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緑の鈴を貴女に願う 八 十八歳
順調に行けば、今日は深月が元の年齢に戻る日だ。
期待を込めて、杏寿郎は蝶屋敷に向かう。
昨日は、恋仲になる前の深月に口吸いをしてしまい、大層怒らせてしまったが、元に戻ればまた深月に遠慮なく触れられると思うと嬉しくなって、杏寿郎の口角は上がる。
蝶屋敷に着き、深月の病室へと足を進める。
しのぶが、深月が居る間なら、と自由に出入りを許可してくれたが、今は早朝なので、少女達や他の患者を起こさないよう、足音は潜める。
覗きこむように病室へ入り、杏寿郎は目を見開く。
深月は既に起きていた。
まだ寝間着ではあるが寝台に腰掛け、まだ薄暗い窓の外を眺めていた。
すっと伸びた背筋に、澄んだ眼差し。
彼女の纏う雰囲気は、杏寿郎も知っている剣士としてのそれで、杏寿郎は立ち止まってほうっと小さく息を吐く。
その息遣いが耳に入り、深月は振り返る。
「あ、おはようございます」
杏寿郎を視認したと同時に、愛おしそうに目を細める。
杏寿郎は寝台まで歩いていき、深月の隣に腰掛けた。
彼女の髪に手を伸ばし、一房取って口付ける。
「おはよう。体調はどうだ?」
「大丈夫です。元通りですよ」
杏寿郎の行為に少し頬を赤らめながらも、深月は笑顔で返事をする。
今の彼女は完全に元に戻っており、血鬼術にかかったことから、ここ数日杏寿郎が世話を焼いてくれたことまで、きちんと覚えている。
「私のお世話、大変だったでしょう。ありがとうございます」
「深月は小さい頃からいい子だったぞ!」
「そ、そんなこと……」
杏寿郎が太陽のような笑顔で言ってくるので、深月は照れて俯く。
『いい子』だなんて、そんなことはない。
血鬼術にかかった初日には、杏寿郎やしのぶのことを人拐いだと思っていた。
鬼殺隊に入ってからも問題を起こしているし、昨日の自分は杏寿郎のことを噛んで殴った。
それでも、小さい頃から今までずっといい子だったかのように言われて、嬉しくなる。
照れる深月が可愛くて、杏寿郎は彼女を抱き寄せる。
深月は杏寿郎にされるがまま、その腕の中にすっぽり収まる。
「やっぱり、安心しますね」
深月はぽつりと呟くように言う。
杏寿郎の腕の中はとても心地好く、安心する。
それを体が覚えていたのか、幼い深月も杏寿郎の腕に安心していた。
そこで、杏寿郎は深月をゆっくり押し倒した。
予想外の出来事に、深月は抵抗することなくぽすんと寝台に倒れる。
杏寿郎は目を細め、深月に顔を近付けて、唇を重ねようとする。
しかし、それは深月の手で塞がれた。
「だめです」
「むう。それなら、家に帰って……」
さすがに蝶屋敷ではあんまりか、と杏寿郎は塞がれた口でもごもごと提案する。
だが、深月は首を横に振った。
「場所もですけど、ほとんど寝てないでしょう?今日は休んでください」
そう言って、困ったように笑う深月。
杏寿郎は暫し悩んだ後、深月を抱き起こす。
拒否の理由が自分を気遣ってくれてのものなら、無下にするわけにはいかない。
それに、寝不足なのも事実だった。
正直、頭がちゃんと働いていない気がして、杏寿郎は小さく溜め息を吐く。
深月はにっこり笑って、杏寿郎の頭を撫でる。
「まずは寝てください。私も、しのぶさん達に挨拶をしてから帰りますから」
「うむ。わかった。先に帰って待っている」
杏寿郎は深月の額に軽く口付けてから、蝶屋敷を後にした。
*****
窓の外が明るくなった頃、アオイが様子を見に来たので、深月は戻った旨を伝えた。
しのぶや蝶屋敷の少女達に礼を言い、隊服を着て煉獄家へと帰った。
槇寿郎や千寿郎に、家を開けていたことを謝罪してから、杏寿郎の部屋へ行く。
障子越しに声を掛ければ、「入っていいぞ」と返事が返ってきた。
起きていたのだろうか。それとも、起こしてしまったのだろうか。
そんなことを考えながら、深月は杏寿郎の部屋に入る。
杏寿郎は寝起きのようで、布団の上で座って、ぼんやりと深月を見てくる。
寝癖はついているし、いつもはしっかり着ている寝間着もほんの少し乱れていて、深月はくすっと笑う。
なんだか、まるで槇寿郎のようではないか、と。
杏寿郎に近付き、彼の寝癖を整えながら、深月は口を開く。
「只今帰りました。すみません、起こしてしまいましたね」
「いや、さっき起きたから、大丈夫だ」
頭を撫でるように寝癖を整える深月の手が心地好くて、杏寿郎は目を伏せる。
それを見て、また眠くなったのだろうと思った深月は、微笑んで布団を軽く叩く。
「寝るなら横になってください」
しかし、杏寿郎は目を伏せたまま動かない。
深月は首を傾げ、彼の顔を覗きこむ。
「杏寿郎?」
そこで、杏寿郎は大きく目を見開いた。
急に目を開ける彼に驚いて、深月はびくっと肩を震わせる。
杏寿郎は、呆けた顔で深月を見つめる。
深月は今しがた、杏寿郎のことを呼び捨てにした。
恐らく、血鬼術に掛かっている間、呼び捨てが定着してしまっていた影響なのだろう。
幼い深月の声で聞く自分の名前は新鮮だったが、今の深月の声での呼び捨ては、なかなか甘美な響きだった。
「あの、どうかされました……?」
深月は困惑した顔になり、恐る恐る尋ねる。
自分の失言には気付いていない。
完全に目が冴えた杏寿郎は妖しい笑みを浮かべて、深月を抱き寄せる。その上で彼女の顎を掴んで、上を向かせる。
「もう一度、呼んでくれないか」
「えっ……あ!」
杏寿郎の言葉で失言に気付いた深月は声を上げる。
みるみるうちに、耳まで真っ赤になる。
「ちが……すみません!間違えました!」
「怒っているわけではない。もう一度聞きたいだけだ」
「えっと、その……恥ずかしいので、無理です……」
真っ赤なまま震え、目を瞑ってしまう深月。
「この状況で、そんなに可愛い顔をするのか」
杏寿郎はそう呟いて、深月を布団の上に組み敷いた。
深月は逃げようとするが、力比べで杏寿郎に勝てるわけがない。わかっていても、つい抵抗してしまう。
杏寿郎はふっと笑って、深月の耳に顔を寄せる。
「今日は、いつものように呼ばれたら、意地悪することにしよう」
「えっ!?」
深月は硬直する。
この状況での『意地悪』とは、つまりそういうことだろう。
だったら、黙っていれば問題なく済むのではないか、と考える。
しかし、その考えは見透かされていたようで、杏寿郎は上体を起こしてにっこりと笑う。
「ああ、呼ばないというのは無しだからな」
笑顔のまま、杏寿郎は深月の隊服の釦に手を掛けた。
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