◆ 時刻は午後五時。 夕方なのに、冬だというだけあって日が暮れるのが早い。空はもう藍色に包まれていた。 俺は中山(なかやま)先輩に言われた時間よりも少し早めに玄関へ立った。 もちろん、健太のことを諦めきれない俺は先輩の好意を断るつもりだ。 しかし、俺は嫌と言うほど片想いの辛さを知っている。だから彼女の好意を無下にすることもできなくて、結局会うことを決意した。 告白してくる相手がどんなに綺麗な人であっても、俺のこの想いは健太に対するものだけだ。 同性とか異性とか、そんなものは俺にとって関係ない。 相手が健太だから好きになった。 俺が想うのは、たぶん、これから先もずっと健太だけだ。 往生際が悪いと思う。 だが、それくらい俺の中で健太が大きくなりすぎたんだ……。 ガチャリと玄関のドアを開け、外に出れば冷たい風が円を描いて俺を囲む。 制服から私服に着替え、ジャンパーを羽織り、首にはマフラーも巻いたのに外はとても寒い……。 体だけでなく、どこもかしこも……。 ぶるりと体を震わせて、数歩歩くと二〇二と書かれたプレートがあるドアの前を通り過ぎる。 ヘコんだ一角の陰に、健太が突っ立っているのが目の端に映った。 寒がり屋の健太は、普段外出する時、恐ろしいほど厚着をしているのにも関わらず、今はトレーナーにボトムといった出で立ちのままだった。 ドサクサに紛れて告白してしまった俺に、今さら何の用だというのだろう。 同性に恋をした俺を気持ち悪いとでも言いに来たのだろうか。 それとも律儀に、『お前のことをそんなふうに見られない』と、告げにでも来たのだろうか。 もう言われなくても振られることは知っている。だったら放っておいてほしい……。 「あの……咲輝……」 健太を想いすぎる胸が締めつけられて痛い。 健太から早く遠ざかりたくて、話しかけられても知らんぷりをする。 そのまま歩く速度を緩めずに進んだ。 「待てや!!」 健太を通り過ぎ、少しした後――それでも健太は俺を放っておいてはくれなかった。 俺の右腕が後ろへ引っ張られる。 「俺に何か用か?」 口から出た言葉はとても冷ややかで、我ながら冷淡だと思う。 「っ……中山先輩の告白、受けに……行くんか……?」 健太は、そんなツンケンした俺の態度に怖気づいたのか、うつむいた。 告げた言葉は冷たい風に乗って語尾が消えていく……。 「告白を受けようがどうしようがお前には関係ないだろう?」 ことさら俺のことをどうとも思っていないお前には!! 「なんで……そんな言い方……」 それは、はじめてだったかもしれない。 今まで、どんな時でも強気だった健太が、震える声で小さくそう言ったんだ。 だが、それに同情できるほど俺はお人好しでもない。 もう、健太との友達ごっこはたくさんだ。 だって俺は健太に告白した。 健太は間違いなく、俺を軽蔑したに違いない。 ――ああ、それともアレか。 湯たんぽ代わりのものがなくなると困る、っていうやつか……。 俺の告白も、キスも……なかったことにするつもりなのかもしれない。 真剣な俺の気持ちを、健太はわからない。 ああ、イライラする!! イライラを隠せない俺は無言のまま立っていると、うつむく健太はまた口をひらいた。 「いやや、行かんといて……」 ああ、やっぱり健太は俺とのキスも告白もなかったようにするつもりだ。 だったらもう、何も話すことはない。 否定された俺の想いは、掴まれている右腕から全身に痛みとなって行き渡る。 健太の手を乱暴に振りほどき、俺はそのまま螺旋階段がある方向へと歩いた。 「っ、待てや咲輝!! キスしといて……オレに好きやって告白して言い逃げすんなや!!」 それは突然の大声だった。 健太はよく響く公共の廊下で、俺が樋口にした行為をそれはそれはよく通る大声でしゃべりやがったんだ。 びっくりした俺は足を止め、振り返る。 「……っ、オレ……オレも好きや!!」 ……は? 好き? 誰が好きだって? ひょっとして中山先輩を好きなのか? だから俺を呼び止めたのか? 健太が何を言っているのかわからなくて呆然と立ち尽くす俺――。 健太はまた大声で話しはじめる。 「ずっとずっと好きやった!! せやけど咲輝モテるし……だからきっとオレなんて見向きもされへんやろうし……」 「そんなに取られるのが嫌なら俺の事なんて気にせずに告白すればいいだろう?」 わけがわからん。なぜわざわざ俺に言おうとするのか。 中山先輩を好きなら告白すればいい。俺とは違って彼女は異性だ。もしかしたら希望はあるかもしれない。 痛む胸を無視して告げれば――。 「なんでやねん! お前のこと無視して好きなんて言われへんやろ!」 健太が涙目で睨んできた。 ――はあ? ますます意味がわからない。 「お前は中山先輩が好きなんだろう?」 だったら俺の事なんて放って置けばいいだろう? 「誰がやねん! アホか、ちゃうわっ!!」 訊ねた言葉に阿呆呼ばわりされて、俺の頭はますます混乱する。 「……同性やしそんなん言われへん……」 健太は今、すぼめた肩で息をして、握りしめた両手の中に裾を掴んでいる。 つむった目にはうっすら涙があふれていた。 ――『好きな人は同性』と、たしかに健太はそう言った。 そこでわかったのは、健太が好きな人っていうのは俺かもしれないっていうことだった。 ――いや、だが違ったら俺はものすごく間抜けじゃないか? だって健太が俺を好きなんて考えられない。 それでもと、希望を捨てきれない俺の心臓が早鐘を打つように鼓動を繰り返す。 「なあ、健太は、もしかして俺が好きなのか?」 意を決して訊ねると――……。 「当たり前やろ、こんなん好きやない人に言ってどうするつもりやねん阿呆!!」 やはり怒鳴られてしまった。 「…………うそ、だろう?」 だって俺は健太と同性で、友達で、それ以上もそれ以下もなくて……。 もしかしてそれは違うのか? だって健太はずびずびと鼻を鳴らし、泣いている。 心が浮き立つような幸福感が俺を覆う。しかしこんな場所で男に告白とか、他の人間に聞かれたらどうするんだろう。冷静な判断をするもうひとりの俺がどこかでそう言っている。 だが、今はそんなことはどうでもいい。 泣いている健太をなんとかしてやりたい。 俺を想ってくれていた健太を包んでやりたい。 俺はゆっくり、元来た道を戻る。 「……いつか……オレから離れるかもしれへんけど、でもそれでも一緒にいれるならって思うてっ!!」 健太まであと数センチ。 たどり着いたその時、健太はさっきよりもずっと頼りない声を上げた。 『いつか離れるかもしれない』 『それでも一緒にいれるなら、このまま――……』 それは常に俺が自分に言い聞かせていた言葉だ。 もしかして、健太もそうだったのか? 俺と同じだった? 「健太? ソレ、ほんとう?」 「そんなんウソついても何の得にもならんわ、ボケぇっ!!」 グズグズと鼻を鳴らし、そう言う健太の声は震えている。 ……ああ、もうムリ。限界だ。健太が好きすぎてどうにかなってしまいそうだ。 「好きだ、健太……ずっと好きだった」 「オレもやボケぇ、そんなんやったら早よう言うてや!! 嫌われたって思うたやんかぁああっ、うえええええっ」 同性に恋なんて有り得ない。 廊下で告白とか有り得ない。 ましてや喧嘩腰で告白も論外だ。 それでも、そういうのもいいかもしれないと思うのは、可愛い健太が俺の腕の中にいるからだ。 泣きじゃくる樋口を抱きしめながら、俺はその日、マンションの連中たちに好奇な眼差しで注目を浴びるまで、木枯らしに吹かれ続けた。