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第三章 三十
翌日。
炎柱の羽織は無事綺麗になり、深月の体も任務に行ける程度には回復した。
回復はしたが、深月の体には歯形や内出血の痕が残っているので、襟巻きを緩く巻いてそれらを隠している。
そして、本日から、杏寿郎は本格的に柱としての業務を開始する。
その前に、炎柱の羽織を身に纏い、父の部屋へ向かう杏寿郎。彼の後ろには、深月も居る。
柱に就任したことと、深月と婚約することを正式に報告するためだ。
明るい表情の杏寿郎と違い、深月は今にも吐きそうな程暗い表情をしている。
一昨日、槇寿郎と話したときのことを考えると、どちらの報告も喜んではくれないだろう。
杏寿郎は彼の息子だ。父に冷たい態度を取られたら、ひどく落ち込むのではないかと心配になった。
そんなことを考えている間に、いつの間にか槇寿郎の部屋に到着していて、杏寿郎が声を掛けて中に入る。
深月も入らないわけにはいかず、おずおずと彼に続く。
槇寿郎はこちらを見ようともせず、万年床の上で気だるげに書物をめくっていた。
話を聞く気があるとは、とても思えない。
それでも、杏寿郎は口を開く。
柱になったこと。これを機に深月と婚約すること。
いつも通り、努めて明るく話した。
しかし、槇寿郎の返事は、深月の予想通りのものだった。
「柱になったからなんだ」
やはり二人を見ることもなく、興味がなさそうに続ける。
どうでもいい、と。
どうせ槇寿郎も杏寿郎も、大したものにはなれないのだ、と。
槇寿郎の言葉を聞いて、杏寿郎の顔から笑みが消える。
深月は畳を見つめて、何も言えずに固まっていた。
「深月」
ふと名前を呼ばれて、深月は顔を上げる。
今、自分の名前を呼んだのは、杏寿郎ではなかった。槇寿郎の声だった。
「お前は女なんだから、家を守っていればいいだろう。いつまで剣士なんぞやってるつもりだ」
「え……」
深月は眉を下げる。
そんなこと、今まで言わなかったじゃないか。
一昨日だって、何も言わなかったじゃないか。
まさか、剣士を辞めなければ結婚を認めないとか言い出すのではないだろうか。
深月の目に涙が溜まる。
恐らく、自分を危険に晒したくないからこその物言いだとは思う。
でも、自分の剣士としての生き様を全否定されたような気がして、今までの努力が無駄だったような気がして、胸が痛んだ。
泣き出しそうな深月を横目で見て、杏寿郎は彼女の腕を掴んで立ち上がる。
婚約や結婚について何か条件を出される前に、父の部屋を後にした。
*****
槇寿郎の部屋を後にして、二人はとぼとぼと縁側を歩く。
深月も涙は引っ込んだが、表情は暗いままだ。
そこで、千寿郎が障子を開けて顔を出し、二人に駆け寄ってきた。
父は喜んでくれたか。
自分も柱になれば、父に認めてもらえるだろうか、と。
恥ずかしそうに兄に尋ねる。
杏寿郎はすぐには答えず、思案する。
父は昔からああではなかった。ある日突然剣士を辞めたのだ。
熱心に自分と弟を育ててくれていたのに、何故。
(考えても仕方がないことは考えるな)
父に喜んでもらえなかった自分より、千寿郎のほうがもっと可哀想だ、と弟を見つめる。
何も言わない兄と深月を見て、千寿郎が不安そうな表情になっていく。
杏寿郎は千寿郎の両腕を掴んで、彼の前に膝をついた。
「正直に言う。父上は喜んでくれなかった。どうでもいいとのことだ」
いつもは正直すぎる物言いを咎めるところだが、深月は兄弟のやり取りをただ見つめていた。
「しかし!そんなことで俺の情熱は無くならない!」
杏寿郎は弟にいつもの笑顔を見せ、声を大きく明るくし、千寿郎の両手を握り締める。
小さい彼の手には、杏寿郎や深月に負けないくらいのたこがたくさんあった。
「お前は俺とは違う!お前には兄がいる。兄は弟を信じている」
それがまるで、自身には何もないと言っているように聞こえ、深月の目に引っ込んだはずの涙が浮かぶ。
彼はたゆまぬ努力で柱になっても、尊敬する父に一言も褒めてもらえなかった。それでも、兄として、弟の心がこれ以上傷付かぬよう、励ましている。
いつの間にか千寿郎も大粒の涙を溢していた。
「頑張って生きていこう!寂しくとも!」
杏寿郎の言葉と同時に、千寿郎は彼にしがみつく。
杏寿郎はそれを受け止め、ぎゅっと抱き締める。
深月は静かに二人に歩み寄り、兄弟を纏めて抱き締める。
「私も、千寿郎君が立派な人間になるって信じてるよ」
そう言って、千寿郎の頭を撫でれば、杏寿郎にしがみついていたはずの彼の片腕が伸びてきて、深月の背中にすがり付いてきた。
深月は千寿郎の頭を撫で続けながら、空いている手で杏寿郎の手をそっと握り締めた。
貴方には私が居ますよ、と心の中で呟きながら。
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