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カランコエは持てなかった


せっかくの休日だったのに、職場から呼び出しがあって、急遽出勤することになった。
まあ、代わりに後日休みをくれるらしいので行くしかない。
でも、呼び出しを食らうってことは、それ相応のトラブルがあったわけで。あんまり悠長にしていられない。できるだけ早く出勤しないと。
今日は服装に拘る余裕もないので、無難な服を選んで、化粧も一旦最低限にしよう、と考える。
バタバタと洗顔や着替えを済ませて、テーブルに化粧品を広げたところで、杏寿郎がマグカップを二つ持ってやって来た。

「出掛ける準備にはまだ早くないか?」
「出勤になった」
「なっ……!」

杏寿郎は驚いたように目を見開いた後、眉間に皺を寄せて「今日は二人で出掛ける約束だったじゃないか!」とか言い出した。声が大きいから、相変わらずの迫力。

しかし、そんなことを言われても、仕事なんだからしょうがない。私だって好きで休日出勤するわけじゃないもの。

「なんかトラブルみたいでね。仕方ないでしょ。その代わり、次の金曜日に休みもらったから」
「その日は俺が休みじゃない!」

杏寿郎は不満そうな顔で私の横に座って、ぶつくさ文句を言いながらマグカップをテーブルに置く。
持ってきてくれたマグカップには、淹れたてのお茶が入っていた。え、この前湯呑み買ったじゃん。どうしてまだマグカップにお茶を入れてるのだろう。

ツッコみたい気持ちをぐっと抑えて、拭き取り化粧水とコットンを手に取る。それから化粧水、美容液、乳液を塗っている間、杏寿郎は文句を言うのを止めたものの、抗議するような目でじっと私の顔を見ていた。そんな顔をしても仕事はなくなってくれないの。

スキンケアだけは手を抜かなかったけど、もうクッションファンデを使ってしまおう。
いつもなら、下地やら日焼け止めやらから丁寧に仕上げるのだけど。こういうときは、日焼け止めも兼ねたクッションファンデが一番。
落とす時は毛穴に残らないようにするのが大変だから、急いでるときにしか使わないけどね。

私がクッションファンデを顔に塗りたくっているのを見つめながら、杏寿郎が口を開く。

「いつもと違うやつだ」
「んー……」

もう説明するのもめんどくさい。口を動かしている暇などないのだ。それに、説明したところで、彼にパウダーやリキッドとの違いが分かるとも思えない。

「下地とやらはしないのか?」

ほら、これだろう、と言いながら、杏寿郎がメイクボックスから下地を取り出す。

「ああ、覚えたのね。偉い偉い」

適当に流しながら、さっさと眉毛を書く。杏寿郎の方から、「むう」と不満そうな声が聞こえたけど気にしない。

アイメイクは会社に着いてからやってもいいかな。むしろやらなくてもいいかな。出勤したくなかったけど急いで来ました感が出るだろうし。

少しでも気分を上げようと思って、お高い口紅とリップブラシを手に取ると、また杏寿郎が口を挟んでくる。

「直接塗るんだと思っていた!」

一瞬何のことかと思ったけど、口紅のことだと気付いて、「先に縁取りするの」と簡潔に答える。

そろそろ杏寿郎の視線が痛くなってきた。もう化粧は終わるから、こうなったら最後まで耐えよう。

そう思いつつ、リップブラシを口紅つける直前、杏寿郎の大きな手が私の手を包んできた。そのまま、口紅を奪い取られる。
何なの、と尋ねる前に、彼は太陽のような笑顔を浮かべる。

「俺がやってもいいだろうか!」
「えっ……」

どうやら、口紅を塗ってみたいらしい。

この急いでる時に謎の好奇心を発揮しないでほしいけど、彼との約束を破ってしまったのは私で。いや、私は悪くないけど。トラブル起こした職場が悪いけど。

でも、杏寿郎が今日のお出掛けを楽しみにしてくれていたことも知っているので、ちょっと申し訳なくて、私は少しだけ彼を甘やかすことにした。

「いいけど……時間無いから早くしてね」

それと、と続けながら口紅を奪い返す。

「これは高いから、こっちでやって」

そう言って手渡したのは、色つきリップだ。ほんのり蜂蜜の匂いがするやつで、安物だけど結構気に入っている。

杏寿郎は許可を貰えたことが余程嬉しいらしく、何度も頷いてからリップを受け取る。
もし彼に尻尾が生えていたら、ぶんぶんと千切れんばかりに振り回していたことだろう。こんな時じゃなければ可愛がってあげたいんだけどなあ。

そんなことを考えていると、ガッと強めに顔を掴まれた。
前言撤回。こんな乱暴な子は可愛がってあげません。

「杏寿郎、もっと優しくして。化粧落ちちゃうじゃん」
「む……すまん」

杏寿郎は申し訳なさそうに眉を下げて、私の顔を掴んでいた手を顎に移動させる。

気付けば、彼の手はちょっと震えていて、緊張しているんだと察する。
失敗したら怒られると思ってるのかな。それは少し可哀想なので、怒らないように心掛けよう。

杏寿郎が、震える手で私の唇にリップを塗って、首を傾げる。

「あまり色が変わらない……塗り方が悪いのだろうか」
「あ、これ色が乗りにくいの。二回塗ったら丁度い……んっ!」

しょんぼりしていたから、丁寧に答えてあげていたのに。
その途中で、ぱくりと唇を食べるように塞がれた。どういうつもりだ。

私は杏寿郎の肩を押すけど、びくともしない。
そうこうしている間に背中に腕を回されて、顔を反らしても彼の唇は離れてくれない。抵抗虚しく唇を舐められて、舌が入ってくる感触がした。
甘い感覚が口内に広がって、杏寿郎の肩を強めに叩くと、次はさすがに離れてくれた。

「もう!  時間無いんだってば! 自分でやるから返して!」
「すまん! 悪気は無かった!」

ええ、そうでしょうね。悪気は無くとも、下心があったんでしょうよ。

私はリップを奪い返そうと手を伸ばすけど、杏寿郎は子どもみたいにリップを背中に隠す。

だったら、さっきの口紅を塗るまでだ。
私が口紅を手に取ると、杏寿郎が横から肩を掴んで揺らしてくる。
これじゃあ手元が狂うから塗れないじゃないか。

「なあ、もう一度! 次はちゃんとするから!」
「だめ。絶対ちゃんとしないでしょ。私の話聞いてなさそうだし」
「二回塗ると丁度いいんだろう!」

杏寿郎がキリッとした顔で言いのける。
私は呆れたように溜め息を吐いて、いや実際に呆れてるんだけど。とにかく急がねば、とリップブラシを再度手に取る。

「はいはい、ちゃんと聞いてて偉いね」
「頼む。もう一度だけ!」

スルーしてしまおうと思ったけど、必死に頼み込んでくる杏寿郎の姿が妙に可愛いものだから、それに勝てるわけがなく、私は先程とは違う意味で小さく息を吐く。

「しょうがないなあ……もう一回だけね」
「うむ!」

杏寿郎はぱあっと顔を明るくさせて、また私の顎に手を添える。
真剣な顔になって、先程よりかは震えが治まった手で、私の唇にリップを二回塗る。

ちゃんと出来たと褒めてあげようと思った瞬間、また口を塞がれた。
誰がもう一回キスまでしていいって言ったのよ。
しかも、次は後頭部に手を回されて、逃げようにも動けない。
口内に舌が侵入してきて、あちこち舐め回される。
肩を押しても叩いても、杏寿郎は退いてくれない。

「んっんー!」

抗議の声も、彼の口に飲み込まれて、言葉にならない。

舌先を吸われ、奥まで舐められて、首筋がぞくぞくする。これはやばいやつだ。

お互いの唾液が混ざりあって、私の口内に溜まっていく。
これが溢れたらせっかく塗ったファンデが落ちてしまう、と思って、不本意ながら唾液を飲み込むと、ごくりと喉が鳴った。

それに気付いた杏寿郎は、調子に乗って舌を絡めてくる。
首筋どころか背中までぞくぞくしてきて、私はいつの間にか甘い声を漏らしていた。

しばらくして、唇が離れたと同時に、私は彼の頬を思いっきり引っ叩いた。

「すごい嘘つくじゃん!」

次はちゃんとするって言ってたのに。信じた私が馬鹿だった。

杏寿郎は私の手の形に赤くなった頬を押さえながら、へにゃっと笑っていた。
お出掛けする約束を破られた上叩かれたくせに、キスのおかげでご満悦のようだ。

そんな可愛い顔しても、許してあげないから。

私は杏寿郎の手からリップを奪い取って、化粧ポーチにリップや化粧直し用の化粧品を突っ込む。
ポーチを鞄に入れてから、『行ってきます』も言わないで、家を飛び出した。







 




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