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第三章  二二


杏寿郎は隠を下がらせ、ずかずかと部屋の中に入ってくる。
彼と目を合わせたくなくて、しかし逃げることもできなくて、深月は俯く。

「久し振りだな」

頭上から降ってきた声は、思いの外静かだった。
静かすぎて、逆に怖いくらいだ。いっそ怒鳴ってくれた方がましだ。

深月は何も答えられず、畳を見つめて震える。

杏寿郎は深月の前にきっちり正座し、膝の上で拳を握る。

「心配したぞ。怪我はもういいのか?」
「はい……杏寿郎さんは?」
「俺ももう治った。大丈夫だ」

杏寿郎の返答を聞き、深月はほっと胸を撫で下ろす。
隠や鎹烏から、杏寿郎や蜜璃の怪我の具合は聞いていたが、本人から「治った」と聞くと安心感が違う。

杏寿郎は眉をしかめて、引き続き尋ねる。

「どうして帰ってこない?千寿郎も甘露寺も、会いたがっている」
「えっと、その……」

深月は何か答えねばと口を開くが、上手く言葉に出来なくて、代わりに涙が出てきた。
それを杏寿郎から隠すように、背中を丸めてさらに下を向く。

それを見て、杏寿郎は呆れたように溜め息を吐く。

「そんなに結婚が嫌なら、そう言えばいいだろう。俺も無理強いするつもりはない。断られたからといって、家を追い出すこともしない」
「ちが……だって」

『だって、私は杏寿郎さんに相応しくないから』
そう言いたいのに、声が潤んでしまって、上手く喋れない。ぽたぽたと膝や畳に涙が落ちる。

その小さな音は杏寿郎の耳にも届き、彼はそっと深月の顔に手を伸ばす。
頬に手を添え、上を向かせれば、深月の瞳に溜まっていた涙が頬を伝って杏寿郎の手を濡らす。

軽い力で上を向かせたのに、素直に従う深月が可愛くて、でも泣いている顔が可哀想で、杏寿郎は困ったように笑う。
その顔には、青筋などもう浮かんでいなかった。

「何故泣くんだ。別に怒ってなどいない」
「……うそつき」

ついさっきまで怒ってたじゃないか、と深月は眉を下げる。
あんなに青筋を立てていたし、隠だって顔が真っ青だった。余程怖い思いをしたのだろう。

杏寿郎は深月の涙を指で拭いながら、膝が触れるほど彼女に近付く。

「本当だ。今は怒っていない。もしかして、怖くて泣いてるのか?」

深月がゆるゆると首を横に振ると、杏寿郎は「それならよかった」と微笑む。

その優しい顔を見て、深月の涙は勢いを増す。

どうしようもなく杏寿郎が好きだ、と思った。

自分だけに向けられる優しい眼差しも、普段の太陽のような笑顔も、任務中の険しい表情も、全部愛しい。
強くて、誰にでも優しくて、清廉高潔を絵に描いたような人なのに、こんなに我儘で弱い自分を大事にしてくれる。

彼の求婚の言葉は、すごくすごく嬉しかった。

でも、自分は彼に相応しくない。一生添い遂げるなど、烏滸がましい。今まで側に置いてもらえただけでも、充分幸せだった。
これ以上の幸せを享受するなど、罰が当たるのではないか。

深月は自分で涙をごしごしと拭い、杏寿郎を見上げる。

「杏寿郎さん」
「ん?なんだ?」

優しく聞き返してくれるその声に、胸が詰まるような感じがして、深月は一瞬息を呑んだが、ゆっくり深呼吸して言葉を絞り出す。

「私、杏寿郎さんのことが好きです。愛してます」

深月の言葉に杏寿郎は一瞬きょとんとし、しかしすぐに目を細める。

「ああ、ありがとう」

でも、と深月は続ける。

「私は、杏寿郎さんに相応しくないんです。私じゃ駄目なんです。きっと、槇寿郎様もお許しにならないと……」
「待て待て!どうしてそうなるんだ!?」

杏寿郎は慌てて深月の言葉を遮り、彼女の両肩を掴む。

まさか愛の告白から、そんな卑屈な話になるとは思わなかった。

杏寿郎は俯いて、一旦落ち着こう、と深く長く息を吐いて、考えを整理する。

深月は、自身のことを杏寿郎に相応しくないと思っている。
槇寿郎も結婚など許さないだろう、と思い込んでいる。

でも、杏寿郎への愛情は変わっていないし、結婚が嫌なわけでもないようだ。

杏寿郎は顔を上げ、深月としっかり目を合わせる。

「深月、すまん。君が何をそんなに悩んでいるのか、俺には理解できない。俺は深月に求婚した。深月はそれを嫌がっていない。それでいいんじゃないのか?」
「いや、でも、私は……」
「俺は、深月のことが一番好きなんだ。愛している」

また深月の言葉を遮り、杏寿郎は呆ける彼女を抱き寄せ、頭を優しく撫でる。

指通りのいい髪に手を差し入れ、ゆっくり梳かしてから、髪を一房取って口付ける。

「深月と添い遂げたいと思った。この先、俺の隣に居るのは君しか考えられない……まあ、予定していた求婚とは、大分違ってしまったがな」

杏寿郎は恥ずかしそうに笑う。
深月は杏寿郎の腕の中で、不思議そうに首を傾げる。

杏寿郎は深月を一旦離し、彼女の顔をのぞきこむ。

「とりあえず帰ろう!それから、深月が不安に思うことについて、納得行くまで話そう!」

そして、太陽のように笑う。

あまりにも明るい笑顔を見せるものだから、この先どうなるかはわからないが、深月はとりあえず煉獄家に帰ることにした。

浴衣からいつもの隊服に着替えようとしたところ、杏寿郎がじっと見つめてくるのに気付き、逃げないから、と彼を追い出した。





 




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