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生存if 弐  四三


深月はしばらく宇髄の嫁達と談笑していたが、そのうち息子がくしゃりと顔を歪めた。

あ、泣く、と思ったときにはもう遅くて、息子は父親譲りの大声で泣き始めてしまった。

「お腹空いちゃったのかな。すみません、失礼しますね」

深月は宇髄や彼の嫁に頭を下げて、くるりと向きを変える。
宇髄の嫁だけならまだしも、宇髄や他の隊士がいるのだ。その場で授乳するわけにはいかなかった。

深月が歩き始めると、集まっていた他の隊士がささっと道を開ける。
共に稽古をつけてもらっているが、彼らにとって、彼女はあくまでも上官だ。

杏寿郎も深月に着いていき、宇髄も着いてこようとしたところで、杏寿郎が振り返ってにっこりと笑った。
ただ、彼の額には青筋が浮かんでいるが。

「宇髄。よもや、ついてくる気ではあるまいな?」
「いいじゃん。減るもんじゃねぇし」

宇髄としては、赤ん坊の世話をしている杏寿郎や深月が珍しいだけで、別に疚しい気持ちなどなかったが、だからといって杏寿郎が深月の授乳姿を他の男に見せるわけもなく。

「減る減らないの問題ではない!深月の肌を見ていいのは俺だけだ!」

背後から聞こえてきたやり取りにぎょっとして、深月も振り返り、杏寿郎の袖を引いて口を開く。

「ちょっと、恥ずかしいこと大声で叫ばないでください!」

そして、宇髄を軽く睨み付ける。

「宇髄さんも着いてこないでくださいね!」

深月もさすがに、杏寿郎以外の前で肌を晒す気はない。
まだ青筋を浮かべている夫の袖を引いて、他から見えない森の奥へと消えていった。


*****


「この辺でいいかな。杏寿郎さん、ちょっとお願いします」

深月は杏寿郎に息子を渡し、隊服のシャツの釦を開ける。

ちなみに、詰襟や羽織は稽古の序盤で脱いでしまった。
走るだけとはいえ、基礎体力の向上が目的なので、体力の限界を越えて走らされるのだ。暑くて、汗が止まらなくて、詰襟なんて着ていられなかった。
他の隊士はほぼ男なので、上半身裸で走っていたくらいだ。

半襦袢の襟も広げ、深月ははた、とあることに気付いて止まる。
汗まみれの状態で、息子にお乳をあげるわけにはいかない。せめて、息子が口にする部分だけでも汗を拭かなければ。

しかし、手拭いは詰襟に入れているし、シャツにも汗が染みていて、これで拭ったところで意味がないだろう。

深月がわたわたとしていると、杏寿郎は少し吹き出した。相変わらず可愛い仕草をする、と自然と笑みが溢れる。
懐から手拭いを取り出して、深月の胸を拭いてやろうと手を伸ばす。

「じ、自分でやります!」

深月は慌てて杏寿郎から手拭いを奪い、彼から見えないように、襟に手を突っ込んで胸の汗を拭き取る。
手拭いを返して、息子を受け取り、授乳を始める。

やはりお腹が空いていたようで、息子はお乳を飲み始めた途端、ぴたりと泣き止む。

杏寿郎は口元に手をやり、「むう」と困ったような声を上げる。

「出掛けに牛乳を与えたんだが、足りなかったようだな」
「食事の量も、杏寿郎さんに似たのかもですね」

深月はくすくす笑いながら、息子を見下ろす。
この世で一番可愛い息子は、愛しい旦那様そっくりで、稽古の疲れなど吹っ飛びそうだ。

そこで、杏寿郎が羽織を脱ぎ、それを深月の肩に掛けた。深月を抱き締めるようにして、羽織や袖で彼女と息子を隠す。

深月は突然どうしたのか、と尋ねようとして、近付いてくる気配に気付く。
それは一つではない。数人程度だろうか。

溜め息を吐いて、杏寿郎に一歩近寄る。

「呆れた。お灸が必要ですね」
「そうだな。飛びっきりきついのを据えてやろう」

杏寿郎は深月を抱く腕に力を込め、眉間に皺を寄せて、気配がする方を睨み付ける。

「君達、先ほどの宇髄と俺のやり取りを聞いていなかったのか?」

息子が驚いてはいけないので、少しだけ声量を押さえて、気配の主達に問い掛ける。
すると、がさがさと物音を立てながら、気配は四方八方に散らばって離れていった。

どうやら、隊士数名が覗きに来ていたらしい。
健全な男子としての行動かもしれないが、人妻の胸を覗きに来るなんて、剣士の風上にも置けない。

顔は見ていないが、杏寿郎は元炎柱、深月は現炎柱だ。気配だけで、ある程度どれが誰かの判断はつく。

まあ、柱夫婦の覗きに挑む度胸と元気があるなら、多少お灸を据えても稽古は続行できるだろう。

どうしてやろうか、と杏寿郎は彼らに与える罰を考え始めた。


*****


授乳を終え、眠ってしまった息子を抱えて、杏寿郎と深月は宇髄達の元へ戻った。

そして、二人して目を見開いて、顔を見合わせて破顔した。

先ほど、灸を据えてやろうと思っていた隊士達が、既に宇髄に竹刀を振り下ろされていたからだ。
杏寿郎や深月が灸を据えるまでもなく、深く反省しているようだ。

杏寿郎は豪快に笑いながら宇髄に歩み寄り、彼の肩を叩いた。

「流石、仕事が早いな!」
「当たり前だろ。俺様を誰だと思ってやがる」

宇髄は明るい笑顔で返して、手首から先が失くなった左腕を、杏寿郎の肩に組んだ。

お互い柱を引退しても、かつてと変わらない仲の良さだった。





 




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