アンスリウムはデイジーに
なんで自分は子どもで、あの人は大人なんだろう。
どうしようもないことを考えて、深月は小さく溜め息を吐く。
彼女が現在想いを寄せている相手は、教師の煉獄だ。
まだ子どもで、しかも彼の生徒である深月のことなど、きっと恋愛対象として見てはくれないだろう。
深月は再度、溜め息を吐く。
「早く大人になりたいなあ」
「若いうちしかできないこともあるぞ!」
独り言に返事が返ってきて、深月は口から心臓が飛び出そうになった。驚きすぎて悲鳴も出ない。
返事は後ろから聞こえただろうか。
恐る恐るそちらを振り向けば、煉獄が居た。
「れ、煉獄先生……びっくりした……」
深月はへにゃっと顔を綻ばせ、煉獄を見上げる。
煉獄は一瞬硬直し、そのまま話を続ける。
「今のうちに、青春を謳歌しておきなさい!」
「うーん。そうですね……」
深月は煉獄から顔を背け、困ったように眉を下げる。
青春を謳歌したくとも、恋する相手が教師では、到底叶わない。
相手を困らせるだけなので、告白すらできない。
自分が大人だったら。もしくは、煉獄が子どもだったら。
それか、初めから彼に恋などしなければよかったかもしれない。
分相応に、同級生あたりに恋をしていれば、こんなに悩まずに済んだのかもしれない。
しかし、そんなことを考えてもしょうがないので、深月は気を取り直し、明るい笑顔を浮かべて煉獄の方を向く。
「先生は、青春を謳歌しました?」
「ん、どうだったかな」
煉獄の返答に、深月は誤魔化された、と思った。
やはり、彼にとって自分はただの生徒で、子どもなのだ。過去を話すような相手ではないのだ。
それでも、微笑んでいる煉獄の顔には大人の色気のようなものがあって、深月はぐっと黙り込む。
少し不満そうで、しかし頬を染めている深月を見て、煉獄はふっと笑う。
「教師というのは何かと面倒なこともあってな」
肩に触れただけ、過去の恋の話をしただけ。
たったそれだけで、セクハラだ性犯罪だと騒ぎ立てる親も居るご時世だ。
そのせいで、女生徒と話をするのには注意がいる。
「君が大人になったら教えてあげよう」
そう言って、煉獄はその場を去っていった。
その背中が見えなくなってから、深月は盛大な溜め息を吐く。
「ずるい……!」
何故、自分の想い人はあんなに大人なのだろう。あんなに格好いいのだろう。
やはり、しょうがないことではあるが、早く大人になって、彼の隣に立てる女性になりたい。
そう思って、深月は唇を噛み締めた。
*****
煉獄は深月と別れた後、一人で廊下を進む。
途中で何人かの生徒とすれ違い、彼らが挨拶をしてくれるので、いつも通りに元気よく挨拶を返す。
しかし、彼の内心はごちゃごちゃとした考えや感情で渦巻いていた。
(危なかった……!)
一人になれる場所を見つけて、煉獄はふーっと長く息を吐く。
先程、深月を見つけて声を掛けた。
そこまではよかった。
だがしかし、彼女が振り返って見せた笑顔が可愛らしくて、思わず抱き締めそうになった。
どうにか耐えたが、その後も理性を保つのでいっぱいいっぱいだった。
顔を背け、困ったような表情になったかと思えば、明るく笑って顔の向きをこちらに戻す。
悔しそうな顔をしながらも、頬を染めてこちらを見つめる瞳には、熱が籠っているような気がした。
「気のせいだ」
そう、自分に言い聞かせる。
深月が熱の籠った瞳で見つめてきていたなど──自分に恋慕しているなど、気のせいだ。
そう見えるのは、自分の願望に過ぎない。
自分は教師で、彼女は生徒だ。
万が一のことがあっては、懲戒免職だけでは済まないだろう。
こんな想いは、抱いてはいけない。
そこまで考えて、煉獄は深呼吸をする。
自分を落ち着かせてから、職員室に戻ろう、と足を進めた。
*****
休日。夕暮れ時。人通りが少ない道。
不良というか、ヤンキーというか。
こんなの漫画でしか見たことない、と深月は現実逃避をしていた。
深月は数十分前、母親におつかいを頼まれて家を出た。
その帰り道、地元だからと近道をしたら、人通りが少ない道で数人のヤンキーに絡まれてしまった。
理由は『深月がガンを飛ばしてきたから』らしい。
そんなこと言われても、と思ったが、それを言ったら状況が悪化しそうなので、深月はとりあえず謝罪した。
確かに、彼らをちらりと横目で見たし、それが気に障ったなら、謝ってさっさとこの場を去ってしまった方が丸く収まるだろう。
しかし、彼らもいちゃもんをつけた手前、後には引けなくなったらしく、深月の腕を掴む。
「てめぇのせいで気分が悪くなったじゃねえか!どうしてくれんだ!」
「すみません」
深月はひたすら謝罪するロボットと化す。
割と怖いのに、いや、怖いからこその現実逃避なのか、自分でも驚く程冷静な声が出る。
表情もあまり変わっている気がしない。
そんな表面上は冷静に見える深月の様子が気に障り、ヤンキーの一人が腕を振り上げる。
深月もさすがに冷静さを失い、目を瞑って体を縮こまらせ、痛みに備える。
しかし、いつまで経っても痛みは襲ってこなかった。
ゆっくり目を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
腕を振り上げていたヤンキーは、その腕を誰かに掴まれていた。
「俺の生徒に何をしている!」
腕を掴んだのは煉獄だった。
休日だからかラフな格好をしていて、特徴的な髪色がなければ、すぐに彼だと気付けなかっただろう。
どうして彼がここに。助けてくれた。かっこいい。
深月の脳内をいろいろな考えが巡るが、一番強い考えはこれだった。
(こんなの漫画でしか見たことない)
煉獄はヤンキー達を一睨みすると、彼らに去るよう促す。
「今なら、警察を呼ばないでおいてやろう。こんなことをしていたら、いつか身を滅ぼすぞ!もう止めるんだ!」
怒っているような声や表情なのに、ヤンキー達の将来まで気に掛けるあたりが煉獄らしい。
ヤンキー達は、罰が悪そうな顔をして去っていった。
煉獄の形相が怖かったというのもあるが、自分達を気に掛けてくれる物言いにあっさり負けてしまったのだ。
彼らが去ったのを確認してから、煉獄は深月を振り返る。
「雨宮!大丈夫か!」
「大丈夫です。ありがとうございます」
深月は慌てて頭を下げてから笑顔を浮かべるが、煉獄は眉を下げて微笑み、彼女の頬に手を伸ばす。
彼の指は頬から目尻をなぞって、何かを拭うような動きをする。
そこで漸く、深月は自分が泣いていることに気付いた。
「怖かっただろう。怪我はないか?」
「怪我は、ないです……」
煉獄が引き続き涙を拭ってくれるのは心地好いが、今頃になって体が震え始めて、深月は困惑する。
そうだ、怖かった。怖かったのだ。
自分より体格のいい男数人に大声で怒鳴られて、腕を掴まれて、殴られそうになった。
想像したくはないが、煉獄が来なかったらどうなっていたかわからない。
「怖かった」
「ああ」
「殴られるかと思った」
「そうだな。間に合ってよかった」
返ってくる煉獄の声が優しくて、それに安心して、深月の涙は次々に溢れてくる。
ぼろぼろと涙を溢す深月が可哀想で、煉獄は彼女をそっと抱き締めた。
こんなこと、教師が生徒にしていい行為ではない。
それでも今だけは、と煉獄は腕に力を込める。
「せんせ……?」
「落ち着いたら、家まで送ろう」
そう言って、深月の背中をとんとんと叩く。
それがまた心地好くて、好きな人の腕の中というのが嬉しくてドキドキして、怖い目に遭った直後だというのに、深月はこの状況に感謝してしまった。
*****
深月が泣き止むと、煉獄は彼女の荷物を持ち、彼女の手を取って歩き始めた。
緩く繋がれた手に心臓が跳ね上がるが、深月はなんとか彼に着いていく。
途中でふと、煉獄が口を開く。
「どうしてあんな道を通ったんだ?」
人通りが少ないんだから危ないだろう、と続けたので、説教が始まったのだ、と深月は察した。
「近道だったので……でも、いつもはあんな人たちいないんです」
「そうか。だが、今後は暗い時間に通るんじゃないぞ」
「はい、すみません」
説教とはいえ、煉獄の諭す声はずっと優しかった。
深月は素直に謝り、自分の疑問を口にする。
「先生は、どうしてあんなとこに?」
すると、煉獄は恥ずかしそうに眉を下げた。
「すまん。俺も近道だ」
深月の方を見て、はにかんで笑う。
今しがた深月に説教しておきながら、自分も近道のために通ったとは、何とも格好がつかない。
女の子の深月と成人男性である煉獄とではわけが違うが、説得力はなくなるだろう。
煉獄は誤魔化すように、説教を続ける。
「君は女子なのだから、もう少し気を付けなさい」
「わかりました」
返事をしながらも、深月は少し口角を上げる。
恥ずかしそうにしている煉獄が幼く見えて、可愛いと思えてしまった。
あと少しで深月の家に着くというところで、煉獄が一旦足を止めた。深月もそれに合わせて足を止める。
煉獄は深月の手をそっと離して、荷物を彼女に返す。
「手を繋ぐのはここまでだ。あらぬ誤解を受けるかもしれないからな」
深月は頷いて、荷物を受け取る。
そういえば、自分も煉獄も部屋着のような格好だ。
そんな格好で手を繋いで歩いていたら、もしかして恋人同士のように見えるのだろうか。
少し残念だが、彼の教師生命を絶つわけにはいかない。
「家までは送るから安心しなさい。親御さんにも事情を説明しよう」
「ありがとうございます」
そんな言葉を交わして、二人ともまた歩き始める。
深月はなんとなく、横目で煉獄の様子を伺う。
きっと、明日からは元通りになるのだろう。
抱き締めてくれたのも、手を繋いでくれたのも、取り乱した自分を心配してくれてのことだ。
そこに特別な意味はなく、彼の優しさを与えてもらっただけ。
それでもドキドキして、嬉しかった。
ラフな格好の煉獄を見れたのも運が良かった。
こんな彼を見れるのは、家族か恋人くらいだろう。
『恋人』
自分で考えておいて、深月はその存在に不安になった。
煉獄程の素敵な男性なら、彼女の一人や二人くらいいるのではないか。いや、二人もいたらまずいか。
しかし、どうして今までその可能性に思い至らなかったのか。
考え始めると気になって気になってしょうがない。
家はもう見えている。家に着くまであと数分もかからない。聞くなら今しかない。
深月は意を決して、煉獄の袖を引く。
「煉獄先生!」
「うん?どうした?」
煉獄は微笑んで聞き返してくる。
それは、深月の心臓をうるさくさせるには充分だった。
だが、深月も後に引く気はない。
うるさく跳ねる心臓を無視して、口を開く。
「先生って、恋人いるんですか!?」
突然の問いに、煉獄はきょとんとする。
二人の間に沈黙が流れ、やっぱり答えてくれないか、と深月が落ち込んでいると、煉獄が小さく咳払いをした。
「恋人が居たら、他の女性を抱き締めたりしない」
「えっ……」
他の女性とは。
深月は一瞬困惑したが、先程煉獄に抱き締められたことを思い出す。
そして、顔に熱が集中するのを感じる。
煉獄は、深月のことを『他の女性』と言った。
つまり、煉獄にとって深月は子どもではなく、一人の女性として扱うに足る存在なのだ。
深月は微笑んで、煉獄の袖を再度引く。
「煉獄先生。私が大人になったら、先生に聞いてほしいことがあるんです」
教師と生徒という関係は変わらない。
今は告白すらできない。
でも、深月はいずれ卒業する。大人になる。
今から女性として見てもらえるなら、急いで大人になる必要もないかもしれないが、彼の心に爪痕くらいは残しておきたかった。
「待っててください」
それだけ言って、煉獄の袖を離す。
もう家に着いたので、返事も聞かずに玄関のドアを開けた。
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