願いが消えるまで

相変わらず呼びかけても返事のない扉の前で、やけに胸騒ぎがした。
溜まりきったポストの手紙、毎日来る俺に怪訝な顔で過ぎ去る住人、すぐそばにある通りの騒がしい音。全てが昨日と変わらないはずなのに、今日は違う。
今日はここで引き返さない。
鍵が無いなら勝手に開けてやればいい。職業柄ピッキングなんて余裕だ。
この扉を開けること。それはあまりにも難しくて、実は簡単なことだったんだ。


久しぶりに入った部屋はなまえくんのかおりがするけど少しほこりっぽい。
玄関には置きっぱなしのブランケットと俺の写真。
ここで君がずっと待っていてくれてたんだって俺にはわかるよ。寂しい思いをさせてごめん。

足を進めればすぐそこになまえくんはいた。
たくさんの写真のうえで寝転ぶ姿。その手に握られている欠片に気づいた時、血の気が引いていくのを感じた。

「なまえ、くん……?っなまえ!」

うそだろ、なんだよ。この血は!
頭では目の前のことが受け入れられないのに、体は冷静にに動いてなまえくんの手首をぎゅっと掴んで脈を感じる。
抱きかかえれば薄い息を感じる。

まだ、生きている。

携帯のボタンを押して、救急車を呼ぶ。
タオルで出血したところを押さえて、必死に呼びかけた。

「なまえ死ぬなよ!なんにも知らないで勝手にいくなよ!」

返事なんてない。
それでも諦められない気持ちは声になっていく。

「好きだ、好きなんだ…だから死なないでくれ。お願いだよ、俺と一緒に生きてくれよ」

もっと早く来ればよかった。そしたらこんな馬鹿なことさせなかった。
俺がなまえくんをここまで追い詰めてしまったんだ。
全部責任とるから、頼むから生きてくれよ。

「なまえがいないと、生きていけないよ」

その瞬間、手が俺の目元に触れた。今までで一番やさしい手つきに涙が溢れてしまう。

「なまえ!」
「鍵…かけたのに……」
「なまえ死ぬな、死なないでくれ……!」
「ごめんね、さがる、く……ん…」

力なく笑って、目を閉じた。
ごめんねってなんだよ。なんでなまえが死のうとするんだよ。
いっそ恨んで俺のことを殺そうとしてくれよ。

鳴り響き始めるサイレンに、おせーよと呟いた。


***

傷は深くない。躊躇ったのだろうと、先生は言う。
ただ、血が足りないんだってさ。そんなのいくらでも俺から取ればいいじゃん。

「いっそ全部あげてください」

看護師さんが少し戸惑いを見せた。やべと思ったけれど本心だからどうしようもない。慣れた手つきで針が腕に差し込まれると、気の毒そうにさっとカーテンを閉められてひとりぼっち。家に来た救急隊員も戸惑ってたなぁ。俺の写真がいっぱいある中で男の子が倒れてるんだ。何かの儀式かっての。てかあんな風に死のうとするなんて絶対まだ俺のこと好きじゃん。嫌われたとばかり思ってたけど、本当は俺のことをずっと待ってたんだよな。最後まで一緒にいようとしてくれたのに、なんでこんなことになっちゃうかなぁ……俺がいくじなしだったからか。俺だってなまえくんのこと大大大好きなのに。それなのに伝わらなかった。悔しい。悔しいよ。

少しずつ抜かれていく自分の血を見ながら、いっそこいつがなまえくんのなかで気持ちを全部伝えてくれたらいいのにって思った。
誰よりもなまえくんのことが一番好きだってわかってくれよ。


病室にいるなまえくんは相変わらず眠ったままだ。
首に巻かれた包帯が痛々しく、細くなった腕に繋がれた線は主張する。
俺は隣に座って、静かに話しかけた。

「なまえくんわかる?俺の血が入ってるよ」

ゆっくりと上下に動く胸が答えだ。

「なんかセックスするよりも、繋がった感じするよね。なまえくんの体のなかで俺が生きるんだよ」

その手に触れて、あたたかさに涙が出た。
なまえくんは生きている。生きてくれている。
それだけで充分すぎる幸せだ。

「だからもう、勝手に死ぬなよ」

目覚めたら君はなんて言うだろう。
いくらでも怒ってくれていい。愛想をつかされてもいい。どんなことを言われたって受け止めるよ。

――突然、病室の扉がノックされた。
誰か来たようだ。慌てて涙を拭いて返事をすれば開いた扉から現れたのは副長だった。
俺の顔を見て眉をひそめるけど、それ張り込み中に見るやつよりキツい顔じゃないですか。
ここを離れられないことを察したのか、ゆっくりと近づいた副長は苦々しい顔のまま隣に座った。

「よく生きてたな」
「もう少し深かったら危なかったそうです。あと発見が早くて処置が適切だったって褒められましたよ」
「そうか、そりゃ良かった」

副長は煙草を取り出して、一息ついた。
せめて窓際で吸ってくださいよ。病人の前で何してるんですか。

「仕事はどうすんだ。ただでさえココ最近抜け出してこいつんとこばっか行きやがって」
「こういう時くらい休ませてもらえるんじゃないんですか」
「ンな甘いわけねーだろうが」
「本当鬼ですね」

馬鹿野郎、と殴る手はいつもより痛くない。
この姿をなまえくんが見たらますます嫌われますよアンタ。ただでさえわざと煙吹きかけて起こそうとしてるんですから。

「気に病むなよ」
「そうできたらいいんですけどね」
「じゃあそうしろ」
「……どうやって死のうとしたか知ってます?普通に考えて包丁とかだと思うじゃないですか」

いつもよりおしゃべりになる口が、助けを求めるように回っていく。
こんなこと副長に言ったってどうしようもないのに、ただ抱えきれない分があふれてしまった。

「俺のマグカップですよ。その欠片で、なまえくんは…」
「情けねぇ面してんじゃねぇよ。所詮その程度の奴なんだよこいつは。自分がつらくなったら簡単に死を選んじまう」
「でも俺のせいで……」
「だったらテメーが責任とるしかねぇだろうが」

副長は俺の頭をぐしゃぐしゃにして病室から出ていった。
言われなくても責任なんてとるに決まってるじゃないですか。
涙を拭って見つめた先に誓う。
情けないところを見せてごめん。
また好きって言ってもらえるよう頑張るよ。だから目覚めたらその痛みを俺にもわけてくれ。



なまえくんが、ようやく目覚めたらしい。
仕事中かかってきた電話に慌てて屯所を飛び出した。
息を切らしながらノックもせず病室に入れば、その音に目を丸くしているなまえくんがいた。

「なまえくん……!」
「……っ来ないで!」

一歩前に進んだ瞬間、聞こえてきたのは拒絶の言葉だった。
でもそれは本心じゃないはずだ。わざと俺を遠ざけて勝手に幸せを決めつけようとする君のことだから。

「や、やだ……帰って、会いたくない……!」
「俺はずっとなまえくんに会いたかったよ。どれだけ心配したかわかる?」
「知らな……っ、や!はなして!僕に触らないで!」

なまえくんの手をとって、嫌がる姿を丸めこむように抱きしめた。
抵抗されたところで力を込めてしまえば、何にもできなくなるってわかってるのに手荒な真似してごめん。でも体が勝手に動くんだ。

「生きてて本当に良かった」
「……っ」
「俺に責任をとらせてほしい。なまえくんのことが誰よりも何よりも一番好きだ。だからずっと俺のそばにいてくれ」


こぼれ落ちる涙が幸せのせいであることを願った。

最初からこうすればよかったんだ。
無理やり鍵をこじ開けてどれだけ君を思っているか、暴力的なほどの愛を伝えてしまえばよかったのに。
心で思うことだけが正解じゃない。言わないことが美徳でもない。そんなに綺麗なものだけが愛と呼べるのか?否、俺はもっと汚くてドロドロとしたもんを抱えてたね。これは全部君に教えてもらったんだ。

なまえくんは震えながらぎゅっと手を握る。
まるで決意するかのように。これから君が言うことなんてわかりきってる。

「嫌い……嫌いだよ、退くんのことなんて」

ほら、今の俺には反対の意味に聞こえるよ。

 
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はじめ