煉獄先生は泳げない
質実剛健。清廉高潔。文武両道。
顔も良ければ声も良く、身長も高くて、老若男女問わず人から好かれる性格で。
お仕事は、なんと中高一貫校の教師。
唯一の欠点は、人の話をあまり聞かないところだろうか。
ちなみに、料理もできないようだが、他が完璧すぎるので、それくらいは可愛く思える。
*****
「そんな煉獄先生がまさか泳げないなんて、貴方のかわいいかわいい生徒たちは、微塵も思ってないでしょうね」
からかうように言えば、杏寿郎がぐゎしっと音がしそうな勢いで頭を掴んできた。照れ隠しが物理的で痛い。
頭を掴まれ、視界を塞がれたまま、私はにぃっと口角を上げる。
「あれ〜? こんなことしていいのかなあ? 私に泳ぎ方を教えてほしいって言ってきたのは、どこの先生だったかしら?」
「ぐっ……好きにしろ」
悔しそうな声が降ってきて、視界が開かれる。
そんな、これから拷問される捕虜みたいな台詞を吐かなくてもいいじゃない。
私は慰めるように杏寿郎の肩を叩いて、彼をプールサイドへ促す。
ここは、地域住民なら誰でも格安で使える市民プールだ。
煉獄先生こと杏寿郎と私は、大人の力でコースを一つ貸し切っている。とは言っても、市民プールだから比較的お手頃な料金なんだけど。
日曜日の夜ということで利用者も少なく、子どもも居ないから、割とあっさり貸し切ることができた。
職員さんから説明を受けて、貸し切りの証である赤い旗をスタート台の上に立てる。職員さんは、『こちらのコースは貸切中です』と書かれた看板を立ててくれる。
さて、何故ただの友人同士の私達が、日曜日の夜に二人で市民プールのコースを貸し切っているのかというと、それは杏寿郎のためだ。
先程私が言った通り、杏寿郎は泳げない。筋肉の塊だから、そもそも浮かないのだろう。
彼の担当教科は歴史だから、今まで泳げなくても特に問題なかったのだが、学園の行事で海に行くことになったとか。そして、泳げないままだと愛する生徒に万が一のことがあっても助けられない、と気付いてしまったらしく。
私が彼に泳ぎ方を教えることになったのだ。
彼がどうして私を選んだのかはわからない。私は泳げると言っても人並みなのに。
でも、学生時代から仲良くしてくれてる杏寿郎の頼みを断れるほど、無慈悲な女ではないので、こうして駆け付けてあげたのだ。
杏寿郎の指導のもと準備運動を終え、プールに入る。
あれ、どうして杏寿郎が指導してるんだろう。今日、指導するのは私の役目なのに。
まあ、いいか。とりあえず、杏寿郎に何メートル泳げるのか聞いてみる。
「五メートル」
「五メートル……」
ついおうむ返ししてしまった。
五メートルかあ。それだと、ちょっと愛する生徒は助けらんないよね。むしろ、杏寿郎が助けられる側になっちゃうよね。
「えっと、潜るのはできる? 水の中で目開けれる?」
続けて尋ねれば、「それくらいはできる!」と返ってくる。そんな心外そうな顔されても、こっちが困るわ。
だって、五メートルって蹴伸びしたら辿り着く距離だからね。泳いだって言えないからね。
どうやら、杏寿郎は全くもって泳げないらしい。
「うーん。まずはバタ足からかなあ」
考えていることをそのまま呟いて、私は一旦プールから上がり、ビート板を取りに行く。
一つだけ取って来て、またプールに入ろうとしゃがみこむ。
ふと杏寿郎を見れば、私のある一点に熱視線を送っていた。
思わず、持ってきたビート板の角で杏寿郎の頭を殴ると、職員さんから「危ないですよ!」と注意された。
職員さんに謝って、プールに足を入れる。
「どこ見てんのよ、すけべ」
「すまん。君が目の前でしゃがむから、つい……」
「私のせいなの?」
溜め息を吐いて、プールに入る。
杏寿郎は口の中でもごもごと何やら言い訳をしている。
彼が熱視線を送っていたのは、私の脚の間だ。プールサイドでしゃがんだから、丁度杏寿郎の目線の高さにそこが来てしまったようだ。
それにしても、遠慮なく見るのはどうかと思う。いくら水着とは言え、あんなに見られたらさすがに恥ずかしいじゃないか。
熱くなる頬をプールの水で冷やして、気を取り直す。
「ほら、これ持って」
杏寿郎に、半ば押し付けるようにビート板を渡す。
「とりあえず、ビート板で二十五メートル泳げるようになろうね」
そう言うと、杏寿郎は素直に頷いて、端に背をつける。
そのまま蹴伸びして──いや、勢いすごいな。脚力だけでめっちゃ進むじゃん。
しかし、バタ足らしきものが始まると、耐えられなくなって笑ってしまった。
水飛沫がものすごいのに、全然前に進んでいない。どういう原理であんなことになっているのだろう。
笑いながら杏寿郎を止めて、バタ足のやり方から教えることにした。
*****
プールサイドに腰掛けて、杏寿郎の様子を見る。
この一時間の猛特訓で、バタ足で進むことはできるようになったみたい。
腕を乗せるようにビート板を持って、それに顎も乗せ、ひょこひょこと進んでいる姿がなんだか可愛らしくて、勝手に口角が上がる。
普段のしっかりしたスーツ姿からは想像できないほど、危なっかしい泳ぎ方だ。
私が居るところまで辿り着いて、杏寿郎がバッと顔を上げて立つ。
「どうだろうか!?」
そう聞いてくる彼の顔は、褒めてほしいと言わんばかりの笑顔で、まるで子どものようだ。
それがあんまりにも可愛いから、腰を折って彼の頭に手を伸ばす。
「うん、よくできました。けっこう上達したね」
褒めながら、よしよしと頭を撫でれば、杏寿郎の視線が泳いで、最終的に俯いてしまう。
さすがに撫でられるのは嫌だったかな、と思って手を引っ込めると、杏寿郎がゆっくり顔を上げる。
「君は、その……少々無防備すぎないか?」
「え?」
何の話だろう、と首を傾げると、杏寿郎はビート板をプールサイドに置いて、プールから上がって私の隣に座る。
改めて見ると、筋肉すごいな。これを至近距離で見れるのは、役得というやつだろうか。
そんなことを考えてながら顔を上げると、真剣な顔の杏寿郎と目が合った。
「もう少し、こっちの目線の高さを意識してくれ」
「えっ……あ、あー。なるほどね。そういうことね」
先程のことを思い出して、彼の言いたいことを理解する。
プールサイドに腰掛けている私が腰を折れば、プールの中で立っている杏寿郎の目線の高さに私の胸が来るわけで。
そんなに立派なものでもないけど、彼を動揺させるには充分だったらしい。
「ごめん。次から気を付ける……けど、杏寿郎って結構煩悩まみれなのね」
「まあな」
まあな、って。否定しないのは、誠実さ故か。
「今日はもう帰ろっか。続きはまた来週ね」
なんだか恥ずかしくなってきて、私は誤魔化すように笑った。
*****
着替えて、髪を乾かして、更衣室を出て、杏寿郎の姿を探す。
コーチ代としてご飯を奢ってくれるらしいので、今から一緒に定食屋さんに行くのだ。ここで飲み屋ではなく定食屋さんを選んじゃうのが、私達らしいと思う。
建物を出たところで杏寿郎を見つけ、彼に駆け寄る。
もう辺りは真っ暗だけど、街灯に照らされた彼の髪はきらきら光って見える。わかりやすくて助かるなあ。
「ごめん、お待たせ」
「いいや、そんなに待ってない」
さらりとそういうこと言えちゃうのが、彼がモテる理由の一つなのだろう。
「じゃあ、行こ……」
行こっか、と言い掛けて、彼の髪が濡れていることに気付く。光って見えたのは水滴か。
「だめだよ、ちゃんと乾かさないと」
私はくすくす笑いながら、バッグの中から未使用のタオルを取り出す。それを杏寿郎の頭に被せて、わしわしと彼の髪を拭く。
彼の背が高いから、ちょっと背伸びして腕を伸ばさないと、頭頂部まで手が届かない。
「風邪引いちゃうよ」
やっぱり、杏寿郎はちょっと可愛い。完璧な煉獄先生の生徒や同僚は、彼のこんな可愛い一面を知っているのだろうか。
こんな彼を知っているのが私だけなら、ちょっと嬉しいかも。
頭頂部、横の髪や後ろの髪、毛先と拭いて、あとは更衣室に戻ってドライヤーを借りられないかな、と考えていると、不意に杏寿郎の顔が近付いてきた。
びっくりして、一歩下がる。手も引っ込めようとしたけど、掴まれて逃げられなくなる。
「今日はありがとう!」
「い、いえ、とんでもないです……」
杏寿郎が至近距離で太陽のような笑顔を浮かべるから、どきっとしてしまう。そのせいで、思わず敬語になってしまった。
杏寿郎は私の手を掴んだまま歩き出す。
ドライヤー借りないのかなとか、これって手繋いだ状態じゃないかなとか、いろいろ考えたけど、私が口を開く前に杏寿郎が話し始めた。
「次は、終わった後に風呂に入れるよう、金曜か土曜の夜にしよう!」
それなら翌日が休みだからな、と杏寿郎が豪快に笑う。
彼が何を言っているのかちょっとわからない。そんなにお風呂に入りたいのかな。
「お風呂入りたいなら、今日はもう帰る? ご飯今度でもいいよ」
杏寿郎の足がぴたっと止まったので、私も彼に合わせて足を止める。
杏寿郎がこちらを振り向いて、独特な色の瞳と目が合う。
その瞳がきらきら光って見える。おかしいな。瞳は濡れていないはずなのに。
「何を言っている! 君も一緒に入るんだ!」
「え、どこに?」
「風呂だ!」
「おふろ……?」
どうして、私が杏寿郎と一緒にお風呂に入ることになってるんだろう。彼が何を言いたいのか、全くわからない。
「次は泊まりになるから、着替えも持ってきてくれ」
杏寿郎の目がすっと細められる。
そこまで言われたら、彼が何を言わんとしているのか察してしまって、心臓がうるさくなる。
「す、すけべ……!!」
「そうだな。君が無防備なせいだ」
精一杯の罵倒を口にしてみたけど、彼は全く堪えていない。それどころか、不敵な笑みを浮かべている。
それでも拒否する気は起きないから、私も大概だとは思うけど。
前 次
表紙 目次
main TOP