(9/17)
9
千寿郎の布団を取りに行った深月だが、槇寿郎から「千寿郎が寝たなら、もう帰りなさい」と言われてしまい、気まずいまま杏寿郎の元へ戻る。
彼に帰る旨を伝えたら、きっと送ってくれると言い出すだろう。
いつもならありがたい申し出だが、さっきの今では気まずくて仕方がない。
しかし、荷物は杏寿郎と千寿郎が居る部屋に置いたままだ。どう足掻いても、帰る旨を彼に伝えることになる。
深月は意を決して、居間の襖を開ける。
千寿郎を見ていた杏寿郎が振り返ったが、彼は優しく微笑んでいて、目が合った瞬間に深月は一瞬ぐっと息を詰まらせる。
「あの、槇寿郎先生が、『もう帰りなさい』って……」
目を逸らしながらそう言うと、杏寿郎は案の定「では、送っていこう!」とか言い出す。
帰り道、二人きりになるのが不安で、深月はゆるゆると首を振る。
「ん、いや……いいよ、一人で帰れるし」
「何を言っている!もう暗いから危ないぞ!」
それでも、深月が眉を下げて俯いているので、杏寿郎は困ったように笑って、彼女の顔をのぞきこむ。
「大丈夫だ。深月が嫌がるようなことは何もしないから」
その優しい声音や表情に、深月は唇を噛み締め、ほんのり頬を染める。
今まで意識したことがなかったが、この幼馴染みは顔が良いのだ。
しかも、その声も表情も、もしかしたら自分だけに向けられているのかもしれない、と気付くと妙にどきどきして、恥ずかしいのになんだか嬉しくて、杏寿郎のことを意識せざるを得ない。
「で、でも……」
どんなに杏寿郎が気遣ってくれても、恥ずかしさや気まずさは消えてくれなくて、深月がやはり断ろうとしたとき、彼女の後ろからまた別の声が降ってきた。
「何をしている?」
槇寿郎だ。杏寿郎と深月の代わりに、千寿郎を見に来たのだ。
「杏寿郎、早く送ってあげなさい」
槇寿郎は、千寿郎を起こさないよう、そっと抱き上げながら、杏寿郎を促す。
杏寿郎が元気よく返事をするものだから、槇寿郎も深月もびくっと肩を跳ねさせる。
それに気付き、杏寿郎ははにかんでから、深月の荷物を取って彼女に渡す。
「じゃあ、帰ろう。深月」
「う、うん……」
槇寿郎の前で断るわけにはいかず、深月は震える手で荷物を受け取った。
*****
帰り道、杏寿郎が気を使っていろいろ話し掛けてくれたが、深月は生返事しかできなかった。
側にいるだけでどきどきして、でもやっぱり気まずくて、今後どうするかばかり考えてしまっているからだ。
さすがにこのまま過ごすのは寂しくて、杏寿郎は立ち止まって深月の手を握る。
深月が大袈裟に反応するが、それでも離さない。
「深月。今まで通りでいいんだ」
「えっ……?」
杏寿郎の言葉に、深月は不安そうな顔になる。
今まで通りと言われても、どうしていいかわからない。どういう風に彼と接していたか、思い出せない。
「俺が君に告白したことは、一旦忘れてくれ」
「そんなこと言われても……」
忘れたくても忘れられるものではないだろう。
それに、真剣に向き合わないと杏寿郎に失礼だと思って、深月は杏寿郎の手を握り返す。
これだけどきどきするのだから、今まで彼に抱いていた好意は恋愛感情だったのではないか、と思い込んで。
「あの、私……」
「無理に結論を出さなくていい。深月は俺を好いてくれていると思うが、それが恋愛感情とは限らないから」
杏寿郎は深月の言葉を遮り、少しだけ悲しそうに笑う。
深月が自分を嫌っていない、むしろ好いてくれているというのは、自惚れでも何でもなく事実だと考えている。
そうなるよう努力してきたつもりだし、彼女は自分との触れ合いを基本的に嫌がらない。
しかし、キスは明確に拒否されたし、『杏寿郎とはそんなんじゃない』とまで言われた。
おそらく、彼女が自分に向けてくれている好意は友愛や家族愛のようなものなのだろう。
ただ、杏寿郎もそれで諦めるつもりはなかった。
「これから君を口説くから、じっくり時間を掛けて、結論を出してくれ」
「え、口説くの……?」
忘れてくれと言ったり、口説くと宣言したり、矛盾しているじゃないか。
そう思って、深月は困ったように眉を下げる。
その顔が可愛くて、申し訳ないと思いつつも、杏寿郎はふわりと微笑む。
空いている手を深月の頬に添えて、逆の頬に顔を寄せて囁く。
「一人の男として君に愛されてみせるから……まあ、その、なんだ……覚悟は、していてほしい」
極めつけに、彼女の頬に軽く口付ける。
顔を離せば、深月はゆでダコのようになって震えていた。
杏寿郎は吹き出しそうになるのをなんとか堪えて、握っていた彼女の手と指を絡める。いつも通りの、恋人繋ぎだ。
杏寿郎が歩き始めると、深月は特に抵抗することなく、彼に着いていく。
手が繋がれているから、着いていくしかないのだが。
ぼんやりと道路を眺めながら、深月は今日のことを思い出す。
いろいろなことがあって、どうにも処理が追い付かない。一晩寝れば、元に戻れるだろうか。
心臓が止まりそうなくらい速く動いているが、繋がれた手は心地好くて、杏寿郎の大きな手に安心する。
表面上はどうにかなるかもしれない、と思った深月だったが、家の前で杏寿郎に抱き締められ、『あ、やっぱ無理』と思い直すのだった。
表紙
main TOP