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第四章  十八


目の前に、琴があった。
なんでこんなものがあるのだろう、と深月は呆ける。

「深月?」

名を呼ばれ、深月はハッと顔を上げる。

「大丈夫?指を切ったのかしら?」

母が顔をのぞきこんできていて、深月は違和感を覚えた。
それが何なのかは分からなかったが、妙に胸が苦しくなって、泣きたくなった。

母は深月の手を取り、傷がないことを確認する。

「大丈夫です。すみません、少しぼうっとして……」

深月は笑顔を作り、母の手を押し返す。

「けれど、まだ練習は終わっていないでしょう?先生がもうすぐいらっしゃるのに」

母は困った顔になる。
きっと、深月を心配しているのではなく、琴の先生の前で深月が失敗するのが怖いのだろう。

愛情たっぷりで深月を育ててくれる母だが、世間体や体裁を優先することがあるのだ。

深月は再度大丈夫だと言って、母を部屋から追い出す。
母の足音が聞こえなくなってから、溜め息を吐く。

琴も、生け花も、茶道も、うんざりだった。

こんなお嬢様がやることなんかより、掃除や洗濯などの体を動かす事の方が好きだ。もっと、自分のやりたいことをやりたい。

父が財を築いてから、深月は急に商家のお嬢様として相応しい振る舞いを求められた。
習い事をさせられ、家事は女中に任せろと言われ、高い着物を着せられる。

もう何年も経ったので、慣れたと言えば慣れたが、うんざりしないかと言えば話は別だった。

「家事をやってる方が楽しいのになあ……」

これも、良い縁談をもらって、父の事業を発展させるためだ。習い事を拒否したって、それを受け入れてくれるわけじゃないので、我慢するしかない。

両親のことは好きだが、両親の仕事は好きじゃない。

深月は再度溜め息を吐いて、琴の練習を再開した。


*****


習い事が終わると、深月は弟妹達の姿を探す。
弟妹達も何かしら習い事をさせられているが、彼らもそろそろ終わった頃だろう。

弟妹達と遊んで、癒されようと思ったのだ。

深月が廊下を歩いていると、後ろから何かに飛び付かれた。

「姉上ー!」

末の弟だった。彼を皮切りに、他の弟妹達も廊下の奥から飛び出してきて、深月に抱き着いてくる。

遊んで遊んでとせがまれて、深月は満面の笑みを浮かべた。


*****


普段通りに過ごしているのに、深月はどうにも違和感が拭えなかった。
このお嬢様のような生活に、ではない。何かが、根本的に、違っているのだ。

一体どうしたのだろう、と深月は首を傾げるが、答えはなかなか出なかった。

「姉様、お腹空いた」

ふと、妹が袖を掴んできたので、深月は正気に戻る。
妹の手を取って微笑み、台所に行ってみようと提案する。

「女中さんに、おやつがないか聞いてみようか」

それを聞いた他の弟妹達が、みんなおやつを欲しがって着いてくる。
それが可愛くて、深月はみんなを纏めて抱き締めるが、一瞬視界が赤く染まり、驚いてふらついてしまう。

「大丈夫?」
「どうしたの?」

弟妹達が見上げてくる。
その中の末の弟が視界に入った瞬間、彼の体がような気がして、深月は口を押さえる。

しかしすぐにそれは気のせいだと気付き、深月は弟妹達を安心させるように微笑んでから、彼らの手を引いて台所へ向かった。


*****


「すみません、何かおやつになるものありませんか?」

台所に立つ女中達へ尋ねると、彼女達は快くお菓子を探し始めてくれた。

それを待つ間、深月はふと、釜戸の炎を見る。
赤く爆ぜるそれに、目を奪われた。

熱い火。紅蓮の炎。
燃えているのは、炭ではなくて、何か別の──

何かが引っ掛かって、頭痛がしてくる。
深月は膝をつき、額を押さえて蹲る。

何かがおかしい。何かを忘れている。
大切な何かを。忘れてはいけない何かを。

弟妹達や女中が心配そうに声を掛けてくれるが、とても遠くに聞こえた。

深月はまた、炎を見る。
触れれば火傷するそれは、正しく扱わねば怖いもののはずなのに、とても心地好いもののような気がした。

『深月!』

知らない誰かの声が聞こえる。
自分の名前を呼ぶその声は優しい声音で、知らないはずなのにもっと聞きたいと思った。

『持てる力の全てで君の笑顔を守り抜くと誓おう』

その声は、深月の脳内でいろいろな言葉を紡ぐ。

『深月。結婚しよう』

段々と、声の主の姿が頭に浮かんでくる。

『君の強さと優しさの証は、いつでも綺麗だ』

ところどころ赤い、燃えているような色の髪。

『好きだ。側に居てくれるか?』

自分に向けられる優しい眼差し。柔らかく弧を描く唇。

『俺は煉󠄁獄杏寿郎だ!君は、雨宮深月という名だと聞いた!』

この世で一番、愛しい人。

「杏寿郎さん……」

深月は顔を上げ、愛しい人の名前を呼んだ。





 




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