瓔珞草
ここは煉獄邸。
その中の稽古場で、木刀がぶつかる音が響く。
「あと五百回だ!」
「っ……は、はいっ!」
信じられない回数が聞こえてきたが、なんとか返事をする深月。
彼女は、炎柱煉獄杏寿郎の、唯一の継子である。
本日も煉獄に稽古をつけてもらっているのだが、如何せん、その稽古が毎回人間の限界を越えている。
打ち込み稽古の回数は、千回以上なんてざらで、走り込みも、筋肉の強化も、常人であれば泣いて逃げ出すか、その前に気を失う激しさだ。
それでも、深月はぎりぎりのところでその稽古についていく。
彼女の精神を支えているのは、殆どが『教えを乞うのだから弱音を吐けない』という意地だ。
残りは、師である煉獄への淡い恋心だろうか。
「あ、ありがとう、ござい、ました……!」
どうにか煉獄の指示通りの稽古をこなし、深月は息も絶え絶えに頭を下げる。
「うむ!前回より踏み込みが良くなったな!」
そう言って、煉獄は深月の頭を撫でようと手を伸ばす。
それに気付いた深月は、反射的に数歩下がって、彼の手を避けてしまう。
こんなに汗まみれで臭い自分に近付いてほしくなくて、汚れた頭や髪に触れてほしくなくて、ついそうしてしまった。
行き場を失った煉獄の手が宙をさ迷い、二人の間に気まずい沈黙が流れる。
その沈黙を打ち破ったのは、煉獄の方だった。
「すまん。女性に対して失礼だったな」
「いえ、そんなことは……」
深月は視線を横に逸らしながら答えるが、説得力がなかった。
煉獄は心の中で小さく溜め息を吐いて、いつも通りの笑顔を浮かべる。
「茶でも飲むか?千寿郎に頼んでくるから、縁側に座って待ってなさい!」
そして、深月の返事も待たずに稽古場を出て行く。
それを見送ってから、深月は大きな溜め息を吐いた。
どうしてこう、自分は煉獄にあんな態度を取ってしまうのか。
これは今に始まったことではない。
稽古や任務以外では目も合わせられず、煉獄の指先が腕に触れただけで肩を跳ねさせ、彼に笑顔を向けたことすらない。
継子にしてもらって早数ヶ月。
関係は進むどころか後退している気がする。
深月はとりあえず、煉獄に言われた通り、縁側で待とうと移動する。
縁側に座ると、丁度よく風が吹いてきたので、後ろ髪をかきあげて、汗で濡れたうなじを冷やす。
「涼しい」
誰も居ないのをいいことに、足を崩して背中を丸める。
そのまましばらく涼んでいると、背後から「何をやっている」と渋い声が降ってきた。
深月は居住まいを正し、後ろを振り返る。
「槇寿郎様。お見苦しいところを。大変失礼いたしました」
そう言って、床に額が着きそうなほど頭を下げる。
背後に居たのは、槇寿郎だった。いつものように酒瓶を手にしている。
槇寿郎は、深月に頭を上げるように言って、呆れたように溜め息を吐く。
「年頃の娘がそういうことをするものではない」
「はい。気を付けます」
深月は頭を上げ、にっこり笑う。
槇寿郎のことは、最初こそ怖かったが、何度か話せば根は良い人なのだとわかり、今ではあまり怖くなった。
深月はふと、槇寿郎の酒瓶を見る。
「お酒の銘柄、変えたんですか?」
酒瓶に書いてある名称が、いつもと違った。
槇寿郎は酒瓶と深月を交互に見て、「飲んでみるか?」と尋ねる。
なんとなく尋ねただけで、特に意味はない。
「今夜も任務がありますので。お気持ちだけ有り難く頂戴します」
深月は申し訳なさそうに眉を下げた。
それを見て、槇寿郎は軽く彼女の頭を撫でてから、ふらりとどこかへ行ってしまった。
深月は槇寿郎に撫でられた頭に触れる。
おそらく、「気にするな」という意味なのだろう。
思いの外優しかった手付きに、深月は一人で嬉しそうに微笑んだ。
「雨宮!待たせたな!」
槇寿郎が去った方向とは逆から、大きな声が聞こえてきて、深月はびくっと肩を跳ねさせた。
これは紛れもなく、煉獄の声だ。
「師範!すみません、手伝いもせず……」
深月は慌てて立ち上がり、煉獄と彼の横でお盆を持っている千寿郎に駆け寄る。
煉獄は「気にしなくていい!」と快活に言うが、深月は千寿郎からお盆を受け取った。
千寿郎は申し訳なさそうに笑っていたが、お茶を淹れてもらっただけで充分ありがたかった。
深月は、お盆の上に湯飲みが三つあることに気付き、千寿郎に笑い掛ける。
「今日は、千寿郎さんも一緒なんですか?嬉しいです」
「はい、お邪魔します」
深月につられて、千寿郎も嬉しそうに微笑んだ。
煉獄と三人で縁側に座り、茶や菓子を口にし始めるが、深月は千寿郎とばかり話していた。
「これも千寿郎さんが作ったんですねえ」
「はい。簡単ですよ」
「もしよかったら、作り方を教えてもらえますか?」
「はい、もちろんです!今度一緒に作りましょう」
菓子について、楽しそうにお喋りする二人を横目で見ながら、煉獄は数分前のことを思い出す。
*****
数分前。煉獄は千寿郎に茶の準備を頼み、先に深月の元へ戻ろうとした。
彼女が縁側に座っているのを確認し、声を掛けようとしたが、口を開いただけで何も言えなかった。
深月が、不意に髪をかきあげたからだ。
持ち上げられた髪からのぞくうなじや、袖が捲れて見えた二の腕が、見てはいけないものな気がした。
それらは、彼女が継子でもなく、剣士でもなく、一人の女性なのだと物語っていた。
そこに、突然父が現れ、彼女と何やら話した。
父と話している彼女は、自分には向けないような笑顔を浮かべていて、煉獄は胸が締め付けられるような感覚がした。
深月を継子にして早数ヶ月。
彼女は、父や弟とは楽しそうに話すのに、自分には未だに笑顔を向けてくれないし、稽古や任務以外での会話も少ない。
果てには、少し触れただけで驚かれる始末だ。
自分では気付かないうちに、彼女に何かしたかのかと思ったが、彼女は別に怯えているわけでもなし。
わけがわからず呆けていると、千寿郎がお盆を持って追い付いてきたので、何事もなかったかのように深月に声を掛けた。
*****
煉獄がそんなことを考えているうちに、千寿郎はお盆を持って下がって行った。
どうやら、深月と千寿郎はもう菓子を平らげたらしい。
煉獄は、自分の皿の菓子を見下ろす。
考え事をしていたせいで、ほとんど減っていなかった。
煉獄の菓子が減っていないことに気付き、深月は心配そうに声を掛ける。
「お腹空いてないんですか?どこか具合が悪いとか?」
「いや、どこも悪くない。そうだな、腹が減っていないのかもしれん。食べるか?」
煉獄は深月を安心させるように微笑んで、皿を彼女に差し出す。
しかし、深月は勢いよく顔を背けた。
煉獄からは見えていないが、彼女の頬は少し赤く染まっている。
相変わらずの反応に少し悲しくなり、煉獄は皿を彼女の前に置く。
まるで、野良犬か何かを慣らしている気分だ。
目の前の少女は、何ヵ月経っても慣れる気配がないが。
「ここに置くから、気が向いたら食べるといい」
「え、そんな野良犬を慣らすみたいな……」
さすがに、その扱いはあんまりだろう。
深月は顔を戻して、困った顔で煉獄を見上げる。
彼女の言葉を聞いて、彼女の困った顔を見て、煉獄は一瞬呆けた後、耐えきれずに吹き出した。
急に笑い出す煉獄に困惑し、深月は首を傾げる。
「すまん。同じ事を考えていた。君は野良犬みたいに、なかなか懐いてくれないから」
煉獄は笑いながら、深月の頬に手を伸ばす。
犬にするように、顎を指先で撫でてやれば、深月はあっという間に耳まで赤くする。
いつもの調子だと、ここで逃げ出すことはわかっていたので、煉獄は深月の後頭部に手を添えて固定する。
少し顔を近付けて、彼女の瞳をじっと見つめる。
逃げられなくなった深月はふるふると震え、せめてもの抵抗として視線を横に逸らした。
「師範、あの、近いです……」
「ん?こうした方が早く慣れると思ってな」
荒療治だ、と笑って、煉獄は置いていた菓子を深月の口元まで持ってくる。
「ほら、食べなさい」
「自分で食べれます!」
深月は顔を後ろに下げようとするが、後頭部に添えられた煉獄の手のせいで、少しも動けない。
「野良犬を慣らすには、餌付けが有効だと聞いたことがある。ほら、口を開けなさい」
煉獄はにっこり笑って、菓子を深月の唇に押し付ける。
このままでは、千寿郎がせっかく作ってくれた菓子が無駄になる、と考え、深月は観念した。
恐る恐る口を開ければ、煉獄が容赦なく菓子を突っ込んでくる。
それを一口分噛み千切って、ちゃんと味わってから咀嚼する。
深月が菓子を食べてくれたことに気を良くし、煉獄は残りも彼女の唇に押し付けた。
それを全て食べ終える頃には、深月の顔の赤みも大分引いて、震えも治まっていた。
荒療治はまあまあ効いたらしい。
満足したのか、煉獄は深月を解放し、湯飲みに口を付ける。
深月も気を紛らわすように湯飲みに口を付けたところで、煉獄はふっと笑った。
「雨宮が食べた菓子は、俺の食い止しだったな」
茶を口に含んでいた深月は、一瞬硬直してから、盛大に噎せる。
煉獄が咳き込む彼女の背中を擦ってやると、今までのように避けたり逃げたりはされなかった。
代わりに、恨めしそうな目で睨まれたが。
それでも、自分を見てくれたことが嬉しくて、煉獄は微笑む。
ころころ変わる彼の笑顔に翻弄され、深月はまた頬を赤く染めていく。
その反応からして、どうやら嫌われているわけではなさそうだ。
この分だと、笑顔を向けてくれる日も実は近いのかもしれない、と煉獄は太陽のような笑顔を浮かべた。
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