散る散る満ちる

点滴の針が抜けて、じわじわとした痛みが広がる。
なれた手つきで貼られたばんそうこうを見つめていると「このままだと死んじゃいますよ」と看護婦さんは言った。

それでもよかった。退くんに会えないのなら。
でもこの数週間お仕事だったときいてしまったら、淡い期待が僕を生かそうとしてくる。
まだ捨てられていないんじゃないかって。鍵だってうっかり落としてしまっただけかもしれない。まだ退くんのそばにおいてもらえるかも。
自分に都合の良いことを並べていったら、ほんの少しだけ前を向けるような気がして、軽くなった体で地面に足跡をつけていった。
久しぶりに感じた太陽は眩しくて、日差しに目を細める。

その時、ふと前に見えたのはあるスナックだった。
いつか総悟くんに聞いた、あの人がいるところ。
あえて今まで訪れることが無かったのは、もう終わったことだって退くんを信じていたから。
あの人を知れば少しは納得できるだろうか。もしかしたら勝ち目だってあるかもしれない。
そう思ったら早く知りたい気持ちが抑えられなくて、扉に手をかけた。


「…本気で好きなんです」
「へぇ〜?本気だってよ、たま。どうすんだ?」
「どうするもなにも、私は嬉しいですよ」
「ったく、ジミーのくせに先越しやがって。俺は絶対許さねえからな」


本当に一瞬だった。その一瞬の出来事で目の前が真っ暗になった。
こんなところであの声がする訳ない。何かの間違いだよね。でも僕が聞き間違えるはずなんてないんだ。
扉を開けることもできないまま、追いつかない思考が「好き」の言葉だけを何度も繰り返して、全身が冷たくなっていくのを感じる。
病院にも家にも一度だって会いに来てくれなかったこと、あの日見せた冷たい表情、そして退くんがここにいること。すべてが繋がってしまう。
ずっと仕事してたっていうのも嘘だったのかな。
僕がひとりぼっちでいる間、ずっとここに来てたのかもしれない。

退くんはもう、僕のことなんて捨てたんだ。


***


あの日のまま時が止まったように、玄関にはタオルケットと写真が一枚落ちていた。
それを拾う気力すらわかなくて、ただ帰ってきてしまった部屋の中で倒れるように座り込む。
頭から離れない「好き」から逃げるように頭を振ったのに、ただその分増えていくだけだった。


「もう僕なんて……、っ!」


突然、僕の言葉を遮るようにインターホンの音が鳴った。
それは僕がいることをわかっているとでも言うようにしつこく鳴り響いて、ひとりにさせてくれない。
頭の中にいる「好き」の言葉をかき消してしまいそうな音が、うるさいはずなのに今は少しだけ心地よい気すら覚えて、何となく玄関まで様子を見に行った。
その小さな穴から見えたのは、ここに来るはずのない人だった。


「さがる、くん……?」
「なまえくん!いるの?いるなら開けて!」


思わず出してしまった声を悔やんだ。
ここに来る理由なんてないはずなのに、叩かれる扉の音に急かされて思わず開けてしまう。


「良かった、無事だったんだね!」
「…………っ」
「なまえくんに会いたかった」


また抱きしめてもらえるなんて思わなかった。
伸ばしてしまった指を慌てて引っ込めて、ただ耐えるようにじっと受け入れる。
退くんの手から落ちたビニール袋、それから溢れ出る物を僕に重ねながら。


「………どうして来たの」
「副長からなまえくんが倒れたって聞いたんだ。なのに来るのが遅くなってごめん。仕事がどうしても抜けられなくて」
「別に大丈夫だよ」
「見つけるのが遅れてたら危なかったって聞いたよ。俺のせいでこんなことになったんだってずっと悔やんで……なまえくんが生きてて良かった…」
「僕なんてもう、いなくてもいいのに」
「そんなこと言うなよ!こないだのことだって謝れてないのに、もし死んだらどうしようって本当に不安で……俺にはなまえくんが必要なんだよ」


”必要”の一言がまた僕を期待させる。
ああそうか、まだ必要とされていたんだ。使ってもらわなきゃ、僕がいる意味なんてないもんね。
そばにいる理由ができてよかったはずなのに胸が痛いや。


「まだ僕が必要なんだ………っ、わかった。すぐ準備するね」
「準備?」
「お仕事だったし溜まってるもんね。僕のことまた気の済むまで使っていいよ。先に口でしてもいいし」
「いや何、まって、病み上がりなんだからだめだって!こら離せって!」


しゃがんで袴の紐を解こうとしたら、手をとって止められる。
不正解を突きつけられたことに唇を噛み締めながら、今度は腕をぐいぐいと引っ張って無理やりベッドに連れていく。
そのまま倒れ込めば退くんの顔が近づいて、目をぎゅうっと瞑った。
退くんを繋ぎ止めるためにできることなんて、もうこれしか残されていないんだ。
それなのに一向に進む気配がなくて、恐るおそる目を開ければ退くんが泣きそうな顔をしていた。


「しないの?」
「そういうつもりはないよ」
「っ…それじゃあ、僕はどうしたらいいの………」
「こんなことしなくても、俺はなまえくんが好きだよ」


体を満たすためじゃないんだったら、どういう意味で必要としてくれてるの?退くんが言う好きってなに?
僕からしたらこの行為だけが退くんを繋ぎ止める方法なのに。
僕には”こんなこと”しかできないんだよ。


「ここまで思いつめるくらい傷つけてごめん。こないだだってあんなに泣いて、ごめんなさいって何度も呟いてたのに…」
「それは…僕が悪いんだから……」
「俺なまえくんが浮気してるんだって勘違いしてひどいことした。そんなことするわけないのに、あの時はどうかしてたよ」
「謝らなくてもいいよ。ちゃんとわかってるから。ね、だから僕のこと使って」
「しないよ。俺はこんな風になまえくんとしたくない」
「したくないって、もう…僕のこといらないの?」
「そうじゃなくて、なまえくんが大切だから俺は……」
「じゃあ、しようよ」
「ちゃんと聞いて。体で繋ぎとめようとしないでも、俺はなまえくんのことが好きだ」
「好き、って……」


僕とおんなじ好きって意味じゃないんでしょう。
体を重ねなくてもいい、浮気は勘違いだったって言われてしまえば、ますます退くんの“好き“がわからなくなる。
脳裏に浮かぶ昼間のことのせいで、不正解だらけの僕には退くんがここに来てくれた理由がわからない。


「なまえくん、ごめんね」
「……っ、さがるくん…」
「いっぱい苦しませてごめん」


僕から溢れ出る涙を優しい手つきで拭ってくれたのに、今度は退くんの目から涙が零れ落ちた。
まるで降り止まない雨のようで、思わず僕もそのほっぺたに手を伸ばして涙を掬う。
指に感じた生暖かさがまた視界を滲ませて、今度はお互いに慰めるように唇に触れた。
こうすることがあたりまえとでも言うように、あまりにも自然に。


「ちゅ……っんう、うっ………は、ぁ…」
「っ……ん、好き、なまえくんが好きだよ……」
「ん、……っん……さがる、く……っ」


あの日以来のキスだ。やっとしてもらえた。
何度も何度も重ねられた唇に溶かされて、隙間から入り込んだ舌が熱を産んだ瞬間、頭がぐちゃぐちゃになっていく。
飲み込めなくなった唾液すら吸われて、退くんのなかにはいった僕がこの気持ちを全部伝えてくれたらいいのにって思った。

誰よりも退くんのことが一番好きだってわかってよ。

 
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はじめ