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第一章 八
木刀を握りしめたまま硬直している杏寿郎に、どうしたものかと深月は悩む。悩んだ末、肩を叩くと、ギギギと音がしそうな程、固い動作で振り返る杏寿郎。
彼は、顔どころか耳まで真っ赤にしていた。
深月はなんだか申し訳ない気持ちになってくると同時に、杏寿郎にも人間らしいところがあったのか、と失礼な感想を抱く。
呼吸困難になった深月に人工呼吸をした後、杏寿郎は自分の行動が恥ずかしくなってしまったらしい。
確かに、嫁入り前の娘に口付けるなど、通常であれば許されることではないが、あのまま放置していれば深月がどうなっていたかわからない。
深月としても、杏寿郎に下心があったとは思えないし、今後どこかへ嫁ぐ予定もない。
感謝こそすれ、責める気など毛頭無いのだ。
「気にしないでください。殴ったりもしませんから」
「しかし!焦っていたとはいえ!」
「声が大きい!千寿郎君に聞こえちゃうでしょ!」
怒鳴る深月の声もそこそこ大きいが、杏寿郎はそれについては指摘しないことにした。
「私のこと助けてくれただけでしょう。ありがとうございました」
「それは、そうだが……」
「ね、この話はおしまい。千寿郎君が心配してますよ、杏寿郎さん」
深月は杏寿郎の袖を軽く引いた。しかし、杏寿郎はびくともしない。深月は首を傾げる。
「初めて、名前を……」
杏寿郎はそう呟いた。
深月が杏寿郎のことを名前で呼ぶのは初めてだったのだ。いつも「ねえ」や「貴方」ばかりで、名字ですら呼ばれたことがない。
深月としては、杏寿郎からいつの間にか名前で呼ばれるようになっていたし、自分も杏寿郎のことを名前で呼んで問題ないと思っただけだった。
「嫌でしたか?」
「嫌ではない!段々、心を開いてくれてるのだな、と!」
杏寿郎は嬉しそうに笑い、深月は少し頬を赤らめる。
改めてそんなことを言われると、恥ずかしくなってくるものだ。
深月は杏寿郎の袖から手を離し、一人で千寿郎の元へ歩いていく。
杏寿郎は嬉しそうな笑顔のまま、その後ろ姿を追い掛けた。
*****
「この部屋を使ってくれ!」
杏寿郎は、深月を余っている部屋に通した。六畳ほどの、煉󠄁獄家の中では狭い部類に入る部屋だ。
しかし、深月は首を横に振った。
「む!狭いだろうが、掃除はしたぞ?」
「いえ、広すぎます」
深月が再度首を振ると、杏寿郎はいつもの笑顔のまま首を傾げた。
「私は、お世話になる身ですので、納戸で充分です」
「いや、納戸はあんまりだろう!」
「ですが……」
このままでは平行線である。
杏寿郎は、深月の手から荷物を奪い取り、部屋の真ん中に置いた。
「ここは深月の部屋だ!俺も千寿郎も部屋は近くだから、何かあれば遠慮なく声を掛けるといい!さあ、家の中を案内しよう!」
話を無理矢理終わらせ、深月の手を引いて廊下に出る杏寿郎。深月はまだ納得いかない様子だ。
「私は部屋など要らないと……」
「深月さん、お部屋はお気に召しませんでしたか?頑張って掃除したのですが……」
廊下に出ると、千寿郎が困ったような顔で深月を見上げていた。その様子があまりにも愛らしく、深月は言葉を失う。
もともと長女で、数人の弟妹に囲まれて過ごしていた深月だ。年下には滅法弱いのである。
「ぐっ……こちらのお部屋を使わせていただきます……!」
結局、部屋に関しては深月が折れた。
*****
家の案内の後、深月に雑用や家事について教えたのは、千寿郎だった。
杏寿郎は鍛錬を始めていて、槇寿郎は部屋から出てくる気配が無い。
「母は、僕が物心つく前に病死したので」
悲しそうな顔で説明する千寿郎を見て、深月は胸が痛くなった。
『私の気持ちなんかわからないわよ!』
知らなかったとはいえ、杏寿郎に酷いことを言った。鬼に殺されたか病死だったかの違いで、家族を亡くした悲しみに違いはない。
『俺には弟がいる!是非可愛がってやってくれ!』
そして、酷いことを言った深月に、杏寿郎はそう言ってくれた。
喋らなくなった深月を、その隣で心配そうに見上げる千寿郎。深月は、まだ小さく幼い彼の頭を優しく撫でた。
「千寿郎君。私の末の弟も、貴方くらいの年だったんです。鬼に殺されました」
「えっ」
千寿郎の顔が、さらに心配そうになる。
「だから、私は千寿郎君を弟の代わりみたいに思ってしまうかもしれません。嫌だったら、言ってくださいね」
「嫌じゃないです!姉上ができたみたいで嬉しいです!」
嬉しそうに微笑む千寿郎に、深月もつられて、ほんの少しだけ微笑んだ。
あの夜以来、初めて浮かべた笑顔だった。
不思議と、もう息は苦しくならなかった。
*****
日の入り前、槇寿郎は任務だということで、出掛けてしまった。
食事は不要と言われたので、深月は
二人分の食事を用意した。
そして、問題は夕餉の時に起こった。
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