抑えられた色の無い表情が格子から漏れる月光を受けている。紋付袴を着た、男とも女とも言えぬ見目のその人物は、静かに足を運び、手にした扇を動かす。
「解脱の衣の袖ながら、今宵は何を包まんと言ふかと思へば」
 凛とした声がゆっくりと言葉を紡いでいる。
「音羽山、嶺の松風かよひ来て……」
 三間四方の板間を、滑るように動き、緩やかに舞う。
「明けわたる横雲の迷もなしや、東雲の道より法の出づるぞと」
 衣擦れの音が心地よく声と共鳴している。
「明けぐれの空かけて、雲のまぎれに失せにけり」
 片膝をつき、閉じた扇を刀を鞘に納めるように腰へ差す。立ち上がり、肩の力を抜いたその人物は隅に立つ観客に目を向けた。
「来ていらしたんですね」
「うつくしい」
 たった一人の観客、男は柘榴のように紅い目を細めて言った。
「ありがとうございます。貴方にこれを見られるとは。なよなよとしていて夕顔は貴方に見せる曲としては相応しくないように思うのですが、今度の舞台で仕舞が決まっていまして。お口直しはいかがです。お好きなものをやりましょうか?」
「今日はもう良い。お前も疲れただろう。先程も稽古をつけていたのを知っているからな」
「私は永久に舞っていられますが……いえ、いらしていたのにお構い出来ず申し訳ありません、月彦兄さん」
 頬にかかった前髪をかきあげると、袴の人物は男の傍に近づいた。
「いや、その呼び方は止してくれ。もう他のものはいない。二人きりだ、夜畢」
 やけに優しい声色で頼む男は珍しく、夜畢と呼ばれた人は少し目を見開くと己の衿元を少し正した。すると、短くまとめられていた髪がするりと伸び、腰ほどの長さとなる。赤い組紐で緩くまとめられている。
「では、無惨さま」
「お前の声は心地よい」
 立ち上がった無惨は夜畢の頬をすっと撫でる。夜畢の唇に鮮やかな紅が引かれ、瞳には「影」の字が浮かび上がる。月の光を一番に受ける様子を、函の奥に仕舞った宝物に触れるように愛でている。彼らの間には、並々ならぬ関係があると具に解る。
「嬉しいです。貴方にそう言って貰えるだけで、私はこれを続ける価値があるというもの」
「来てくれないか、お前が居ないと奴らに指示を出すのも厭になる」
「おや、召集なさるの」
「おいたが過ぎる者がいる」
「左様で」
 それまで表情のなかった夜畢は、口許に弧を画いて無惨の腕を取った。刹那、琵琶の音が響き、彼らは闇の中へ紛れていく。

 ☽

 無数に横切る橋の横には松が等間隔に並べられ、無惨と夜畢は同じ着物に身を包んで三間四方の舞台の中央、大きな松を背に立つ。その少し下の橋には、琵琶を持った少女が鎮座する。琵琶の弦を弾く音がまた二度鳴る。
「それ頭を垂れ仕れ」
 夜畢は半歩後ろに足を摺り扇を眼前に上げ、よく通る声にて謡いあげると六つの影が、数段下の舞台に並ぶ。前列、壱と弍は素早く手を付き頭を下げた。
「(あの方の声に似ている、この歌舞伎者は誰だ……)」
 下弦の鬼としてこの度初めて御前に馳せ参じたものは、夜畢を見て怪訝に見上げていたが、何者かに抑えられるように指をつかされた。
「む、無惨さまご機嫌麗しゅう」
 後列に並んだ他のもの達もすぐさま伏したが、そのうちの一人がようやく聞き取れるような幽き声をだした。
「おしゃべりはいけませんよ、ぼうや」
 赤ん坊に言うように夜畢が窘めると、血飛沫だけが坊やと呼ばれた者の跡に残った。
「御前なり」
 また無表情に調子を付けて夜畢が言うと、無惨は彼女の肩を一つ撫でる。
「お前たち、今のように影月の手を汚させるものはどうなるか、分かって居るな」
 若干の苛立ちを含んだ声色で無惨は言う。前列に伏したものは「勿論でございます」と声を合わせて答え、微動だにしない。
「解らぬ者がいるのならここにいる必要はない、去れ」
「し、し、しかし、鬼舞辻様、お言葉ですが貴方様のその隣りに御座します、方は、十二鬼月ではございませんよね」
 はじめに疑問を抱いていたものは、恐れ多くも無惨に質問を投げかけようとする。無惨は目を大きく見開き、語気を強める。
「去れと言った」
「お待ち下さい鬼舞辻様!」
「だから下弦は愚図ばかりなのだ。私の腹心を貧弱などと言うつもりか」
「がハッ、ァ……!」
「残った下弦のものたち、影月を知れ」
 腕を伸ばして失言者の首を撥ねた無惨に、夜畢は微笑みかけてまた無表情に舞台の下に目を落とした。
「どうぞ表を上げて。御機嫌よう、新しい下弦諸君。余は影月、夜畢と申し候。下弦上弦十二の離れの宮、主上の雨ふり星の影に候。……歌舞伎者ではない、能楽師である。以後、お見知りおきを」
 夜畢は音もなく後ろへ下がり、無惨にだけ聴こえるように声を落とす。
「お時間ありがとうございます」
 無惨は夜畢の声を聴けば幾らか激情が治まるのだった。
「再び伏せ仕り、蹲へ」
 夜畢が節をつけるのも全て無惨の心のためである。秩序と美のため。
「……まだ喧しい奴がいるが、今日はお前の処分についての召集だ。発言させてやる。下弦の参、お前だ。何故に逃げて毎度あの柱どもと戦わぬ」
「鬼舞辻さま、私は逃げてなどおりませぬ」
「私が間違っていると?」
「いえ、いえ、とんでもございません。しかし報せが間違っていようかと」
「夜畢がその様子を直に見たと言うのにか」
「……!」
 努めて冷静を装っていたらしい下弦の参は明らかに動揺をみせた。夜畢はこの坊やももう終わりだろうなと、見下ろした。
「鬼舞辻さま、月花の宮さま、申し訳ございませんでした、次からは決してヘマは致しませんので、どうか、どう、か……」
「鬼殺隊とやらは五月蝿い小虫だ。残らず始末しろ。失望させるな。影月よ、こいつの処罰は」
「言うまでもございません」
 四肢だけが転がり残っている。無惨は夜畢を見て目を細める。夜畢は小さく頷くと、ぱっと扇を広げた。それを合図に琵琶が鳴り、静かに肩から外へ押し出すようにあおげば、跡形もなく血肉が飛び去る。
「もう良い。終いだ」
 無惨の言葉に呆れの色をみた夜畢は、ぐ、と腰を落とし扇を大きく振り動かしてくるりと廻ると、真っ赤な花弁をふらしながら謡った。その扇と召し物には、曼珠沙華の紋が菱の中に大きく咲いている。
「相生の松の裏にぞ失せにける」
 鬼たちは琵琶の音と共に散り散りになり、無惨と夜畢は月光降り注ぐ屋敷へと移った。

 ☽
 袴に身を包んだ二人はもう居らず、緩やかな着流しを纏っていた。夜畢は無惨の腕の中に居る。
「夜畢、鬼の血でよごれていないか」
「大丈夫ですとも。匂いは無惨さまが落としてくれましたから」
「気にならぬか」
「無惨さまの良い香りがします……いとおしい」
「なら良い」
 無惨が夜畢の頬に唇を寄せる。夜畢は無惨の瞳を見つめた。
「口にはしてくださらない」
「恋しいのか?」
「ええ、だって……」
 強請る夜畢に応えて絡みつくようにすると、無惨は緩く笑みを浮かべて見つめ返した。
「だって、何だ?」
「しばらくお姿が見えなくて寂しかったんですよ」
「それはすまなかった。少し調べ物に追われてね。これからはまた来られる」
「良かった」
 満足げに夜畢が頬を撫でると、また同じような表情で無惨も応える。
「お前だけだ、このように私を一声で動かそうなどできるものは」
 互いに寄り掛かりながら永代の赤々とした花が咲き誇る静謐な庭を眺めている。ここは無限城ではない。夜畢の血鬼術により、無惨の強力な鬼の気配までも消している屋敷、別名を月花宮と呼ばれる場所。
「そうだ、今度の浅草の公演は見に行こう。何をやるのだ?」
「葵上ですよ。貴方が褒めてくださったものです」
「運がいい。公演の後は買い物にでも」
「良いですね」
 夜畢が無惨と手を重ねれば、肩を押されて横になる。覆いかぶさる無惨は話す口から吐息がかかるほど顔を近づけて、夜畢に笑いかける。
「お前をみつけた私はさながら光源氏か」
「ならば私は夕顔でも葵でもなく、紫でしょうか」
 無惨は夜畢の言葉のひとつ一つを丁寧に受け取るように、影の字を写した瞳を見つめている。
「何にせよ、お前は私のものだ……全て」

 ☽

 夜が明ける前に床を出ることが日課である。
 血鬼術を重ねて屋敷の警護を高めると、夜畢は下女の鬼に声をかけて、全ての戸を固く閉じ錠をかけさせ、屋敷中を真っ暗にしてしまう。そうしていると無惨が目を覚ますため、異国から仕入れたという香りの立つものを油皿に入れ灯をともす。
「お前はいつも早いものだな」
 揺れるほの赤い灯り越しに夜畢を見つめて言った。寝屋の壁沿いに置かれた桐箪笥の中から稽古着を取り出して、微笑みを返した。
「私自身の稽古がありますからね」
「何百年とそうしているが、お前の舞も謡も、良く成るばかりだ」
「あなたのおかげです。さ、まだ日が上ったばかりですから、お休みくださいな」
 風呂敷にさっと包んだ稽古着を抱えた夜畢は膝をついて、横になったまま見つめてくる無惨の髪を撫でる。
「久しぶりに稽古をみようか。何年振りかな?」
「それは嬉しいです。そりゃあもう、大層久しぶりですよ。支度ができたら下女を呼びにやらせますね」
 襖を開けると下女に手で指図をして稽古場の準備をさせる。普段は夜畢のみであるため稽古場には見学者用の座布団などもなく、単なる板間が広がっているだけだ。チラリと廊下を見た無惨が眉を上げて夜畢に目線を戻す。
「新しいものだな? 前のは」
「不手際をしたので暇をやったんですよ」
「そうか、そうか」
 笑みを交わしあうと、夜畢は立ち上がった。
「では、私も支度をして参ります」

 月花宮の西に拵えられた稽古場は能舞台を模しており、その前に数人が座れるだろうかという七、八畳ほどの見所が設けられている。夜畢は稽古着に着替え、汚れひとつない白足袋で舞台の上に立っている。見所には無惨のために用意された椅子が置かれている。程なくして無惨が稽古場の戸を開く。
「綺麗にしてあるな。全く変わった様子もない」
「どうぞ、おかけになってください」
「今日はどの曲だ? 夕顔はもうよい」
「そうですね…… 葵上は今度の舞台で見ていただくとして、別の仕舞を幾つかやりましょう」
「地謡もお前がやるのか?」
「いつもはそうなんですけれど、今日は貴方がいらっしゃるから、折角ですし血鬼術を使いましょうか」
 片膝をついて腰に差した扇を抜いて開くと、無惨に背を向け、舞台に描かれた松に向く。
「謡傀儡。余がうた謡へよ」
 そのように吟じながら扇を右手より顔の前に持ってくると、若女の面をかけた人形が現れる。これが地謡の役割を果たすものだ。また正面を向き膝をついて扇を収め、立ち上がり力を抜いた。
「このように」
 夜畢が手を広げて後ろに出来上がった人形を見せるので、無惨は子供を褒めるように手を叩いて微笑んだ。
「相変わらずお前の術は華があるね。さあ、好きなようになさい」
「では井筒から」
 空気がつっと変わる。夜畢の元来持っている力であり、無意識のうちに行うとても薄い血鬼術の類であるとも言える。能という高度に抽象化された演劇において、この力は夜畢自身の鍛練や持って生まれた舞の才能と交わり合って、観客の想像力を大きく操ることができるのであった。
 左膝をつき、扇を開いて構える。
「筒井筒」
 天井を貫いて暁の空に響かんとするほどの清涼とした声が、稽古場中に拡がる。無惨は瞬きすら惜しいというように、顔を一寸と動かさずにじっとみている。
「つゝゐづゝ 井筒にかけし」
 夜畢の発した言葉をうけて、後ろに座した人形が全く同じ声で謡を続ける。
「まろがたけ」
 扇を上げてゆったりと舞う。
「生ひにけらしな」
「老にけるぞや」
 無惨は久方ぶりの夜畢の謡と舞を、その空気に存分に浸かって楽しんだ。
 井筒に続けて、杜若や天鼓、敦盛に高砂など、様々に舞ってみせた。
 一息ふうと吐き出して、夜畢が舞台から見所へと降りてきた。
「また一段と美しくなった」
「ありがとうございます」
 表情のなかった夜筆の顔には、花が咲くように喜びが広がった。
「日の下でお前の舞を見る時が楽しみだな」
「ええ、本当に」
 示し合わせたように、二人は一つの扇に目線を移した。壁に掛かったその扇面には、青い彼岸花が二輪、満開となっていた。


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