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第一章  二三


杏寿郎への恋心を自覚した翌朝、深月は寝過ごしてしまった。
昨夜、恥ずかしさに悶え、なかなか寝付けなかったせいだ。

昨日の今日では、気まずくて杏寿郎と顔を合わせづらい。昨日まで感じていた気まずさより、さらに何倍も気まずい。

しかし、このまま布団の中に居ては千寿郎に負担がかかる上、きっと槇寿郎に怒られる。

深月は、なんとか気合いを入れ、久々に道着に袖を通した。


*****


深月が台所に行くと、既に千寿郎が朝餉を作り終えたところだった。
器に味噌汁を装う千寿郎に、深月は慌てて駆け寄る。

「ごめんなさい、千寿郎君!寝過ごしてしまって……」
「いえ、大丈夫ですよ!きっと、お疲れだったんでしょう」

父上には内緒にします、と微笑む千寿郎に、深月は礼を言う。千寿郎があまりにも可愛くて抱き締めたくなったのは、ぐっと堪えた。

深月と千寿郎が朝餉の準備をしていると、槇寿郎と杏寿郎が部屋に入ってきた。
深月は、同時に入ってくるなんて珍しいなあ、と思いながらも二人に挨拶をする。その際、杏寿郎とがっつり目が合って、深月は勢いよく顔を背けてしまう。

さすがに様子がおかしいので、槇寿郎も千寿郎も不思議に思うが、朝餉の準備を終えた深月は「失礼します」と言って、そそくさと台所に戻った。

何かあったのだろうか、と千寿郎は杏寿郎の様子を伺う。
いつも明朗快活な兄はどことなく眉尻を下げ、傷付いたような顔をしているように見えたが、そのまま三人での食事は始まった。

一方、台所に戻った深月はというと、火が出るのではないかというくらい顔を真っ赤にして、座り込んでいた。

杏寿郎の顔を見ると、どうしても昨夜のことを思い出してしまう。これから稽古もつけてもらうのに、どうすればいいのかわからず、深月は思い悩んだ。

しかし、それは杞憂だった。
鍛錬が始まると、深月は普段通りに振る舞うことができた──というより、久々の鍛錬で少し体が鈍っていて、必死になっているうちに昨夜のことが頭から抜け落ちていたのだ。

数日ぶりに、反吐をぶちまける深月。
病み上がりということもあり、まだ日が高いというのに深月だけ本日の鍛錬は終了となった。

千寿郎と杏寿郎は、庭で鍛錬を続けている。

申し訳なく思いながらも、掃除や洗濯をしようと考える深月。
その前に、汗や吐瀉物でどろどろになった体を洗って、道着を着替えなければならない。

着替えと手拭いを持って井戸に向かい、まず口をゆすぐ。その後、頭から水を被る。しかし、それだけでは汗は流せなかった。

深月は周囲に誰も居ないことを確認し、道着を脱いで襦袢だけになり、改めて水を被った。頭を軽く振り、水気を払う。
持ってきた手拭いで全身拭き、物陰で襦袢を替える。傷隠しの包帯は頻繁に替えると時間がもったいないので、湯浴みまで我慢することにした。少し水気は残るが、過ごせない程ではないし、そのうち乾くだろう。新しい道着を着て、襷を掛ける。

まずは洗濯でもしようと物陰から出ると、そこには杏寿郎が居て、深月の顔は赤くなる前に青ざめた。
まさか、こんなはしたない行動を見られたのか、と。

杏寿郎は困ったような顔で口を開く。

「深月。そういうことは湯殿でしなさい」
「すみません……その、見たんですか?」
「いや、見ていない!見ていないが、何をしていたかは分かる」

杏寿郎が嘘を吐いているようには見えず、深月は少しほっとする。

どうやら、井戸の側の水溜まりや深月の姿を見て、水を浴びて着替えたと察したらしい。

こんなことでいちいち湯殿を使わせてもらうわけにはいかないので、次からは見つからないように気を付けよう、と心に決める深月。

深月が杏寿郎に軽く会釈をして、洗濯の準備に向かおうとしたところ、杏寿郎に腕を掴まれて引き留められた。

腕とはいえ肌に触れられたことにより、せっかく頭から抜け落ちていた昨夜の記憶が蘇ってきて、深月の顔に熱が集中する。
一向に振り向かない深月に、珍しく業を煮やした杏寿郎は、彼女の腕を引いて無理矢理自分の方を向かせる。
深月はされるがままだが、俯いて目を合わせようとはしなかった。

「深月」

杏寿郎が優しく名前を呼んでも、深月はびくりと震えるだけで返事をしない。
杏寿郎は小さく溜め息を吐く。

「怒っているのか?」
「いいえ!」

深月が勢いよく顔を上げた。さすがに、その勘違いはいただけなかったらしい。

しかし、それがいけなかった。杏寿郎は深月が顔を上げた直後に、彼女の頬に手を添え、触れるだけの接吻を落とした。
驚いた深月の手から、ばさばさと手拭いや汚れた道着が落ちる。

杏寿郎はすぐ離れ、優しく微笑む。

その顔も、また接吻をされたという事実も、深月の心臓をうるさくさせるには充分だった。

「無理はしないように」

そう言って、手拭いや道着を拾って深月に渡してから、杏寿郎は去っていった。

一体何をしに来たのだろうか、と思いながら、深月は自分の口元を片手で覆い隠す。

その日はわけがわからないまま、深月は家事に没頭することで雑念を払った。





 




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