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第四章 三十
千寿郎は、恐る恐る父の部屋の障子を開ける。
父が居ることを確認して、炭治郎から聞いた、杏寿郎の言葉を伝えようと口を開く。
しかし、すぐに怒鳴り声が飛んできて、びくっと体を強張らせる。
頑張って、再び口を開くが、やはり飛んでくるのは怒声だけだった。
くだらない、と。
どうせ自分への恨み言だろう、と。
最後に「さっさと出て行け」と怒鳴られ、千寿郎は「わかりました」と答える。
障子を閉める前に父の背中を見つめ、もう一度だけ口を開く。
「体を大切にして欲しい。兄上が父上へ伝えようとした言葉はそれだけです」
てっきり、恨み言だと思っていたのに。
予想外の言葉に、槇寿郎は眉を下げる。
カタンと音を立てて、槇寿郎の背後で障子が閉まった。
『行って参ります、父上』
酒に溺れ、剣士を辞めた父に、それでも笑顔を向ける息子の顔を、槇寿郎は思い浮かべる。
彼が、恨み言を遺そうとするわけがなかった。
見舞いにすら行っていないが、杏寿郎はまだ目が覚めない程の重傷で、彼を想って、千寿郎も深月も随分落ち込んでいる。
それなのに、自分は相も変わらず酒を飲んでばかり。
いや、しかし、自分の言うことを聞かない杏寿郎や深月が悪いのだ。
そう思って、酒を煽ろうと瓶を持ち上げるが、その手は瓶に口をつける前に止まった。
暫しそのまま硬直してから、ドンと音を立てて酒瓶を畳に置く。
「……杏寿郎!!」
いつの間にか、息子のことを想って、涙が出てきた。
「うっうっ……」
嗚咽を漏らしながら泣き続ける槇寿郎の視界が、ふと暗くなる。
少し前を見れば、履き物を履いたまま縁側に立っている足が見えた。
その小さめの足と、履いている靴下には見覚えがあった。
槇寿郎は、バッと顔を上げる。
そこには深月が居て、じっと槇寿郎を見下ろしていた。
「お前、土足で……何を……!」
怒鳴り付けようとしたが、驚きの方が勝って上手く言葉が出て来なかった。
「庭で鍛練していたら怒鳴り声が聞こえたので、来てみたんですけど……」
深月は槇寿郎の涙を見て、その場にしゃがみこむ。
「これからはもっと分かりやすく、杏寿郎さんと千寿郎君を愛してあげてくださいね」
そう言って、困ったように笑う。
槇寿郎は涙を拭い、怒りと恥で顔を真っ赤にする。
深月に泣きっ面を見られたことは恥だったし、分かったようなことを言う彼女に腹が立った。
「お前に何が分かる!?」
「分かりません。でも、私は両親に愛されて育ったので」
深月の言葉に、槇寿郎は言葉を詰まらせる。
「ほら、やっぱり槇寿郎様、本当はお優しいんです」
深月はふっと笑って、膝を突く。
今、槇寿郎が言葉を詰まらせたのは、深月の両親が既に死んでいるからだろう。
「その優しさを、できるだけ分かりやすく、杏寿郎さんと千寿郎君に伝えてください。子供は、それだけで結構愛されてるって実感しますから」
両親に愛されて育った故に、妙な説得力があった。
槇寿郎は不快そうな顔になり、酒瓶を深月に投げ付ける。
今日の深月は、それをしっかり受け止めた。
「どうして、お前がうちの事に口を出すんだ!?」
酒瓶を床に置いて、深月はふわりと微笑む。
「槇寿郎様は、いずれ私のお義父様になるわけですし」
この期に及んで、この娘は何を言っているのか。
槇寿郎は呆けて何も言えなくなる。
それに、と深月続ける。
「炭治郎君から聞いたんです。杏寿郎さんが私に伝えようとした言葉は、『自分のことは忘れて、どうか幸せに』」
槇寿郎は目を見開く。
その言葉を聞いたのなら、余計に煉獄家の事は放っておけばいいだろう。
ここを出て、新しい恋人でも見つければいいだろう。
だが、杏寿郎の言葉はそれで終わりではなかった。
「『でも、できれば父上と千寿郎のことを頼む』ですって」
槇寿郎の目に、また涙が浮かぶ。
しかし、深月の前なので、意地だけで堪える。
深月は愛おしそうに目を細める。
杏寿郎のことを忘れることなど、できるわけがない。
その上、槇寿郎と千寿郎のことを任されたら、断れるわけがない。
いや、杏寿郎が何も言わなくとも、槇寿郎や千寿郎のことも忘れろと言っていても、深月は彼らのことを気に掛けただろう。
それくらい、二人のことも大切なのだ。
既に、彼らを家族と思っているのだ。
槇寿郎は呆れたような、鬱陶しそうな溜め息を吐く。
「とりあえず、お前は履き物を脱げ」
長男が選んだ娘は、少々変わっているがなかなかに愛情深い女だった。
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