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第一章 二一
杏寿郎の少し遠出しての任務は、割とすぐに終わった。
しかし、移動に二日程かかる距離のため、どんなに頑張っても、今日中には帰れない。
深月は目を覚ましただろうか。傷は大丈夫だろうか。泣いてはいないだろうか。
そんなことばかり考える道中だった。
杏寿郎はふと、深月の笑顔を思い出す。
出会ったときは、よく怒る子だった。家族の死に打ちのめされて、自分が生きていることにすら苛ついているような子だった。
それが、今はよく笑うようになって、表情も怒り以外にころころ変わるようになった。
ああ、早く彼女の笑顔が見たい。泣いていたら、大丈夫だと言って、安心させてあげたい。
そう思いながら、杏寿郎は帰り道を急いだ。
*****
杏寿郎が帰宅したのは、任務完了翌日の日暮れ時だった。これでも道中の鬼を狩りながら、とても急いで帰ってきたのだ。
彼の帰宅を出迎えたのは千寿郎だけで、杏寿郎はひどく疲れているのに、千寿郎と話しながらもそわそわと深月の姿を探してしまう。
千寿郎はそれに気付いたようで、微笑みながら杏寿郎に伝える。
「深月さんなら、お元気ですよ。湯浴みに行かれてます。でも、もう上がってお部屋に居るかもしれません」
「そうか!ありがとう、千寿郎!」
杏寿郎は千寿郎の頭を撫で、深月の部屋へと向かった。
深月の部屋からは明かりが漏れていて、中に深月の気配がある。杏寿郎は声を掛けようとしたが、直前で躊躇する。
千寿郎の話からすると、深月は湯浴みを終えたばかりだろう。
今まで気にしたこともなかったが、彼女は同い年の異性だ。思い返せば、人工呼吸のためとはいえ口付けたこともあるし、先日は胸まで見てしまった。
杏寿郎は、障子の前で固まったまま、「深月は自分と顔を合わせたくないのではないか」と不安になってしまった。
その不安を払うかのように、杏寿郎が首をぶんぶんと振っていると、障子が開かれた。
杏寿郎の気配を感じた深月が出てきたのだ。
「杏寿郎さん?どうしたんですか?」
杏寿郎は深月を見て、すぐに目線をずらした。
湯上がり姿の彼女は既に寝間着で、髪はまだ少し湿っている。ついこの間まで気にならなかったのに、今は見てはいけないものを見ている気分になる。
杏寿郎の様子に小首を傾げながら、深月は障子を少し大きく開けた。
「お時間があるなら、少しいいですか?私、杏寿郎さんにお話したいことが沢山あるんです」
そう言って、躊躇いなく杏寿郎を部屋へ招く深月。
当たり前のように招かれたので、杏寿郎もつい部屋へ入ってしまった。
障子を閉めてから、中を見てぎょっとする。深月は早く寝るつもりだったらしく、部屋に布団が敷かれていたからだ。
本当に何もかも今更だが、これはまずいのではないか、と杏寿郎は狼狽する。
それに気付かない深月は、急に「あ、そうだ!」と声を上げ、杏寿郎を振り返った。
「おかえりなさい。杏寿郎さん」
そう言って柔らかい笑顔を見せる深月。
それを見て、思わず抱き締めたくなるのを、杏寿郎は強靭な精神力で耐えた。
深月は畳に座り、杏寿郎も向かいに座る。
すると、深月は畳に額がつきそうなほど、頭を下げた。
「また助けていただいて、ありがとうございました」
そう言って顔を上げ、微笑む深月。
「あの時、杏寿郎さんが来てくださって、すごくほっとしました」
杏寿郎がどんなに必死な思いで理性を保っているか知らない深月は、警戒心を微塵も見せず話を続ける。
槇寿郎に怒られなかったこと。
怪我は思いの外浅かったこと。
しのぶからもらった薬のこと。
杏寿郎は、深月の話を聞きながら、少し安心する。自分が不在の間、彼女は辛くなかったのだ、と。
最後に、深月は再び杏寿郎に礼を言う。
「背中の傷のことも、ありがとうございます。あんな風に言ってくださって……本当に、嬉しかったんです」
親戚の男に「汚い」と言われ、深月は手当てすら拒むほど傷を見せたがらなかった。それを「強さと優しさの証」と言われ、深月の心は解けたのだ。
杏寿郎にとっては、ただ思ったことを伝えただけだが、それが少しでも深月の心を癒したのであれば嬉しいと感じた。
「俺は、深月の心も身体も綺麗だと思うぞ」
杏寿郎はまた、思ったことを口にする。
すると、深月は何かを思い出したように視線を動かし、顔に紅葉を散らした。その後、ゆっくり息を吸って、躊躇いながら口を開く。
「あの日は、お見苦しいところを……できれば忘れてくださいね」
深月の言葉に、杏寿郎は「はて」と首を傾げる。
その様子から、自分の言いたいことが伝わっていないと気付き、深月ははにかむ。
「あの、思い当たらなければ大丈夫です」
その言葉で、杏寿郎は思い当たってしまった。深月は、胸を見られたことを言っているのだ。
その光景を思い出してしまい、杏寿郎の顔に一気に熱が集中する。口を片手で覆い、深月から目線をずらして、もごもごと謝罪する。
「あれは、すまなかった……」
「別に怒ってるわけじゃないですし、嫌じゃなかったので。できれば、忘れてほしいなあって思いまして……」
深月は慌てて、胸の前で両手を振りながら、杏寿郎が気にしないようにと言う。
その内容が、杏寿郎の中で引っ掛かった。口元から手を離し、目を見開いて深月に尋ねる。
「嫌じゃなかったのか?」
「え!?えっと、その……」
深月は自分の失言に気付き、あたふたする。
しかし、じっと見つめてくる杏寿郎の瞳に観念して、膝の上で拳を握り締める。
少し震えながら、視線を横にずらしてこう答えた。
「杏寿郎さんだったので、嫌じゃ、なかったです……」
疲労が頂点に達していた杏寿郎は、何かがぷつんと切れたような気がした。
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