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第一章 三十
深月はいつもより早く目を覚まし、敷布と寝間着を洗濯した。
それを干してから、朝餉の準備に取り掛かる。
自分でも目が覚めたことに驚いたが、洗濯をしてしまわねばという考えがどこかにあったのだろう、と深月は一人で納得する。
朝餉を粗方作り終えた頃、千寿郎が起きてきて驚いた顔をされたので、深月は用意していた言い訳を口にする。
「ちょっと寝汗がひどくて目が覚めまして。敷布や寝間着を洗ってたんですよ」
「え、大丈夫ですか!?」
千寿郎が心底心配した顔で尋ねてきたので、深月は嘘を吐いたことが心苦しくなる。しかし、本当のことを言うわけにもいかないので、千寿郎を安心させるように微笑む。
「暑かっただけなので、大丈夫ですよ」
そう言うと、千寿郎は安心したようで、笑顔になり深月を手伝い始めた。
*****
出来上がった朝餉を並べ、深月と千寿郎は槇寿郎と杏寿郎を待った。
槇寿郎はいつも通りの時間に来たので、任務や夜の警備は滞りなく終わったらしい。
しかし、杏寿郎はなかなか来なかった。千寿郎が呼びに行こうかと腰を上げた瞬間、廊下を軽く走る音が聞こえてきた。
少し待つと、杏寿郎が障子を開けた。槇寿郎を見た彼は、慌てて口を開く。
「遅くなりました!申し訳ありません!」
いつも決めた時間に起きてくる杏寿郎が、少しとはいえ寝坊するなど珍しい。槇寿郎は一瞬怪訝な顔をしたが、「早く座れ」と杏寿郎を促した。
杏寿郎が自分の席に座ると、深月は彼の側に寄る。
杏寿郎は一人で後始末をしていたし、深月は先に寝てしまったので、彼があの後どれくらい起きていたかもわからない。
もしかしたら、昨夜のことで何か体調に影響が出たのではないか、と心配になったのだ。
「杏寿郎さん、大丈夫ですか?」
「大丈夫だ!ありがとう、深月」
蕩けるような笑顔で返され、深月は少し頬を赤らめる。こんな顔をする人だっただろうか、と鼓動が早くなる。
その様子を傍から見ていた槇寿郎は、近くなった二人の距離感と杏寿郎の表情に、何かあったな、と察する。
深月はさっさと台所に下がってしまったので、彼女の表情をきちんと窺うことはできなかった。
千寿郎に話し掛けられていつもの表情に戻る杏寿郎をちらりと見ながら、槇寿郎は朝餉に手を付ける。
杏寿郎が深月を気に入っていることはわかっていたが、恋仲にでもなったのだろうか。
昨夜、杏寿郎は休みだったし、自分は警備で不在だった。まさかとは思うが……
そこまで考えて、槇寿郎は一旦考えるのを止めた。
息子のそういう事情など、考えるのは気色悪い。
しかし、深月は最終選別を突破したのだから、日輪刀が届けば彼女は任務に出向くようになる。
以前から思ってはいたが、彼女が鬼に殺されでもした場合、一番傷付くのは杏寿郎だろう。
杏寿郎と深月の関係が進むにつれ、その悲しみや痛みはどんどん大きくなる。
食事が終わったら深月と話をしようと決め、槇寿郎は味噌汁を啜った。
*****
深月は一人の朝餉を終え、槇寿郎が入るだろうと思い、湯殿の掃除をしていた。
「おい」
石鹸が減っていることに気付き、補充せねばと考えながら、掃除を続ける。
「……おい」
仕上げに水で汚れや泡を流し、乾いた布で水気を拭いていく。
「……深月」
自分の名前が聞こえた気がして、深月は出入口を振り向く。そこには、槇寿郎が苛ついた顔で立っていた。
その顔が怖くて、そんなに湯浴みをしたかったのだろうか、と思いながら深月は槇寿郎に駆け寄る。
「すみません。掃除は終わりましたので、すぐに準備しますね」
槇寿郎は苛ついたまま、話を始める。
「何度も呼んだんだが」
「あ、それは……申し訳ありません、気付きませんでした」
深月が頭を下げると、槇寿郎は「だろうな」と返す。
それを聞きながら、深月は先ほど聞こえた自分の名前について考える。もしかしなくても、槇寿郎が呼んだのではないか、と。
そう思うと、少し口角が上がった。
用があるときは「おい」と言われるか、襟首を掴まれるかのどちらかだったので、名前を呼ばれたことが単純に嬉しかった。何ヵ月も掛かったが、少しは心を開いてくれたのだろうか。
そういえば、自分が杏寿郎の名前を初めて呼んだとき、似たような感想を言われたなあ、などと考えながら、顔を上げる深月。
顔を上げる頃には、口はちゃんと引き締めておいた。
それを見て、槇寿郎は本題に入る。
「杏寿郎と何かあっただろう」
その言葉に、深月は一瞬硬直した。その「何か」に心当たりはあるが、とても話せる内容ではない。
「槇寿郎様にお伝えするようなことは何も」
すぐに笑顔を作り、嘘ではないと自分に言い聞かせながら、深月はさらりと言いのけた。
普段ならばそんな回答を聞いて引き下がる槇寿郎ではなかったが、察している内容が内容だけに、深入りすることは止め、忠告だけすることにした。
「最終選別を突破したぐらいでいい気になるな。貴様はいつ死ぬかわからん。日輪刀が届く前に辞めてしまえ」
酷いことを言う、と深月は一瞬考えたが、昨夜の杏寿郎の話を思い出す。彼は、「深月が死ぬのが怖い」という旨のことを言っていた。
一見冷たい御仁だが、槇寿郎は素直じゃないだけで、しかも杏寿郎と千寿郎の父親だ。
もし、杏寿郎の思いを槇寿郎が察していたのであれば、槇寿郎は息子のために言っているのではないか。
そして、もしかしたら深月を死なせないために、言っているのではないか。
そう思うと、深月の口角はまた上がり、槇寿郎をからかうように口を開く。
「槇寿郎様、さっき私の名前を呼んでくださいましたね」
「今それは関係ないだろう」
槇寿郎の眉間に皺が寄る。
しかし、深月はふふっと笑みをこぼす。
「私は死にません。強くなって、ずっとお側にいるって、杏寿郎さんと約束しましたから」
そう言ってにこにこと笑う深月に、槇寿郎は「やはり」という感想を抱く。
自分の息子は、この娘と恋仲になったのだ、と。
それは喜ばしいことであり、同時に悲しいことだった。
槇寿郎には、杏寿郎か深月のどちらかが鬼に殺されて、残された方が悲しむ未来しか思い浮かべることができなかった。
少しの間何か言いたそうにしていた槇寿郎だが、結局何も言わずに湯殿を出て行く。
深月はその辛そうな背中を、黙って見送った。
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