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秘湯案件


私は今、温泉を縁取っている岩に全裸で腰掛けながら軽く後ろを振り返っていて、その先の少し離れたところから、私の師範──煉󠄁獄さんが私を見下ろしている。

状況に頭がついていかない。どうしてこうなった。

私も煉󠄁獄さんも少しの間固まっていたが、私はバシャッと大きな音を立てて温泉に鼻下まで入り込む。

煉󠄁獄さんも我に返ったようで、パッと回れ右をする。

確か煉󠄁獄さんは、「三十間先まではっきり見える」と言っていたような気がする。

耐えきれなくなった私は、温泉の中で声にならない悲鳴を上げた。ぶくぶくと、目の前が泡立って波打つのを見ながら、今日のことを思い出す。


*****


今日は、弟子仲間の蜜璃ちゃんが教えてくれた秘湯とやらに来ていた。本当は蜜璃ちゃんと一緒に来たかったのだが、予定がどうしても合わず、一旦それぞれで行ってみて、文で感想を伝え合おうという話になったのだ。

弟子仲間とはいえ、蜜璃ちゃんは独創性が高く、恋の呼吸を新しく作り、煉󠄁獄さんに炎の呼吸を教わることがなくなってしまった。

私と違って、彼女はすぐ柱になるだろう。
そうなってしまえば、きっともっと会えなくなる。

『この前の任務で行ったところに、秘湯があるって聞いたの!一緒に行きましょう!』

蜜璃ちゃんがそう言ってくれたときは嬉しくて、一も二もなく了承したものだ。しかし、まさかこんなにも都合が合わないとは。

蜜璃ちゃん曰く、その秘湯は、山の中にあるらしい。道なき道をしばらく進むと、石段があって、その先に温泉があるという。
しかも、誰かがご厚意で、板張りの脱衣所を作ってくれているという。

蜜璃ちゃんに教わった道を進むと、それらしき温泉を見つけた。様子を伺うと誰も居なかったので、奥にあった脱衣所でさっさと隊服を脱いで温泉に入った。

昼間ではあるが、念のため、日輪刀は側に置いておく。出るかはわからないが、猿とかにでも盗られたら、刀鍛冶の人に殺される。

しばらく温泉に浸かっていると、さすがにのぼせそうになってきたので、温泉を縁取っている岩に腰掛ける。その直後に、背後の石段の方から足音が聞こえてきた。

もしかして蜜璃ちゃんが来たのかも!

今日、温泉に行くことは伝えていたし、都合が良くなったのかもしれない。
淡い期待を持って振り返ると、そこに居たのは煉󠄁獄さんだった。

そして、冒頭に戻る。


*****


「すまない……甘露寺に秘湯があると聞いて来たのだが、まさか雨宮がいるとは……」

いつも大きな声の煉󠄁獄さんが、珍しく弱々しい声で話している。
なるほど、煉󠄁獄さんも蜜璃ちゃんに教えてもらったのか……そんな話、蜜璃ちゃんから聞いてない。

しかし、温泉好きの音柱様ならともかく、煉󠄁獄さんとかち合うなんてことある?

煉󠄁獄さんがまだ服を着ていたことが、せめてもの救いだろうか。私は振り返り様とはいえ、がっつり全部見られてしまったが。

恥ずかしい。穴があったら入りたい。いや、温泉には入ってるんだけど。
明日から、どんな顔して煉󠄁獄さんに会えばいいのだろう。まだまだ教わることはたくさんあるのに。

「雨宮。その、怒っているだろうが……とりあえず、俺は帰る。本当にすまない」

煉󠄁獄さんが謝っている。とにかく、返事をしなければ。全然良くないけど、「いいですよ、気にしないでください」って言って差し上げなければ、堅物の師範は一生気にしてしまうだろう。

しかし、頭がぼうっとする。上手く脳が働かない。
ぽちゃんと音がしてから、なんだか息ができない。体も言うことを聞かない。

私は、先程のぼせかけていたことを思い出す。

恥ずかしさも相まって、完全にのぼせてしまった私は、気付けば温泉の中に沈んでいた。

「雨宮!!」

煉󠄁獄さんの大きな声が、くぐもって聞こえた。


*****


目を開けると、天井が見えた。

ゆっくりと体を起こす。周りを確認すると、ここは脱衣所だとわかった。

私の髪はまだ少し濡れていたが、体はほとんど乾いている。それどころか、隊服を着ている。羽織や草履は、脱いだときのまま床や棚に置いてあるし、日輪刀は私の側に立て掛けてあった。
よく見ると下着もそのまま置いてある。嘘でしょ、と思いつつも、胸や腰回りの感触がいつもと違うことに気付く。

一体何があったのだ。温泉に沈んだところまでは思い出せるが、その先が思い出せない。まだ頭がぼうっとしている。

「雨宮!目が覚めたか!ほら、水を飲むといい!」

突然の声に驚いて振り向けば、全体的にぐっしょり濡れている煉󠄁獄さんが竹筒を持って、近付いてきた。

湧水を汲んできてくれたらしい。それを受け取って飲むと冷たくて、熱くなりすぎた体が冷える感じがした。
そして、頭も鮮明になってきた頃、煉󠄁獄さんが話し始めた。

「雨宮が気絶していたから、引き上げさせてもらった!そのままにするわけにはいかなかったので、その……すまない」

段々と声が弱々しくなる。

「体を拭いた」

私は盛大に湧水を吹き出し、思いっきりむせた。
いや、もう、お嫁に行けないし煉󠄁獄さんの顔を見れない。

隊服を着せてくれたのも煉󠄁獄さんだろう。下着がそのままなのは、着せ方がわからなかったから。

むせる私の背中を煉󠄁獄さんがさすってくれようとしたが、条件反射で立ち上がって避けてしまう。

煉󠄁獄さんの表情は一見変わっていないように見えるが、動揺していると分かった。

「申し訳ありません。師範は悪くないんです……ですから……」

気にしないでください、と言おうとしたが、視界が揺れた。立ちくらみだ。

ふらつく私を、煉󠄁獄さんが立ち上がって、抱き止めてくれる。
煉󠄁獄さんに寄りかかってしまい、抱き締められるような体勢になり、私の心臓は破裂寸前になる。

慌てて離れようとしたが、「危ない!大人しくしろ!」と言われ、煉󠄁獄さんの腕に力が入り、動けなくなってしまう。

ぐるぐると回る視界。頭に集まる血。全身が熱い。
私、多分、今日死んじゃう。

「すまない!責任は取る!」という、煉󠄁獄さんの力強い声が聞こえる。
その言葉の意味を考えると、余計に体が熱くなる。


今日のことは、無かったことにして、明日からも貴方に稽古をつけてもらわなきゃいけないし、つけてもらいたいんです。
でも、もう、今まで通りは無理そうです──


私は再び、意識を失った。







 




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