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第三章 二一
杏寿郎は、左腕と右足の骨を折る重傷で、他にも怪我だらけだった。
松葉杖をつき、蜜璃と共に煉獄家へ帰る。
家の前では、千寿郎が掃除をしていて、二人に気付いた彼は兄の胸に飛び込んだ。
その場で話をして、落ち着いた頃、千寿郎が首を傾げた。
「深月さんはどこですか?」
「むっ!」
「えっ!」
杏寿郎と蜜璃は硬直し、言葉に詰まる。
二人の反応を見て、千寿郎は顔を青ざめさせる。
帰れないほどの大怪我を負ったのだろうか。
それとも、まさか──
「も、もしかして、深月さん……殉職……」
「いや、違う!生きているぞ!」
「深月ちゃんは元気よ!怪我も少ないわ!」
その返答に、千寿郎はほっと胸を撫で下ろす。
心底安心したが、だったら、何故この場にいないのか。
「次の任務に行かれたんですか?」
「そういうわけでもないのだが……どうしたものか」
杏寿郎は口元に手をやり、考え込むように首をひねる。
その顔がなんだか落ち込んでいるように見えて、蜜璃は杏寿郎を励ますように胸の前で拳を握る。
「大丈夫ですよ、煉獄さん!深月ちゃん、結婚が嫌だったわけじゃないと思います!」
「えっ?」
『結婚』とは。その単語に反応し、千寿郎は小さく声を上げる。
自分の失言に気付いていない蜜璃は、どうしたのかと首を傾げる。
杏寿郎は二人に気付かれない程度に、小さく溜め息を吐いた。
*****
先日、杏寿郎に突然求婚され、困惑した深月は、逃げることにした。
家に帰れば否応なしに杏寿郎と顔を合わせる。
だったら、彼が目を覚ます前に逃げてしまおう、となんとも情けない決断をしたのだった。
いつもは手伝う事後処理を全て隠に任せ、わざわざ少し離れた場所の藤の花の家まで向かった。
怪我は少ないが、ふくらはぎと二の腕の噛み傷は深く、治療のために数日間の療養を勧められた。
いつもなら休んでなどいられない、と任務に当たる深月だったが、今回に限ってはこれ幸いと言わんばかりに療養に徹した。
鎹烏にも、隠にも、藤の花の家の人にも、煉獄家の人間や蜜璃に居場所を知られないよう、固く口止めをした。
心配されるだろうから、療養する旨を伝える分には構わないが、杏寿郎が会いに来ることだけは避けるようお願いもした。
こんなことをすれば、後々杏寿郎に怒られるのはわかっている。しかし、今だけは会いたくなかった。
『深月。結婚しよう』
簡潔な求婚の言葉が、脳内で何度も繰り返される。
その度、深月は恥ずかしさと嬉しさでどうにかなってしまいそうだった。
しかし、二日も経てば冷静になってきて、あの言葉は杏寿郎の本心ではなかったのではないか、と思うようになってきた。
あの時、杏寿郎は大怪我で意識が朦朧としていた。
死にかけていた、と言っても過言ではない。
今際の際のような気分で、深月の今後が心配になり、つい口にしただけではないだろうか。
そう考えると悲しくなったが、その方がいい気がしてきて、深月は自虐的な笑みを浮かべる。
自分は家柄も容姿も性格も、何もかもが杏寿郎に相応しくないのだ。
きっと、槇寿郎も結婚となれば許しはしないだろう。
恋仲であることを許してもらっているのは、きっと杏寿郎が縁談をもらう日までと考えているからだろう。
「うんうん、そうだよ。きっと、杏寿郎さんにはいい人が現れるから……」
結婚だなんて、一瞬でも本気にした自分が馬鹿だった。
頭ではそう考えているのに、心は受け入れてくれなくて、深月の目から涙がぽろぽろと溢れる。
それは拭っても拭っても止まらなくて、深月は膝を抱える。膝に顔を埋めれば、目蓋の裏に杏寿郎の顔が浮かんできた。
こんなとき杏寿郎が居れば、涙を拭ってくれて、泣き止むまで側に居てくれるのに、と思ってしまう。
さっきの今ですぐ杏寿郎のことを想ってしまう自分が情けなくて、深月の涙は勢いを増す。
「なんで、あの人のこと好きになっちゃったんだろう」
もっと家柄も何もかも気にしなくていい相手だったらよかったのに。
もしくは、自分がもっと杏寿郎に相応しい女性だったらよかったのに。
怪我なんかしてないのに、胸がズキズキと痛んで、深月は声を押し殺して泣き続けた。
*****
療養が終わっても、深月は煉獄家に帰らなかった。
藤の花の家の人には悪いが、そこを拠点とし、任務に向かうようにしていた。
そんな生活を数週間程続けた頃。
深月は数日ぶりの休日を謳歌していた。
藤の花の家の人が用意してくれた浴衣を着て、同じく用意してくれた書物を読み漁る。
大衆文学から学問書まで、理解できるできないに関わらず、どれも興味深いものだった。
山積みになった書物を読み耽っていると、藤の花の家の人が「失礼します」と入ってくる。
「雨宮様。お客様がお見えです」
「私にですか?」
一体誰だろうか、と深月は首を傾げる。
煉獄家や蜜璃には居場所がバレないようにしているし、隠だろうか。隠なら、たまに不自由がないか様子見に来てくれる。
「お通ししてよろしいでしょうか?」
「はい、お願いします」
深月がそう答えると、藤の花の家の人は客人を呼びに行った。
程なくして、襖の向こうから声が掛けられる。
「雨宮さん。よろしいでしょうか?」
「どうぞ」
聞き覚えのある声だった。
やはり、客人は何度か様子を見に来てくれた隠だ。
声が震えているように聞こえたが、気のせいだろう、と深月は客人を部屋に招く。
すると、襖が静かに開かれ、隠が頭巾に包まれた顔を覗かせる。唯一見えている目元が青ざめて見えるのも気のせいだろうか。
隠は深月を見た後、すっと目を逸らした。
「すみません!」
「え?えっ?何が?」
急に謝罪され、深月は困惑する。
しかし、その理由はすぐわかった。
隠の後ろから手が伸びてきて、襖を大きく開け放つ。
その手の主は、杏寿郎だった。彼は、隠の後ろに立っていて、一言も発することなく深月を見下ろしてくる。
「バレちゃいました……」
隠が震える声で力なく言う。
見ればわかる、と深月は顔を青ざめさせる。
バレちゃいました、じゃない。あんなに口止めして、杏寿郎だけは来させないようお願いしたのに。
あれだけ大怪我をしていたはずの杏寿郎は、治療用装具もつけず、自分の脚で立っている。怪我は治っているようだ。
そして何故か、羽織を着ておらず、隊服だけを身に纏っている。
笑顔だが、額にいくつも青筋を浮かべている彼の顔を見て、深月は恐怖で泣きそうになった。
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