金宝樹は何度でも灯る
大事な恋人が血鬼術に掛かったと聞いて、煉獄杏寿郎は慌てて蝶屋敷に駆け付けた。
「深月!!大丈夫か!?」
門が開いているのをいいことに、誰の許可も取らずに上がり込み、診察室の戸を荒々しく開ける。
後々、蝶屋敷の主人であるしのぶに怒られることはわかっていたが、そんなことより恋人の無事を確認する方が大事だった。
診察室に入ってまず視界に入ったのは、恋人の後ろ姿だった。
彼女は出入口に背を向けて、しのぶと何やら話していた。
「煉獄さん、お静かに」
額に青筋を浮かべたしのぶは、それでも笑顔でそう言った。
杏寿郎はとりあえずしのぶに謝って、ゆっくりと深月に近寄る。
背後から近付く気配を感じた深月は、くるりと杏寿郎の方を振り向く。
一見したところ、深月には目立った怪我もなく、意識もはっきりしているようで、杏寿郎はほっと胸を撫で下ろす。
彼女の側まで来ると、床に両膝をつき、彼女の手を取って強く握る。
「深月、心配したぞ。どこも痛まないか?」
温かい手に安心して力を抜くと、彼女の太腿に手の甲が触れた。
その瞬間、深月の肩が大きく跳ねる。
杏寿郎の手を振り払い、椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がり、利き手を大きく振りかぶった。
「いやっ!」
明確な拒絶の言葉と共に、強烈な平手打ちをお見舞いする。
まさかこの程度の触れ合いで殴られると思っていなかった杏寿郎は、完全に油断していて、その平手をしっかり食らってしまう。
勢いよく捻った首に、じんじんと痛む頬。
何が起きたか理解できず、呆然とする。
「深月……?」
なんとか首を戻し、愛しい恋人を見上げるが、彼女は真っ赤になって、診察室の隅まで後退していた。
杏寿郎から少しでも距離を取ろうと、壁にこれでもかと言うほど背中を押し付けている。
そして、深月は警戒心を剥き出しにしながら、杏寿郎に向かって叫ぶ。
「あなた、誰ですか!人の手や脚に勝手に触れて……この変態!」
容赦なく放たれた『変態』という言葉が、杏寿郎の胸に深く深く突き刺さる。
これは、任務での怪我よりもきついかもしれない。
杏寿郎は傷付き、困惑しながらも、ゆるゆると立ち上がり、説明を求めてしのぶの方を振り向く。
彼女は困ったように眉を下げ、深月の状態について説明を始める。
「深月さんは、記憶を一部失っているようでして……」
深月が食らった血鬼術は、『大切な人の記憶を失う』というものだった。
一般隊士であれば、その記憶を失くした時点で心が不安定になり、鬼殺がままならなくなるが、深月は違った。
強い意志を持ったまま、見事に鬼の首を斬り落とした。
ただ、運が悪いことに血鬼術の効果は持続してしまい、脳に作用する術を無理に解毒するわけにもいかず、様子を見ながら回復を待つことになった。
「まあ、数日で戻ると思いますよ。先に術に掛かった他の隊士の方々もそうでしたし」
しのぶは説明を終えると、病室へ行くよう、深月に促す。
深月は任務に戻るとごねたが、「様子を見てお薬を出さなきゃいけないので」としのぶは笑顔で却下する。
彼女達の親しげなやり取りを見て、しのぶのことは覚えているのか、と杏寿郎は口元に手を当てて思案する。
深月が食らった血鬼術は、『大切な人の記憶を失う』というものだが、その『大切な人』はどの程度の相手なのだろうか。
深月にとって、しのぶだって大切な仲間だろう。
それでも覚えているということは、記憶を失う対象がもっと身近な範囲に狭められるのか、自分だけなのか。
考えられる可能性としては、家族や恋人の記憶を失う、といったところだろう。
「胡蝶。同じ術に掛かった他の隊士は、誰の記憶を失ったんだ?」
「主に恋人やご家族です。ちなみに、相手の生死は関係ありませんでした」
しのぶの返答を聞いて、杏寿郎は「ふむ」と改めて考えを巡らせる。
やはり、自分は深月の恋人だから、記憶喪失の対象になってしまったのだ、と。
数日待てば元に戻るのだろうが、それを待っていられるほど、杏寿郎の気は長くなかった。
「では、深月!話をしないか?」
思い出話でもして、少しでも早く記憶を取り戻してもらおう、と思っての提案だった。
しかし、深月の回答は容赦がなかった。
「変態さんと話すことはありません!しのぶさん、この人誰なんですか!」
深月は小柄なしのぶの背に隠れるように身を縮こまらせ、杏寿郎を睨み付ける。
しのぶは小さく溜め息を吐いて、杏寿郎のことを手で指し示す。
「彼は煉獄杏寿郎さんです。深月さん。貴女の恋人ですよ」
「えっ……」
深月がぴしっと硬直する。
あろうことか、勝手に手を握ってきて、太腿に触れてきたこの男が、恋人だなんて。とても信じられなかった。
「嘘でしょう!?私の好みの殿方は、強くて、誠実で、清廉な人で……」
「あら。それは煉獄さんお話ですか?」
「違います!」
しのぶがからかうように言うと、深月は眉を吊り上げて全力で否定する。
その様子にくすくす笑いながら、しのぶは深月を病室へと案内した。
*****
病室に案内され、寝間着に着替えた深月は、寝台横の人物をじろりと睨み付ける。
先程の変態──否、杏寿郎が、まだここに居るのだ。
さすがに着替えている間はどこかへ行っていたが、着替え終えた途端に戻ってきた。
本当に、どこかで見ていたのではないか、というぐらいぴったり着替え終えた瞬間に戻ってきた。
警戒心剥き出しの深月の視線に苦笑しつつ、杏寿郎は彼女に声を掛ける。
「深月。具合はどうだ?どこか痛んだりしないか?」
掛けられた声も、向けられた眼差しも優しくて、深月は警戒するのを忘れてきょとんとする。
「別に、擦り傷くらいなので……元気ですけど……」
「そうか。それならよかった」
杏寿郎は安心したように微笑む。
「どっ、どうも……」
この人はこんな風に笑うのかと思うと、少しどきどきしてしまって、深月は彼から視線を逸らす。
でも、こんなことで絆されたりなどしない、と固い決意と共に拳を握り締める。
何せ、深月の中の彼は『変態』なのだ。
急に手を握ってきて、脚に触れて、謝りもしない。きっと、悪いと思っていないのだ。
しかし、手を握ってきた時は心配そうな顔をしていたし、床に膝をついていた。おそらく、深月に威圧感を与えないよう配慮していたのだろう。
当たり前のように病室まで着いてきた割には、深月が着替える際に病室から出ていた。
実は、割と紳士的な人なのか、と思い至って、深月はそんなわけない、と首を横に振る。
それを見た杏寿郎は、心配そうに眉を下げる。
「深月?やはりどこか悪いのか?」
深月に手を伸ばして、彼女の頬に触れる。
そこはいつも通り柔らかく、温かかった。
しかし熱いという程ではなく、杏寿郎はほっと息を吐く。
「熱は無いようだな。脳に作用する血鬼術を食らったのだから、何かあったらちゃんと言うんだぞ」
「はい……」
ついさっき固めた決意が早速崩壊しそうで、深月は杏寿郎の手を振り払うのも忘れて、ぼうっと彼を見つめる。
彼の声も仕草も優しくて、大切に思われているのが嫌というほど伝わってくる。
しかも、髪色は有り得ないくらい派手なくせに、顔が良いのだ。微笑んだ顔も、心配そうな顔も、見惚れるくらい様になっている。
そして何より、頬に触れた掌の感触に胸が締め付けられた。
分厚くて、硬くて、剣だこだらけだ。
深月も剣士としての記憶はあるので、この手がどれだけ努力してきた手なのかぐらいわかる。
何年も何年も、毎日欠かさず剣を振るってきた人の手だ。
きっと彼は、しのぶが言った通り、強くて誠実で清廉な人なのだろう。自分好みの異性なのだろう。
そう思うと、心臓がうるさくなって、顔に熱が集中してきて、深月は思わず俯く。
それにより頬から手が離れ、行き場をなくした杏寿郎の手が宙をさまよう。
杏寿郎は手を引っ込め、愛おしそうに目を細める。
彼から見える深月の耳は、赤く染まっていた。
「深月。君の話をしていいか?」
「……私の、話?」
「ああ。俺が一番大切に思っている、恋人の話だ」
「そ、そんなの、覚えてません……!」
深月は膝の上でぎゅっと拳を握り締める。
もう絆されてしまってはいるが、彼との記憶は全くないままだ。恋人だなんて言われても、覚えていないので信じられない。
「覚えてなくていい。聞いてほしいだけなんだ」
顔を上げてくれ、と乞うような声が降ってきて、深月は恐る恐る顔を上げる。
炎を思わせる色彩の瞳と目が合って、心臓が跳ね上がる。
こんな感情に覚えはなくて、どうしたらいいかわからなくて、その瞳から目を逸らせなくなった。
杏寿郎は嬉しそうに笑って、深月の拳を包むように握る。
「俺は君が好きだ!君との思い出は素敵なものばかりだから、記憶が戻る前に是非聞いてくれ!」
杏寿郎ははじめ、深月に少しでも早く記憶を取り戻してほしいから、思い出話をしようと思っていた。
しかし、今はただ、この大切な思い出話を深月と共有したい、と思うようになっていた。
こんなに素敵な話がたくさんあるのだから、と深月に教えてあげたくなった。
彼が浮かべる太陽のような笑顔に、深月は完全にときめいてしまった。
*****
数日後、深月は思い出す。
自分は別に、『強くて誠実で清廉な殿方』が好みではなかったことを。
自分が杏寿郎に想いを寄せるようになったのは、彼の温かい笑顔に惹かれたからだった。
好きになった人が、たまたま『強くて誠実で清廉な殿方』だったのだ。
彼の記憶をなくしても、刷り込まれた愛情は心のどこかに残っていて、だから記憶をなくしている間、『強くて誠実で清廉な殿方』が好みだと思い込んでいたのだろう。
「深月!」
大好きな人の声で、名前を呼ばれる。
深月はとびっきりの笑顔で彼に駆け寄って、彼の胸に飛び込む。
すると、逞しい腕が力強く抱き締めてくれるので、深月は嬉しそうな悲鳴を上げてはしゃぐ。
彼の笑顔にもう一度恋をしたおかげで、以前よりももっと彼のことが愛しくなっていた。
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