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第一章  三三


杏寿郎は任務に行く前に、なんとか深月に機嫌を直してほしいと思っていたが、彼女は強情だった。
それは杏寿郎もわかっていたことだが、恋仲になってまでその強情さを保たれると、なかなかきついものがある。

杏寿郎は任務のために早めの夕餉を摂る。
ちなみに、その夕餉は深月が作ったものだ。
こんなときでも真面目に家事をこなすあたり彼女らしい、と思っていたが、温かいどころか沸騰寸前の味噌汁と茶を出され、杏寿郎は彼女の機嫌の悪さを思い知った。

食事を済ませた杏寿郎は、いつの間にか台所から消えていた深月の姿を探す。

深月は稽古場でひたすら木刀を振っていた。何度か声を掛けるが、返事もしてくれない。

「深月、せめてこっちを向いてくれないか?」

杏寿郎がそう言うと、深月は木刀を振るのを止め、いかにも不機嫌ですといった顔で杏寿郎を振り返った。
しかし、やはり何も言わない。

杏寿郎は深月に近付き、彼女の髪を一房手に取る。

「君を信用していないようなことを言って、申し訳なかった。そろそろ機嫌を直してくれ」

そう言って、手に取った髪に口付けるが、深月は一歩二歩と後退し、杏寿郎の手から彼女の髪がするりと逃げていく。

杏寿郎は困ったように笑い、溜め息を吐く。
深月の表情は先程より幾分か柔らかくなったが、まだご機嫌とまではいかない。

深月は少し悩んだ後、躊躇いながら口を開く。

「私は……ちゃんと、強くなれていますか」

木刀を強く握り締める深月。
そこで、杏寿郎は彼女の表情の変化に気付く。不機嫌といった顔ではなく、悔しそうな顔になっていた。

玄関でのやり取りのせいで、自分がまだ弱いと思って、自分のことを責めているのだろう。

杏寿郎は一歩二歩と深月に歩み寄り、震える程木刀を握り締める彼女の手に、自分の手を添えた。

「深月はちゃんと強くなっている。俺は、『もっと強くなる』と言ってくれた君との約束を信じている。君が強くなってたくさんの人を救うと、期待している」

深月の手から、少しだけ力が抜ける。

「俺は君のことが好きだから、任務の前に君の笑顔が見れないのは辛いな」

杏寿郎は深月の手を開いて、木刀を受け取り、それを自分の脇に挟む。
それから深月の両手を取り、修行や家事のせいで傷だらけになった掌を親指で揉むように擦る。木刀を強く握り締めていたせいで、彼女の掌は赤くなっていた。

「……ごめんなさい」

呟くように、深月は謝罪を口にした。

杏寿郎は蝶屋敷で喧嘩した後の、深月の謝罪を思い出す。思えば、あの時から深月は段々と心を開いてくれたのだった。
最近は、出会った頃のことばかり思い出す。深月はよく怒っていたが、杏寿郎はそれが嫌だと思ったことは一度もなかった。

「困らせてばかりでごめんなさい。杏寿郎さんは任務前なのに……」

泣き出しそうな顔になって、深月はそれでも泣くまいと唇を噛み締める。噛み締めすぎて、口から血が滲んでしまう。

杏寿郎はその血をぺろりと唇ごと舐める。
突然のことに、涙が引っ込んだ深月は、わなわなと震えながら顔を真っ赤にする。

「なっ……何を、するんですか……!」
「ん、いや。痛そうだったのでな。そういえば、俺も舌が痛い」

杏寿郎はにっこりと笑い、舌をべっと出す。
それは少し赤くなっていた。深月が沸騰寸前の味噌汁と茶を出したせいで、火傷したのだろう。

しかし、舌を出されたところで、どうしろというのか。
察することはできたが、深月はわからない振りをして、杏寿郎から視線を逸らした。
すると、彼は舌を引っ込め、くすっと笑う。

「舐めてくれないのか?」
「舐めるわけないでしょう!」

そんなことできるか、と深月は眉を吊り上げる。
やはり、舌を出したのは舐めろという合図だったのだ。

以前は下心など微塵も感じさせなかったのに、杏寿郎は助平心を隠さなくなってしまった。

それに翻弄される自分が情けなくて、深月は溜め息を吐く。

杏寿郎は悪びれる様子もなく、深月の額に口付ける。
唇を離して深月の顔を見下ろすと、耳や首まで真っ赤にして、眉尻を下げ、口を半開きにしていた。

接吻だけでここまで赤くなるのに、よく褥を共にできたものだ、と杏寿郎は少し不思議に思いながらも、これはこれでいいものを見た、と満足する。
笑顔も別の表情も、帰ってから見せてもらえばいい。

「では、俺は任務に行ってくる!」

そう言った後、杏寿郎は深月の耳に口を寄せ、「続きは帰ってからしよう」と囁く。
そして、深月と目を合わせ、やけに色っぽく微笑んでから、去っていった。

稽古場に一人残された深月は、彼の色気に当てられて、しばらく惚けたままだった。





 




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