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緑の鈴を貴女に願う  七 十五歳A


杏寿郎は、ひたすら深月に頭を下げる。

「すまん。深月。悪かった」

どうにか許してほしいと彼女に手を伸ばすが、深月は警戒心や怒りを隠さず杏寿郎を怒鳴り付ける。

「触らないで!変態!」

『変態』はさすがに傷付き、杏寿郎は眉を下げた。
この頃の深月は、自分に全く好意を抱いていなかったのだと実感し、辛くなる。

しかし、彼女の許可を取らずに口付けたのは事実だし、寝不足など言い訳にはならない。

杏寿郎はまた頭を下げる。

誠心誠意謝られ、深月も怒り続けるのは悪い気がしてきて、不機嫌そうなままではあるが、なんとか息を吐いて心を落ち着ける。

「もうしないでくださいね」
「ああ。約束する!」

深月の言葉は、この話題を終わらせるものだったので、杏寿郎は明るい表情になる。
許してもらえたわけではなさそうだが、ずっと怒り続けることを止めてくれたのだ、と。

そこで、杏寿郎はさらに謝るべき事柄に気付く。

昨日の──十三歳の深月は、ひどく杏寿郎のことを怖がっていた。
話をした後は心を開いてくれたが、『自分より大きい人が怖い』という深月の事情は、変わっていないのではないだろうか、と考える。

杏寿郎が知っている深月は、男性を怖がったことなどなかったが、それは惨劇で家族を失くして、感覚が麻痺していただけなのかもしれない。

今目の前に居る深月は、血鬼術の影響により十三歳の頃の記憶も鮮明に残っていることだろう。
人拐いに遭った、恐怖の記憶が。

もしそうなら、杏寿郎に突然接吻されたのは、かなり怖かったのではないだろうか。

「深月、本当にすまん。怖い思いをさせただろう……」

杏寿郎は再度頭を下げるが、深月は首を傾げる。

突然の接吻どころか口吸いは嫌だったが、怖かったのは杏寿郎に対してではなく、知らないはずの快感に反応した自分の体に対してだ。

「別に、貴方のことを怖いとは思わなかったけど……」

深月がそう言うと、杏寿郎は顔を上げて、驚きに目を見開く。
一体どういうことだろうか、と疑問を口にする。

「自分より大きい人間が、怖いんだろう?」
「ああ、それですか。それ、十四になる前に治りました」

杏寿郎はさらに目を見開く。
あんなに怖がっていたのに、もう平気なのか、と。

杏寿郎の驚きや疑問を察した深月は、小さく溜め息を吐いてそれに答える。

「割とすぐ慣れたんですよ……」

人拐いに遭い、自分より大きい人間が駄目になった深月だったが、彼女の周りは自分より大きい人間だらけだった。

雇って日が浅い使用人も、店の客も、ご近所さんですら、世の中の人間の大半は、幼い女の子の深月より大きかった。

そして、彼らのほとんどは心優しい人間だった。
彼らは深月を怖がらせるつもりなどなく、事情を知っている人間は、深月の今後の人生が少しでも明るくなるように、といろいろ気を使ってくれた。

そのお陰で、深月は自分より大きい人間への恐怖を克服できたのだ。

「そうだったのか。それはよかった。深月はいろんな人に愛されて育ったんだな」

深月の説明を聞いて、杏寿郎は安心したように微笑んだ。

その笑顔にどきっとして、深月は顔を背ける。
ついさっきまで怒りや警戒心を向けていた相手にときめくなんて正気の沙汰じゃない、と自分を責める。

杏寿郎は恐る恐る、深月の背中に手を添える。
背中の感触に肩を跳ねさせ、深月は杏寿郎を振り返った。

杏寿郎は、悲しそうに笑っていた。

「傷は痛まないか?君はいつ頃の深月なのか……完治した頃だといいのだが」

その優しい声と、背中を撫でる優しい手に、深月は安心して、胸が締め付けられるような感じがした。

「大丈夫です。私の記憶では、完治したと聞いた後です」

平静を装って答え、杏寿郎の表情を観察する深月。

彼の表情は、十五歳の深月の記憶と随分違っていた。
いつも浮かべていたような笑顔ではなく、微笑んだり眉を下げたりと、結構表情が変わる。

特に自分を見る際の瞳が違う気がして、深月は杏寿郎から目を逸らす。

そして、話題を変えるついでに、さっきから胸の中で燻っていた疑問を解消しようと尋ねる。

「ねえ、どうして……接吻してきたの?」

突然接吻してきた理由がわからなかったし、もし理由があるなら、それくらいは聞いておくべきではないかと思っていたのだ。

そして何より、目の前の青年が理由もなくあんなことをするとは思えなかった。

杏寿郎は少し悩んだ後に明るい笑顔で答える。

「深月のことが好きだからだ!」
「なっ……何言ってるの!?それでどうしてあんなこと……!」

深月は顔を真っ赤にして激昂する。
例え好意を抱いている相手でも、あんなに激しい口吸いをするものか、と。

十五歳の深月は、まさか十八歳の自分が杏寿郎とそういう仲だとは夢にも思っていない。
その上、初めての接吻があんなに厭らしいものになったので、せっかく鎮めようと思った怒りがまたぶり返してくる。

杏寿郎は深月の手を握り、指を絡める。
深月はぎょっとするが、杏寿郎は構わず彼女の手を口元に持ってきて、その甲に口付ける。

「十八歳の君は、俺の婚約者だからな」
「えっ……ええ!?嘘!」
「嘘じゃない」

杏寿郎の返答に真っ赤なまま眉を下げる深月を見て、杏寿郎の中に悪戯心が芽生えた。

逃げる深月を抱き寄せ、彼女の耳に口を寄せる。

「ちなみに、婚前交渉も済ませている。褥での君は、とても艶かしく愛らしい」

わざと耳に吐息をかけながらそう囁けば、深月は顔どころか全身真っ赤にする。

杏寿郎は深月の顔が見える位置に移動する。

これ以上ないくらい顔を赤くして震える深月は、杏寿郎の手を振りほどくことも忘れ、硬直していた。

その反応が可愛らしくて、全く好意を抱いていないという程でもなかったかもしれない、と感じて、杏寿郎の口角は自然と上がった。





 




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