私が鬼になったのは、「才ある役者となるだろう」と無惨さまに見初められたからである。
 あれは数え切れぬ程昔の話。
 能がまだ申楽と呼ばれていた頃、現在ではシテ方と呼ばれる役者の家にようやく生まれた子であった私は、家業を継ぐことの出来る男ではなかった。私の前にも後にも子ができず、父は止むなくといった様子で私に稽古をつけた。腹立たしかった。男でないからと言って舞台に上がるなとは何ともおかしな話だと思ったのだ。
 四つで初めて舞台に立った頃は、本当に何も考えていなかった。幼児であるから当然のことであるが、ただただ謡や舞が楽しかった。見所の人々は初めこそ自ずから舞台に立とうとする稚児を褒めそやしたが、家のものは誰一人、私に「よくやった」の一言もくれなかった。女らしさは身体に出る。あれこれと工夫して男の振りをして何度も人前に出て舞っていたが、それも周りには良い顔をされず、何をするにも花めかし十二の前、初潮が知れると、もうこれ以上はできない、といわれ降ろされた。その後は、裏の仕事を手伝っていたが、病が明らかになり床に伏せた。七転八倒とはまさにこのこと。
 母には、背に百足のような痣があることから忌み子と言われ、何故この様な子を産んだのかと嫌われた。よろよろ歩きの私は、その母に庭へ蹴落とされ、脚を悪くし舞台の手伝いすらできなくなってしまった。何食わぬ顔をしてそこへ座っているあの心憎き人。

 夜の舞台がとても好きだった。橙の暗い灯りに照らされる板間が、松が、観客に向けられた視線が心地よかったのに。私の何が悪いのだ。父が扇を振るう姿を見ながら、杖をついた私は溜息をついた。あとどれほどの命かわからないが、それでもあの舞台が恋しい。
「観月紅さん、ですか。君を最近見ないけれど、どこか具合が悪いのですか」
 笠を深く被ったひとが、遠くから舞台を見ていた私に話しかけた。紋付を着ているから舞台のものだと分かったのだろう。
「ええ。その名は私にございます。私を知っていてくださったのですか。ありがとうございます。実は身体を悪く致しまして、それにもう……女を隠してあそこへは上がることは許されませんから」
 しかし、こうして未練がましく稽古でぼろぼろになった扇を握っている自分が情けない。俯いた私の手を取って、その方は「君の舞も謡も、もっと見たかった」と言った。
「君の望月を観ましたよ。あのようにきらびやかな子供の役者を見るのは初めてでした。それに、声もいい。能が面白いというのを君に教えられたようなものです。才能がおありなのに、なんとまあ惜しいことを為さる人たちだ」
 初めて色々な稽古をつけてもらい大きな役を演じたあの曲は私にとっても大切なものだった。それを気に入ってくれたこの方はなんて稀有な方だろうと、いたく感動した。女だろうと幼かろうと舞台の上の己を好いてもらえるなど、役者冥利に尽きる。
「有難うございます、本当に……。自分自身の事が嫌になる訳では無いのですが、あの舞台に立てないのなら意味が無いのです。父のように丈夫な身体であれば、男の身体であれば、と思っていました。……すみません、貴方に言っても仕方の無いことですよね」
 私が再び項垂れて言うと、その方は笠を持ち上げて顔を覗かせた。玉のような瞳をしていた。
「私なら、君を助けてあげられる」
 夜の灯りが紅い目を光らせ、きらりと私の表情を写した。
「お医者様なのですか」
「いや、違う。だが、君を不朽の舞台へ上げてやれる。永遠に舞っていられる丈夫な身体にしてやれる。どうです?」
「……それはとてもうれしいことですけれど、そんなこと簡単に出来るのですか」
「ええ、もちろん。私は祈祷師や陰陽師すら平伏す術が使えるからな」
「本当に、永遠に……?」
 その方は頷いた。優しい手が私の喉に触れる。
「君の謡も、もっと聴かせてはくれないか」
 救いの神の手と思った。あの時この方の手を離していれば、私は死の底で過去を嘆くだけの馬鹿な者だったろう。
「我が名は無惨。君は私のそばで舞っていれば良い……」
 呟いた小さな声に込められた燃え盛る色に私の記憶が巡る。数年前、望月を演じた時とはまた別の小さな舞台で、最初の仕舞を任された時にふと目に付いた人。舞台の下、見所の誰よりも熱心に、私を見ていた方がこの方なのだと知った。
 その手に引かれて建物の影に連れられた。誰の目にも付かぬ場所で、軽々と抱き上げられた。
「日に当たれない、それだけが代償。あとはお前の思うままだよ」
 私に微笑む瞳が近付く。一等綺麗な声で、彼に答えを返そうと思った。
「どうか、お願いいたします。何であろうと私はそれでも舞台にあがりたい。貴方に、私の舞を謡を好いてくれる、貴方に観てもらいたい」
 人の血肉を摂らねばならぬことも、舞台に立てぬ弱さと較べれば、どうということは無い。
 そう言ったのは私自身か、それとも無惨さまか。

 ☽

「お前は小さいのに私の血をたくさん得てもけろりとしているね」
 私の頭を撫でて、無惨さまは満足げに言う。私は身ごろを整えて首をかしげた。
「普通ではないのですか?」
「ああ、そうだ。特別な、私の一番だ」
 無惨さまが与えてくれたものは、決して甘いだけのものではなく、同じ分の苦しみの中に確かに感じることのできる、快が潜んでいた。私に投げかけてくださる言葉や目線、全てが新しく、何か特別なものを持っていたことを、恍惚とする血の余韻の中で感じたのだった。
「私が無惨さまの一番なのですね」
「ははは、愛いな」
 頷きながらそう言って、無惨さまは立ち上がると私に向けて手を伸ばす。 
「しばらくは私と共に住もう」
 手を取って立ち上がる。両の足で土を踏み締める感覚に少し震えた。二つ、足踏みをした私を支えるような無惨さまの手は、しっかりと握られていた。
「どちらにお住いがあるのですか」
「人には見えぬところだ。おお、そうだお前に名前をやらねばな……」
「私は観月紅と」
「それはもう捨てるが良い」
 無惨さまは私の頬を撫でると優しく微笑んだ。
「夜畢。これから、お前は夜畢だ」
「よひつ」
「恵の雨をもたらす、夜に輝く星、という意味だ。気に入ったか?」
「はい。無惨さま、ありがとうございます」

 手を引かれて歩き出した。もう杖も必要ないほどに、私の脚はしゃんとしていた。少し見上げれば、月夜に無惨さまの横顔が白く浮かぶ。
「どれほどの所にあるのか、と聞きたげだな」
「どうして分かるのですか?」
「私の血を分けたものの考えていることはよく分かる。特にお前は」
 また、私が一番なのだと言われたようで嬉しくなり足取りが軽くなる心地がした。無惨さまは小さく笑うと立ち止まった。
「早くお前に屋敷を見せてやろう。さあ、こっちへおいで」
 再び、ひょいと抱き上げられる。何が起こるのだろうと思っていると、辺りの景色が川のように流れていった。目を白黒させていると、ひとつ優しく頭を撫でられた。
「気分が悪くなるようなら目を閉じているといい」
 何も見えないのは心細く思えて、代わりに無惨さまの目を見た。それに気づかれて、口許が弧を描く。

 ☽

 その当時は無限城はまだなく、みやこの北東に拵えられた、ひっそりとした屋敷に無惨さまは住んでいらっしゃった。日に当たらないように、周囲には背の高い木々や竹が生えており、無惨さまがお一人で過ごすには、大きすぎるように思えた。まだものを知らぬ頃の私にとっては、帝が住まうという御殿と見紛うようなものであった。
 闇に紛れていた屋敷から、どこからともなく顔の青白い鬼が現れ、私の世話係につけられた。
「細々としたことはこれにやらせれば良い。夜畢、お前の寝間へ連れてゆこう」
 また手を引かれてひんやりとした板の上を進んでいく。
「無惨さまは?」
「戸を挟んだ隣にある。寂しくなったらいつでも開けると良い」
「……今日は開けたままにしておいてくださいますか」
 無惨さまは私の頼みに笑顔でうなずいてくださった。そしてたどり着いた戸を引くと、広々と畳が張られた、何もない空間があった。
「お前の好きなものを持たせよう。扇が欲しいか? 着物が良いか? 稽古はいつでもできるようにしてやるからね」
 腰を下ろして言う様は、帝に劣らないほどのうつくしさと威厳があった。
「無惨さま」
 思わず膝をついて伏せた。驚いたように身じろぎした音が聞こえる。
「私には勿体のうございます」
 また少し額を下げると新しい井草が香った。衣ずれの音がこちらへ近づき、心強い手が私の肩を抱き上げる。
「お前はそのようなことをするな」
 深紅の双眸が私を写し出す。目を離してはいけないし、おっしゃるようにするべきだと即座に感じた。私は黙ってされるがままになる。抱き上げられて、無惨さまの言葉を待った。
「夜畢、お前は私の影だ。……光ともいうが。なぜこうして大事にするのか教えてやろう。お前は素晴らしい力を持っている。今はまだわからなくとも、すぐに知ることになろう。私が持っていない力だ」
「力?」
「そうだ。お前の舞の才がそうしているのだろう。一つに、お前は気配に染まることができる。役に染まることができるのと同じようにな。先ほどしたことを思い出してみろ。お前がしていたのは牛若の立ち回りのようだった」
 無惨さまの血を頂いて、あの女を切り倒していったことがうっすらと思いだされる。自分が何をしていたのかは、よく覚えていないが、体がそうすべきだと言うことを知っていた。こうして両足で立って歩くことができるのも、そうやって人の血肉を得ることができたからだ。
「お前はまだ知らないだけだ。じきにお前自身が、お前の術の支配者となることができる。私にはわかるのだ」
 そうおっしゃる瞳は真摯で、愛情深いものだった。

 ☽

 無惨さまは、はじめに稽古のための綺麗な扇と着物を拵えてくださった。扇面には二輪の青い花とその裏には月を金で描いてあり、骨には同じ花を象った紋が掘られていた。
 次に術の使い方を教えていただいた。その甲斐あって、鬼になって数週間の間に、現在使っている術のほぼ全てを身につけることができ、生家に近い家に紛れ込むことができた。私の上達の速さに、無惨さまも舌を巻き褒めてくださった。
「それで、稽古の具合はどうだ?」
 舞台の稽古も始めて月日を経て、舞うことのできる曲が増えてきた頃、私が稽古を終えて屋敷に戻ってくると、寝屋で書き物をしていたらしい無惨さまが開口一番に尋ねた。帰ってきたばかりで、まだ少年の姿のままでいる私を見て片眉をあげるので、急いで頭をふって髪を腰元まで伸ばした。今日は少女の姿が良いらしいが、私もそのような気分であったから、さっと赤い絹紐を取り出して軽く髪の先の方で一つに結わせた。
「今度、薪の舞台で初シテを勤めることになりました」
 手に持っていたままの笠を廊下で立っていた下女に渡して、無惨さまの隣へ腰を下ろした。
「そうか、そうか。何をするのだね?」
「吉野天人です」
「観に行こう」
 筆を置いて私の頭を撫でる手は優しい。漢籍を写していたようで、古い紙と真新しい紙が並べられていた。
「もう花の時期か」
 思い出したように戸へ顔を向けた。透かしているそこからは、朧月が横顔を見せていた。
「花を見にまいりましょうよ。無惨さまと見とうございます」
「お前の望みならばなんだってしてやろう。吉野が良いか」
「どちらでも構いませんよ。だって吉野山はあまりに遠いじゃありませんか」
 花を見ることも、月を見ることも、何をするにも無惨さまは私をそばに置いてくださった。それは私の勤める舞台が増え、私が月花宮と呼ばれるようになってからも変わることはなかった。あの男のせいで、無惨さまと一時離れ離れにされるまでは。


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