欠けた世界で
その日の夕方、アスマ先生が病室までお迎えに来てくれた。どうやらこのまま退院できるらしい。
言われるがままに荷物を整える。看護師さんや綱手様に挨拶を済ませ外へ出た。空は橙色に染まっている。私は一日中病室にいただけなのだという事を実感した。アスマ先生が来なかったら病院に引きこもったままだったかもしれない。
「シカマルはさっき無事に帰ってきて今はこん中にいるぞ」
ドクリと心臓が嫌な音を立てた。空からアスマ先生に視線を走らせる。彼が親指で指し示すのは先ほどまで私がいた木の葉病院。
「また改めてにします」
「そうか」
今は顔を合わせられそうにない。シカマルが無事ならそれで良い。耳鳴りが少し遠のいた。
「レイ、少し付き合え」
アスマ先生はくわえ煙草をしたまま、ニヤリと笑う。私は無心で大きな背中を追いかけた。
辿り着いたのはどこかの演習場。進んでいくと見えてきたのは石碑だった。夕焼けが深まり辺りが深い赤に染まりつつある。
「慰霊碑だ。最近文献漁ってるレイなら聞いたことはあるだろ」
そういう文献があったなと記憶の引き出しを探る。これは殉職した忍びの名が刻まれた石碑だ。
風が辺りの草をサワサワと鳴らしながら通り過ぎていく。石碑に新しく刻まれたのであろう、両親の名前が記されていた。
人差し指で石碑をなぞるように触れる。無機質な冷たさに思わず手を引っ込めそうになった。
水無月キオ、水無月コト。ただの文字だというのに見ているだけでどうして愛おしくなるのか、寂しくなるのか。胸を押し付けるこの圧迫感は何だ。
文字が滲む。息の仕方を忘れたかのように息苦しい。ここじゃない、ちゃんと確かめなくては。
弾けたように走り出す。向かった先は住み慣れた家。玄関に入る。「ただいま」と誰にいうでもなく言った。返ってくる言葉はない。返ってくる日常がどんなに幸せだったのか思い知った。
この世で最も大切な二人を失った。
そう実感した途端。ダムが決壊するように涙が溢れた。嗚咽が漏れる。
記憶が次から次へと蘇った。
広間で宴会をして酒を飲む父さんと笑顔で見守る母さん。台所で料理をつくる母さんと盗み食いをして怒られる父さん。庭で素振りをする父さんと柳を見上げる母さん。
これから何をして、どうやって息をして、生きていけば良いのか。文字を見て、体感して、ようやく私の脳は正常に働き始めた。止まっていた体内時計が動き出す。
その場で蹲り泣きじゃくる。側で静かに見守ってくれているアスマ先生に気づかないふりをした。
泣き止んだ後、酷い耳鳴りも激しい頭痛もすっかり消えていた。
「憑き物が取れたな」
「そんなに酷い顔でしたか」
「おー、泣きたくても泣けないってまんま顔に書いてあったぞ」
うっと言葉に詰まる。
綱手様やカカシ先生、テンゾウさんの表情を思い出した。私をどう扱って良いのか測りかねていたのだろう。
懐に入れていた煙管を握りしめる。私に立ち止まっている時間はない、悲しむ時間はもう終わった。両手で両頬をパチリと叩く。視界は定まった。
アスマ先生を家に招き入れ、玄関の扉に手をかける。外は夜が近づいているのか暗くなり始めていた。うっすらと月が見える。バタンと鳴った音が腹の奥に響いた。