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第三章 五
「許してください!勘弁してください!私だって行きたくて行ったわけじゃないんです!」
必死に許しを乞う深月の叫びが、煉獄家の庭に響く。
彼女は庭の物陰で、杏寿郎にがっちり捕まえられている。
後ろから抱き締められ──というより、関節を固められ、泣きそうになりながら、杏寿郎の腕を叩いている。
「行きたくないなら行かなければよかっただろう!」
「そういうわけにはいかなかったんですってば!」
杏寿郎に怒鳴られ、深月は怒鳴り返しながら、彼の腕を引き剥がそうと抵抗する。
少しすると、杏寿郎も冷静になってきて、小さく溜め息を吐く。
固めていた深月の関節を解放するが、逃がさないように後ろから抱き締め直す。
そのままずるずると物陰まで連れていき、壁を背にして地面に座り込む。深月を脚の間に収め、彼女の肩に顎を乗せる。
「痛かったな。すまん。話を聞かせてくれるか?」
「えっと、もう怒りませんよね?」
「ああ。怒らない」
杏寿郎は目を伏せ、深月の頬に自分の頬を擦り寄せる。
深月は赤面しながらも、今日のことを説明し始めた。
*****
事の起こりは一週間前。
深月の父の昔の取引相手が、彼女のことを聞きつけ、手紙を寄越してきた。
その内容は、知り合いと見合いをしてほしいというもので、見合い写真まで同封されていた。日時まで指定されていて、すっぽかせば煉獄家に直接出向くと書いてあった。
煉獄家まで来られるのは避けたいので、深月は見合いに出向いた次第である。
『見合いをしてほしい』とは書いてあったが、『縁談を受けてほしい』とは書いていなかったので、深月はわざと杏寿郎に仕立ててもらった着物を着ていった。
男性に贈ってもらった着物で粧しこんで、相手の心をへし折るために。
案の定、「良い着物ですね」とか「よくお似合いですね」とか褒められたので、深月は「恋人が贈ってくれたんですよ」と返した。
すると、見合い相手は顔を真っ青にした。
止めに、「心に決めた人がいるので、この縁談は受けられない。事情があって出向いただけだ」と伝えたところ、相手はみるみるうちに真っ赤になって怒り始めた。
まさか深月から断られると思っていなかったようで、見合い相手は彼女を引き止め、どうにか縁談にこぎ着けようと話を続けた。
それにうんざりした深月は、再度丁寧にお断りし、帰って来たのだ。
*****
「見合いは初めてだったんですけど、断るのって大変なんですね」
「それは、君が相手の神経を逆撫でするからだろう……」
けろっとした顔で言いのける深月。
杏寿郎は、見知らぬ見合い相手にほんの少し同情した。
深月としては、手っ取り早く相手に嫌われてしまおう、という考えだったのだろうが、彼女の嫌味は容赦がない。
それでも、手を出さなかっただけでも穏便に済ませたつもりなのだろう、と杏寿郎は察する。
まあ、とにかく、深月が望んで見合いに行ったわけではないことがわかり、杏寿郎は安心した。
今更、彼女を手放すことなんて出来ない。
「感情的になって悪かった。だが、次からは事前に言ってくれ」
杏寿郎は、深月を抱き締める腕に力を込め、彼女の首筋に顔を埋める。
「深月が他の男と見合いだなんて、想像しただけで肝が冷えた」
どちらかというと、『腸が煮えくり返る』の方が正しい表現な気はしたが、それは口に出さず、深月は杏寿郎の頭を撫でた。
「私は、ずっと杏寿郎さんのお側に居りますよ」
そして、杏寿郎の頭に凭れるように首を傾ければ、杏寿郎は嬉しそうに笑ってもぞもぞと頭を動かす。
顔を上げるのだろうと察し、深月は首を元の位置に戻す。
深月が離れてから、杏寿郎はゆっくりと顔を上げる。彼女の方を向き、その頬に口付ける。
深月は恥ずかしそうに顔を赤らめるが、微笑んで杏寿郎の方を見る。
すると、杏寿郎が顔を近付けて来たので、自然と目を閉じれば、互いの唇が重なる。
食事によって薄くはなったが、完全には落ちていない深月の紅が、杏寿郎の唇にも移る。
唇が離れたので、深月は台所に戻ろう、と考える。
しかし、杏寿郎からの接吻はそれだけで終わらず、耳朶、目元、うなじと続いた。
「ちょっと、杏寿郎さん!」
深月は思わず杏寿郎の口を片手で塞いで制止する。
杏寿郎は数秒程深月を見つめたかと思うと、彼女の手をべろりと舐めた。
驚いた深月は勢いよく手を引っ込める。
口を塞ぐものがなくなった杏寿郎は、再度深月の唇を奪う。何度も口付けながら、彼女が逃げないように片手で顎を掴んでしまう。それから、段々と口付けを深くしていく。
途中から漏れ始めた深月の甘い声が、杏寿郎の鼓膜を刺激して、歯止めが利かなくなる。
杏寿郎が深月の道着の合わせに手を差し入れた瞬間、深月は目を見開いて、彼の舌を強く噛んだ。
「ん゛っ!!」
血が出るほどの痛みに、杏寿郎は濁った悲鳴を上げ、その隙に深月は杏寿郎の胸を強く押し返した。
「だめです!これ以上蜜璃ちゃんを放っておく気ですか!」
「むう」
最近、拒否されてばかりではないか、と思い、杏寿郎は少し不満そうな顔になる。
それは、主に杏寿郎が昼間や人目につく可能性がある場所で、手を出そうとするからなのだが、それ以外にも深月は任務疲れなどで杏寿郎を拒否したことがある。
「いや、むうじゃなくて!戻りましょう!」
そう言って、深月は杏寿郎の腕から抜け出し、台所に向かう。
杏寿郎もゆるゆると立ち上がり、その背中を追いながら、彼女に声を掛ける。
「深月。戻るのか?」
深月は一旦止まって振り返り、首を傾げる。
「戻りますよ。何でですか?」
「いや、別に」
杏寿郎はにやける口元を隠しながら、「なんでもない」と付け加える。
その様子にまた首を傾げながらも、深月は再び前を向いて歩き始める。
深月は気付いていなかった。
紅が杏寿郎の唇に移ったことも。
その唇で口付けられて、耳朶、目元、うなじがうっすら赤くなっていることも。
もちろん、自分の紅が薄くなっていることも。
この後、台所に戻る途中、廊下ですれ違った槇寿郎から渋い顔で紅のことを指摘され、深月は杏寿郎と喧嘩をおっ始めることになる。
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