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篝火草は赤くA


帰宅後、深月は玄関に上がる前に泥を落とそうとしたが、それすら許されなかった。

杏寿郎は深月を彼女の部屋まで引き摺るように連れていき、障子を閉めると覆い被さるように彼女を抱き締めた。

そして、一言。

「脱げ」

突然何を言い出すのか、と深月は眉をひそめる。既に意地を張り始めていた。

「わかりました。着替えます。出て行ってください」

冷たく言い放ち、杏寿郎の胸を両手で強く押す。
しかし、杏寿郎はびくともせず、深月の袴に手を掛けた。

「今すぐ脱げ」
「何するんですか!離して!やだ!」

深月は精一杯抵抗するが、杏寿郎は黙々と深月を脱がしていく。袴、帯、着物まで剥ぎ取り、漸く深月を解放する。

襦袢だけにされ、深月は怒りと恥ずかしさで顔を真っ赤にして震える。

「何なのよ、もう!」

わけがわからないまま、道着か隊服でも着ようと箪笥を開ける。
そこで、袴に跳ねた泥のことを思い出し、杏寿郎を振り返る。

「あの、着物と袴は洗濯屋さんに持っていきたいので……って、どこ行くんですか!」

深月は慌てて立ち上がり、杏寿郎の袖を掴んで引き留める。

彼は、今しがた剥ぎ取った着物や袴を持って、部屋を出ていこうとしていた。

どこに持っていくのか、と責めるように杏寿郎を見上げれば、彼は額に青筋を浮かべ、何故かにっこり笑った。

「これは捨てる」
「えっ?」

杏寿郎が何を言っているのかわからず、深月は首を傾げる。

捨てるとは。何を。まさかとは思うが、今持っている着物や袴をか。

そこまで考え至って、深月は杏寿郎の腕から着物や袴を奪い取る。

「だめですよ!捨てないでください!」
「いいや、捨てる!寄越しなさい!」
「絶対、嫌!」

深月は着物や袴を抱えたまま、その場にしゃがみこむ。
皺が少し気になったが、洗濯屋でどうにかしてもらえばいい。捨てられるよりずっとましだ。

「どうして捨てるとか言うんですか!」
「あの男は、君の袴姿を見たのだろう!だから捨てる!」

理由を聞いてもわけがわからず、深月はいやいやと首を横に振る。
この着物も袴も、全部お気に入りなのだ。捨てるなんて有り得ない。

「杏寿郎さんが何言ってるかわかりません!」
「君は、あの男の前で、笑っていただろう!」

怒鳴るように言って、杏寿郎は深月の両肩を掴む。

「あの男は、君の着飾った姿を見て、君の声を聞いて、君の笑顔を見て、君の笑い声を聞いた!同じ傘の下で!それをなかったことにしたい!」
「いや、何言ってるんですか!?」

深月はより一層困惑して声を荒げる。

理由はわかった。
おそらく、杏寿郎は親戚の男性に嫉妬している。
それでも、そこから着物や袴を捨てるなんて、ぶっとんだ発想になるのはおかしい。

「あの人は妻子がいらっしゃいます!私のことは娘さんと重なって見えたと仰ってました!」
「口ではどうとでも言えるだろう!」

杏寿郎は頑なに譲らず、引き続き深月の着物や袴を捨てようとする。

それに段々と苛々してきて、深月は杏寿郎に頭突きをかました。
何故頭突きだったかというと、杏寿郎に両肩を掴まれている上、着物や袴を抱えていて、両手が不自由だったからだ。

不意打ちに近い攻撃を顎に食らい、杏寿郎は口元を押さえて俯く。

その隙に深月は後退し、着物や袴を近くの箪笥に押し込む。もうぐちゃぐちゃだったが、洗濯屋の技量に賭けるしかない。

深月は怒りのまま叫ぶ。

「たかが嫉妬で、私の大切な物を捨てないでください!」
「たかがとはなんだ!」

杏寿郎も顔を上げ、怒鳴るように叫ぶ。

そして、しばらく言い争った後、組手と言う名の喧嘩に発展していった。

深月が打ち込み、足を払う。
杏寿郎はそれを避け、彼女の袖と襟を掴んで投げるように倒す。

深月は深く息を吸って、杏寿郎の腕から首に脚を両絡め、締め落とそうと力を込める。襦袢の裾が思いっきりはだけたが、微塵も気にしていなかった。

杏寿郎の腕や顔にビキビキと筋が浮かぶ。結構しっかり固められていて、ちょっとやそっとでは抜け出せない。
自由な方の腕で拳を作り、を深月の脚の間に差し込んで力ずくで開く。

痣が残る程の力で押し広げられ、深月の脚が緩む。
その隙に杏寿郎は首を抜き、逆に深月の関節を固めようとする。

そのドタバタと慌ただしい物音に、何事かと千寿郎が飛び込んできて、すぐに顔を青ざめさせる。

暴れていると言って差し支えない、兄と深月。
深月の部屋は彼らの攻防の被害に遭っていた。

畳はへこみ、障子はいくつかへし折れている。
幸い、箪笥は倒れいていないし、姿見は割れていないが、どちらも時間の問題だろう。

この喧嘩は自分には止められない、と父を呼びに行く。
槇寿郎は、いつもにように自室で酒を飲んでいた。

「父上!助けてください!兄上と深月さんが喧嘩を……!」

真っ青な息子の顔を見ても、槇寿郎は顔色一つ変えずに溜め息を吐いた。

「そんなもの放っておけ」
「放っていたら深月さんの部屋が壊れてしまいます!」

槇寿郎の酒を飲む手がピタリと止まる。

部屋が壊れるほどの喧嘩とはどういうことだ、と考えたが、有り得るかもしれない、と不安になる。
杏寿郎は長年修行に励んで実力をつけているし、深月も杏寿郎に負けないよう努力して大分強くなった。

あの二人ならやりかねない。

槇寿郎は渋々といった体だが、深月の部屋に向かい、千寿郎は泣きそうになりながらそれに着いていった。


*****


部屋は悲惨な有り様だった。
千寿郎が見たときよりも、畳の穴は増え、障子は砕け、姿見は割れていた。

杏寿郎と深月は、槇寿郎と千寿郎に気付かず、取っ組み合いを続けていた。

深月に至っては何故か襦袢しか身に纏っておらず、槇寿郎は頭を抱えたいのをなんとか堪える。

どちらかというと杏寿郎の方が優勢で、向かってくる深月を投げ飛ばし、引き倒し、畳に組み伏せる。
深月も負けじと杏寿郎を蹴り上げる。

立ち上がった二人がお互いの襟を掴んだところで、槇寿郎の怒声が響いた。

「何をやっとるんだ!!」

二人の肩がびくっと震え、ぴたっと動きが止まる。
杏寿郎は深月を投げる直前、深月は杏寿郎に蹴りを入れる直前だった。

槇寿郎はその辺に転がっていた深月の羽織を彼女に被せ、軽く息を吸う。

「いい加減にしろ!」

槇寿郎の拳骨と二度目の怒声が、杏寿郎と深月の頭に勢いよく降ってきて、この喧嘩は一旦お開きになった。







 




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