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気付いたときには


柔らかく弧を描く唇に。力強くも美しい剣技に。

誰かを守ろうとする、その清廉さに。

この人しかいない、と煉獄は思ったのだった。


*****


「君!名前は何と言うんだ!」

鬼の頚を斬った直後、大声で尋ねられ、深月は驚きのあまり飛び上がりそうになった。

やたら近くで声が聞こえたな、と思いつつ振り向けば、見慣れた生地と金色の釦が彼女の視界に入る。

金色ということは、柱の隊服の釦で。
今、この場で柱の隊服を身に纏っているのは、炎柱こと煉獄杏寿郎しかいない。

きっとすぐ上に煉獄の顔があるのだろう。

深月には、至近距離で炎柱と目を合わせる勇気がなかった。
数歩下がってから、顔を上げて煉獄の目を見る。
そういえば、任務前に名乗っていなかったな、と考えつつ、口を開く。

「名乗るのが遅れて申し訳ございません。私は、雨宮深月と申します」

礼儀正しく名乗って、軽く頭を下げる。

「うむ!雨宮か!俺は……」
「炎柱、煉獄杏寿郎様ですよね。存じ上げております」

煉獄が名乗ろうとしたのを、深月はつい遮ってしまった。そして、顔を青ざめさせる。

柱の話を遮るなど、失礼にも程がある。

深月はすぐに謝罪しようと口を開いたが、彼女が声を発する前に、煉獄がふわりと微笑んだ。
普段の様子からは想像できない、その柔らかい笑みに、深月はぐっと息を詰まらせる。

「知っていてくれたのか」

煉獄は嬉しそうにそう言って、深月の頬に手を添えた。

「雨宮。俺の妻になってくれないか?」
「は?」

深月は眉をひそめ、煉獄の手を振り払った。
さっきの今で柱に無礼を働くのはどうかと思ったが、『この男は何を言ってるんだ』という感情の方が勝った。

「私は卑しい身分ですので、貴方様には相応しくありません」

どうかお気を確かに、と嫌味たっぷりで断る深月。

しかし、その程度で折れるほど、煉獄杏寿郎という男は容易くなかった。

「俺は、君と一緒に居たいと思っている!」

全く会話が成立していない。
これはやばいと思い、深月は足早にその場を去った。


*****


「うまいだろう!」
「はい、まあ、おいしいですね……」

隣で太陽のような笑顔を浮かべる煉獄に、深月は遠い目をしながら答える。

先日、初めて煉獄と任務を共にして以降──というより、煉獄から謎の求婚をされて以降、深月はちょくちょく煉獄に捕まっていた。

柱の誘いを無下に断るわけにもいかず、そもそも断ったところで煉獄には全く通じず。

深月は彼の隣で、大人しく食事を口に運ぶ。
先程「おいしいですね」と返したが、正直言って、味などよくわからなかった。

ここは、恋柱御用達の食事処らしく、煉獄もたまに来るらしい。

ここに連れて来られたのは今日が初めてだ。
今までは、甘味処だったり、小間物屋だったり。
煉獄はとにかく、深月が喜びそうなところへ連れてきては、彼女に何かを奢ったり買い与えたりしようとしてくる。

(食べる量と金銭感覚が合わないんだよなあ……)

深月は煉獄にバレないよう、心の中でため息を吐く。

鬼狩りの名門煉獄家の長男で、現炎柱である煉獄は、言ってしまえばお坊ちゃんだ。
平民の出で、煉獄より階級が低い深月とは、金銭感覚に天と地ほどの差がある。

以前、小間物屋に連れていかれたときは、見るからに高そうな櫛を買い与えようとしてきて、深月はそれを拒否するのにかなり手間取った。

甘味だって食事だって、毎回異常な量を注文される。
こんなに食べきれないと伝えても、「残ったら俺が食べるから大丈夫だ!」と言われてしまう。
そして、彼は本当に注文した物を残さず食べる。

深月もここ最近の付き合いで分かったが、煉獄は人柄がいい。面倒見も良いし、とても優しい。

ただ、こんなにも自分を好いてくれる理由がわからないし、身分が違いすぎる。

なんとか食事を終え、深月は隣の煉獄を見つめる。

「炎柱様。お話があります」
「うん?」

煉獄は優しい笑みを浮かべ、深月の方を向く。
そういう顔はずるい、と思いつつも、深月は平静を装って続きを話す。

「何度も申し上げておりますが、私は貴方様に相応しくありません。こういったお誘いは、私には勿体無いので、今後はお控えくださいませ」

その言葉に、煉獄は一瞬目を丸くした。
しかし、すぐに目を細めて頷いた。

「うむ。わかった」

初めて話が通じたことが嬉しくて、深月の口角は少しだけ上がった。


*****


同じ顔が笑っている。

深月は彼らを見て、そんな感想を抱いた。

彼らとは、煉獄とその弟の千寿郎である。

以前、深月が煉獄に『こういう誘いは今後控えてほしい』とお願いしたところ、何かしらの用事を言い付けられて、煉獄家に招かれるようになった。
そういうことじゃない、と思ったが、口には出せなかった。

一体、どういう方法を使ったのか、隠や鎹烏までが、煉獄への言伝てを頼んでくる始末だ。

深月も、何度か「それくらい自分で行ってくれ」と突っ返したが、その度に隠や鎹烏が顔を青ざめさせて首を横に降るので、毎回渋々煉獄家に出向くことにしている。
隠はともかく、鎹烏まで表情を読めるくらい怖がっているのは、余程のことがあったからだろう。

そして、煉獄家に出向く度に、千寿郎から手厚いもてなしを受ける。

「雨宮さん、お茶のおかわりは大丈夫ですか?」
「大丈夫です。ありがとうございます」

にこにこと尋ねてくる千寿郎に、深月は笑顔で答える。
千寿郎に罪はない。幼い彼に無表情で答えるのは気が引けた。

千寿郎は笑顔のまま、湯飲みを下げに行き、部屋には煉獄と深月だけが残された。

なんとなく気まずくて、深月は「お暇します」と言って、立ち上がろうとする。
煉獄は、彼女の腕を掴んでそれを引き止める。

「まだ時間はあるだろう?もっとゆっくりしていきなさい!」
「いや、でも……」

貴方と二人っきりで居るのが気まずいんです。
そう言いたいが、口が裂けても言えない。

しかし、煉獄が手を離してくれる気配もなく、深月は諦めて座り直す。

すると、煉獄は深月の腕を掴んでいた手を離し、それを彼女の頬に移動させる。
まるで出会った時のようだが、その時とは違い、顔も近付ける。

深月は驚いて避けようとするが、それより前に煉獄の額が彼女の額にくっついた。

「あ、あの、炎柱様、近いです……!」

さすがに動揺し、深月は煉獄の肩をやんわりと押す。
だが、煉獄に退くつもりは一切ない。

吐息がお互いの唇を掠める距離で、煉獄は目を細める。

「そろそろ、決心はついただろうか?」

その言葉の意味が、深月には一瞬わからなかった。
しかしすぐに、求婚の話だと気付く。

彼の中では、深月が求婚を受け入れる前提で話が進んでいるらしい。

「それは、何度もお断りしたはずです」

深月は目線を横に逸らし、蚊の鳴くような声で返事をする。
吐息がかかる距離だと気付いてしまったら、大声は出せなかった。

煉獄は困ったように笑い、深月から顔を離す。

「自分で言うのもなんだが、悪い話ではないと思うぞ」
「ですから、私は炎柱様に相応しくないんです」

そりゃ、名門煉獄家の長男でもあり、炎柱でもある煉獄杏寿郎に嫁ぐのは、悪い話ではない。むしろ玉の輿だ。

ただ、それを周囲がどう思うかは別だろう。

「私なんかを娶っては、煉獄の名に傷が付きます」

深月は震える声でそう言って、今度こそ立ち上がった。

逃げるように去っていった彼女の顔は、年頃の娘らしく真っ赤になっていた。

彼女の足音が聞こえなくなってから、これなら時間の問題か、と煉獄は口角を上げた。


*****


今日も今日とて煉獄への伝言を頼まれ、深月は煉獄家へ向かう。

その途中、人混みの中で見慣れた──見慣れてしまった、燃えるような髪色の人物を見つける。

群衆より少し高い身長とその派手な髪色は、紛れもなく煉獄のもので。
さっさと彼に用件を伝えてしまおう、と深月はその後ろ姿を追った。

人混みの隙間を縫って、彼に近付くが、あと少しというところで、深月の足は止まった。

煉獄の隣に、年若い娘がいる。
綺麗な着物を着て、手入れの行き届いた髪を結っている彼女は、煉獄と並んでも遜色ない美貌の持ち主だった。

二人は、楽しそうにお喋りしながら、どこかへ歩いて行った。

「何それ……」

深月は立ち止まったまま、思わず呟く。

なんだそれ。
好い人が居るくせに、自分に言い寄ってきていたのか。
妾でも欲しかったのか。手頃な娘が自分だっただけなのか。それとも、からかわれていただけなのか。
そもそも、よくよく考えれば、名門一族の長男に許嫁がいない方がおかしい。

今しがた、自分が見た光景を指摘すれば、きっと今後は煉獄から言い寄られることもないだろう。

清廉高潔な人だと思っていたのに、がっかりだ。

深月はくるっと踵を返す。
人通りが少なくなったところで自分の鎹烏を呼び出し、煉獄への伝言を伝える。

鎹烏は嫌だ嫌だと首を降っていたが、無理矢理煉獄の元へ行かせた。

これで今後は心置きなく任務に集中できる。

そう思っていたのに、胸が締め付けられるような感覚がした。

彼の求婚が戯れだったとして、一緒に出掛けた日々が気まぐれだったとして、自分に向けられた笑顔が偽りだったとして、自分の人生に何の支障があるのか。

深月はぶんぶんと首を振って、雑念を払おうとする。

しかし、いつまで経っても、先程の光景が、煉獄の笑顔が、頭から離れなかった。

「なんで、今更」

気付きたくなかった。気付かなければよかった。

彼の求婚が嬉しかった。
一緒に出掛けた日々が楽しかった。
自分に向けられた笑顔が愛しかった。

いつの間にか、そう思うようになってしまっていた。

今更気付いたところで、煉獄の行動に意味はなかったのだから、どうしようもない。

深月は痛む胸を押さえて、溢れそうになる涙を堪えて、その日の任務に向かった。


*****


否応なしに日は暮れるし、夜は明ける。

相手に想いを伝えることもなく初恋が終わったって、容赦なく指令は来る。

今日も任務に向かわねば、と深月は布団から出る。

ここ数日、煉獄への伝言は言い渡されなかった。
そのため、深月は煉獄と顔を合わせることもなく、日々を過ごせている。

幸いだった。
煉獄への想いを自覚した今、彼と会うのは苦行だ。

深月は隊服に着替えよう、と寝間着の帯を解く。

その瞬間、障子が遠慮なく開け放たれた。

「深月!迎えに来たぞ!」
「ひっ……ぎゃあああ!」

突然のことに驚き、深月は色気のない悲鳴を上げ、身体を隠すようにしゃがみこむ。
婦女子が寝泊まりしている部屋に無断で入ってきた愚か者は一体誰だ、と障子の方を振り向き、硬直する。

そこには、煉獄が居た。
数日ぶりに見た彼は、目を輝かせていた。

しかし、深月の姿に気付くと、直ぐ様部屋を出て行き障子を閉めた。

「すまん!着替え中だったんだな!待っているから、終わったら声を掛けてくれ!」

そういう気遣いは、障子を開ける前にしてほしかった。
深月は溜め息を吐きつつ、着替えを再開する。

隊服に袖を通しながら、深月はあることに気付く。

先程、煉獄は自分のことを名前で呼ばなかっただろうか。
気のせいかもしれないが、『雨宮』ではなく『深月』と聞こえた気がする。

着替え終えると、高鳴る胸を押さえ付け、深月は障子をそっと開ける。

「お待たせしました……何かご用ですか?」
「迎えに来た!」

煉獄は太陽のような笑顔を浮かべ、深月の両手を取る。

深月はわけがわからず、首を傾げる。
聞いていないが、今夜は一緒の任務なのだろうか。
それにしても、まだ昼前なのだから、迎えに来るにしては早すぎるだろう。

「あの、迎えって……今日の任務ですか?炎柱様と一緒なんでしょうか?」
「違う!」

煉獄は大声で否定し、深月の手をぎゅっと握る。

「深月を煉獄家に迎え入れる準備ができた!父上に挨拶をしに行くぞ!」
「は?」

深月は眉をひそめ、煉獄の手を振り払う。
出会った日のように、『この男は何を言ってるんだ』という感情が、理性を飛び越えた。

やばい。この人はやばい。
好い人だか許嫁だか知らないが、綺麗な娘と並んで歩いておきながら、自分を娶るとか言っている。
薄々気付いていたが、頭がおかしいのだろうか。

そんなことを考えて、煉獄を睨み付ける。

「炎柱様。お気を確かに。冗談にしても笑えませんよ」
「俺は正気だ!冗談でもない!」

笑顔のまま再度深月の手を握る煉獄。
あまりの清々しさに呆れて、深月は盛大な溜め息を隠そうともしない。

「綺麗なお嬢さんと歩いていたじゃないですか。恋人か許嫁か知りませんけど。その上で私を娶るとか、倫理観をお母様のお腹の中に置いてきたんですか?」

その言葉を聞いて、煉獄は首を傾げる。

「何の話だ?俺には恋人も許嫁もいない!」
「はあ?この期に及んで、しらばっくれるつもりですか?」

深月は呆れたように溜め息を吐き、先日見た光景を煉獄に伝えた。
彼が、年若く美しい娘と、仲良くお喋りしながら歩いていた、と。

煉獄は少し考え込んだ後、耐えきれなくなったように吹き出した。

「あれは、違う……くっ、ふふっ……そうか、君はあれを見て、妬いてくれたのか」
「やっ、妬いてなんかいません!」

深月は真っ赤になって、煉獄の手を振り払おうとしたが、煉獄は離してくれなかった。

「あの人は、任務で助けたお嬢さんでな……」

煉獄は、先日の件について説明を始める。

彼女は、任務で助けた娘で、既婚者だ。
偶々道端で再開して、彼女の幸せな結婚生活について話を聞いた。
煉獄も結婚を考えている相手がいると伝えたところ、いろいろ助言してくれたのだ。

「彼女の助言によると、結婚さえしてしまえばこっちのもの、らしい」

なんでも、彼女は意中の相手に結婚を迫り、相手は根負けして承諾したものの、今では彼女に夢中らしい。

「……と、言うわけで。俺と結婚してもらうぞ、深月。まさか、柱の命令を嫌とは言わないだろうな?」

煉獄は深月の腰に腕を回し、力強く抱き寄せる。
今まで、彼女の身体には極力触れないようにしてきたが、本気で口説き落とすにはこれでも足りないくらいだろう。

深月は言葉を失い、わなわなと震える。

炎柱は、思っていたのと別の方向で頭がおかしかった。
この変わりゆく時代の最中に、剣で生計を立てているような娘に、立場を利用して結婚を迫るなんて。

それでも、煉獄に触れられている部分が熱くて、彼の瞳が綺麗で。

嫌だなんて、思えなくて。

深月は悔しそうな顔で俯く。

「後悔しても知りませんから……」

ひねくれた了承の言葉に、煉獄はふっと笑って、彼女の手を引いて歩き始めた。


*****


煉獄家への道すがら、煉獄と深月は知り合いに声を掛けられた。

それは隠だったり、他の柱だったり。

皆、「おめでとうございます」とか「漸くですか」とかと言ってくる。

何度も同じように声を掛けられるので、深月は不思議に思って、隠の一人に何故そんなことを言うのか尋ねた。

「雨宮さん、何を言ってるんですか?」

隠の方こそ不思議そうな顔で、深月に説明する。

煉獄とあんなに逢い引きを繰り返して、彼の実家にも出向いていたじゃないか、と。
それを結婚前提と言わず何と言うのか、と。

「えっ!?」

深月は思わず煉獄を見上げる。
煉獄は、何食わぬ顔で微笑みを返し、また歩き始める。

深月は、してやられた、と思った。
何度も誘ってきたのも、贈り物をしてこようとしていたのも、煉獄家に呼び出していたのも、傍から見れば煉獄と深月が恋仲に見えるように、という考えだったのだ。

人通りが少ない道に差し掛かってから、深月は煉獄を非難する。

「炎柱様が、そんな狡い方だとは思いませんでした!」

もし深月が求婚を受け入れなかったとしても、周囲にああも誤解されては、逃げられなかっただろう。
現に、ちょっと結婚を了承したことを後悔しそうだが、あれだけ噂が広まっていたら、今更撤回もできない。

先を歩いていた煉獄は立ち止まり、深月を振り返る。

怒らせてしまったか、と深月は身構えたが、煉獄はにっこり笑って、目にも止まらぬ速さで彼女の唇を奪った。

「『炎柱様』なんて、他人行儀な呼び方は止めてくれ。深月は、俺の妻になるのだから」

深月の耳元で囁き、煉獄はまた前を向いて歩き始める。

唇に残った感触に、耳元に掛かった吐息の熱さに、深月は暫し惚けていた。




リクエストありがとうございました!

切なくはどうにかなったと思うのですが、ギャグ甘はちゃんとできたかどうか……(;・ω・)
一目惚れして猛アタックしちゃう煉獄さん、とても良いですよね!
外堀埋めちゃう煉獄さんが好きな方もいらっしゃるようで……!

楽しく書かせていただきました。
ありがとうございました(*´∇`*)











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