「あの、あのっ、手!!」 繋いだ手を離してくれるどころか、言ったとたん、もっと強く握られたと思うのは、オレの気のせいだろうか。 どうしよう、どうしよう。 こんなんじゃ、雅さんを好きだってバレてしまう。 「うん?」 「て……を…………」 離して。 離さないで。 ふたつの想いが交差して、オレの唇を閉ざさせる。 「手? ああ、寒いからね。もう少しこれで我慢ね」 そう言って、微笑む雅さんの表情がオレの心を震わせる。 オレは、もう何も言えなくなって、熱を持った顔を俯(うつむ)けた。 ドクン、ドクン。 どうか雅さんに、繋いだ手からオレの心音を聞かれませんように……。 そう願って、ライトアップされた並木道を歩く。 もう、木枯らしが吹いても寒くなかった。 ほわほわした妙なあたたかさが、オレを心の芯からあたたかくさせてくれる。 道行く人に見られる。 そう思うのに、それが気にならないのは、きっと今日がイヴっていう特別な日だから……。 神様、もう少し。 もう少しだけ、この時を――……。 雅さんの整った横顔をのぞき見ながら、オレはそっと願った。