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第三章 二九
杏寿郎の部屋に一人残された深月は、何をしようか、と考える。
腰の鈍痛のせいで、あまり激しい動きはできない。
稽古はもちろん、家事もままならないだろう。
暇なのは性に合わない。かといって、杏寿郎の部屋を勝手に漁って書物などを探すわけにもいかない。
深月はなんとなく部屋を見回す。
ここには何度も来たことがあるが、いつも綺麗に整頓されていて、杏寿郎の育ちの良さが滲み出ている。
深月もここを掃除するが、いつも綺麗なのでそんなに時間は掛からない。
ふと、部屋の隅のあるものが視界に入った。
深月は、きちんと畳んで置いてあるそれに近付き、持ち上げて広げてみる。
それは、炎柱の羽織だった。炎を思わせる意匠の、代々煉獄家に受け継がれている羽織。
深月は羽織を隅々まで確認する。
杏寿郎から、手入れを頼まれていたことを思い出したのだ。
繕う必要はなさそうだが、所々に乾いた血や泥のような汚れがあった。
深月は意を決し、羽織を持って立ち上がる。
腰の痛みは耐えられない程ではないし、震える膝は気合いで落ち着かせる。
壁伝いになんとか歩いて、部屋を出ようと障子を開ける。そして、硬直する。
廊下に槇寿郎が居たからだ。
なんと間が悪いことか。
足音や気配に気付かなかったのか、と深月は自分を責めつつ顔を青ざめさせる。
深月は今、寝間着姿だ。手には炎柱の羽織。
その状態で、杏寿郎の部屋から出てきた彼女を、槇寿郎は怪訝な目で見下ろす。
「お前……」
「羽織の手入れを!杏寿郎さんから!頼まれまして!」
槇寿郎の言葉を遮って、深月は誤魔化すように声を上げる。
思いの外大きな声が出て、槇寿郎だけでなく深月自身も驚く。
寝間着姿で杏寿郎の部屋から出てきたことには触れないでほしくて、羽織の話を無理矢理してしまった。
かなり不審だが、今更後には引けない。
「決して、無断で持ち出しているわけではありませんので!この羽織がとても大切なものだということは、さすがに分かっておりますので!」
「そ、そうか」
深月の勢いに圧倒され、槇寿郎は思わず返事をする。
別に何も聞いていないのに、勝手にぺらぺらと言い訳する深月が可笑しくて、笑いそうになる口元を咄嗟に隠す。
なんとなく彼女の足元を見れば、僅かに震えていて、そんなに自分が怖いのだろうか、と考える。
しかし、深月が寝間着姿でこんな時間に息子の部屋から出てきて、彼女の首筋や鎖骨付近に歯形や内出血の痕がいくつもあるので、そういうことだろう、と察し、槇寿郎は彼女の頭をぽんぽんと叩く。
息子の夜の事情など気色悪くて察したくなかったが、察してしまったものは仕方がないし、目の前の娘がそれに付き合わされていると思うと、少し憐れに思えた。
(杏寿郎も程々にすればいいものを)
未だに行かせたくはないが、深月にだって任務があるだろうに、と槇寿郎は溜め息を吐く。
何故か頭を撫でられ、溜め息を吐かれ、深月は困惑して槇寿郎を見上げる。
素直じゃないだけで優しい御仁なので、自分の挙動不審っぷりを心配してくれているのだろうか。
やはり、槇寿郎は一人で立ち上がれなくなってしまっただけで、根本的なところは変わっていないのだろうか。
深月がいろいろと考えていると、槇寿郎は何も言わずにその場を去っていった。
*****
気合いだけで道着に着替えた深月は、早速羽織の洗濯を始める。
洗濯板を使えば生地が傷むので、丁寧にもみ洗いする。
なんとか時間を掛けて汚れを落とし、さあ泡を流すかと思ったところで、後ろから声が降ってきた。
「深月!ただいま!」
「杏寿郎さん!おかえりなさい」
深月は首だけで上を向き、逆さまに見える杏寿郎に笑い掛ける。
それを見て、杏寿郎は一瞬息を呑む。
深月は気付いていないが、この角度から見ると、彼女の襟の合わせから胸元が垣間見える。さらに、昨夜の色事の証が、まだいくつも残っている。
その見えそうで見えない胸元が、自分が彼女に残した痕が、余計に艶っぽく見えて、杏寿郎は目を逸らす。
「どうかされました?」
深月は首を戻し、体ごと振り返って、不思議そうに首を傾げる。
おそらく自身に残った痕のことを忘れているのだろう。その表情や仕草がまた可愛らしくて、杏寿郎は息を吐きながらその場にしゃがみこんで俯く。
深月は驚いて、まだ泡だらけの手をわたわたと振る。
本当は杏寿郎の背中でも擦ってやりたいが、彼の高価そうな着物に泡をつけるわけにはいかない。
「えっ!?もしかして、体調が悪いんですか?とりあえず、お部屋に……」
「いや、大丈夫だ。すまん」
慌てる深月を片手で制し、杏寿郎は顔を上げる。
空いている手で口元を隠してはいるが、彼の顔は赤く、深月はついそれを可愛いと思ってしまう。
何が原因で杏寿郎が頬を染めているのかはわからないが、彼のこういう表情を見れるのは自分だけかもしれないと思うと、自然と口角が上がる。
深月の表情の変化に気付いた杏寿郎は、恥ずかしそうに彼女を見遣る。
「何を笑っているんだ」
「いえ、笑ってませんよ」
「笑っていたじゃないか」
深月は口元を引き締め、杏寿郎はそれをじとりと見つめる。
少しして、どちらからともなく破顔した。
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