黄金葛が日常に
折れた日輪刀。右足の深い傷から流れ出る血。
こんな刀では鬼を斬れないし、こんな足では避けることもできない。
ああ、自分の命はここまでだ。
迫り来る鬼を見つめながら、深月は諦めた。
だが、しかし。
想定していた死は訪れず、いつの間にか鬼は灰となって崩れかけていた。
深月が困惑していると、彼女の視界に急に炎が飛び込んできた。
「よく頑張ったな!もう大丈夫だ!」
「え……?」
深月が炎だと思っていたのは、炎柱 煉獄杏寿郎の瞳だった。
距離が近すぎて、彼の炎を思わせる瞳しか見えていなかったようだ。
しかしまあ、近い割には目が合っているような気がしなかった。
煉獄は呆ける深月に笑い掛けて、折れてしまった彼女の日輪刀の片割れを拾ってくる。
それから、彼女の脚を止血して、太陽のような笑顔を浮かべた。
「これでしばらく持つだろう!隠が来たら、手当てを頼もう!」
そこで漸く、深月は煉獄が鬼を斬ったのだと理解した。
ただ、その頃には、彼の笑顔に見惚れて動けなくなっていた。
*****
「煉獄さん、任務帰りですか?今から朝御飯ですか!?ご一緒していいですか!?」
明るく尋ねてくる深月に、煉獄は「また君か」と呆れたような声音で返した。
いつぞやの任務で深月を助けて以降、煉獄は彼女に懐かれてしまった。
暇さえあれば鎹烏伝いに煉獄のことを見つけ出し、追ってくる彼女に、さすがの煉獄も呆れ始めているのだ。
「食事は家で摂る。君の分までは用意していないだろう。それと、年頃の娘が往来で大声を出すんじゃない」
「すみません」
煉獄に注意され、深月は素直に頭を下げる。
ちなみに、この手の注意はここ一週間で三度目だ。
素直なのか、話を聞いてくれていないのか。
煉獄はさらに呆れつつ、今日は早めに帰ろう、と踵を返す。
「途中までご一緒していいですか?」
少し声量を落として尋ねる深月。
一応、注意を受けたことは気にしているらしい。
その健気な様子に、途中までなら、と煉獄は許可を出す。
すると、深月は心底嬉しそうな笑顔を浮かべ、礼を言った。
杏寿郎が歩き始めると、彼から半歩下がった位置で彼に着いていく。
煉獄家付近まで歩く間、深月は楽しそうに煉獄に話し掛け続けた。
任務のこと。鎹烏のこと。同僚のこと。
そして、毎回煉獄にあれこれ質問する。
好きな食べ物に始まり、生年月日、家族構成、炎の呼吸、趣味に至るまで。
煉獄のことなら何でも知りたいと言った様子に、煉獄も最初は引いていた。
そのうち懐くを通り越して、付きまとわれるんじゃないかとまで思ったこともある。
しかし、深月はある程度の分をわきまえているようで、煉獄が答えたくない質問は、二度と口にしなかった。
それは敢えて答えない質問ではなく、答えたくない質問だけで、彼女はなんだかんだ人の心の機微を察する能力はあるらしい。
「そういえば、煉獄さんってお料理されるんですか?」
「いや、俺は不得手だ。家の事は弟が得意だな」
「あ、千寿郎君ですね!」
確かに得意そうだなあ、と深月は顔を綻ばせる。
煉獄は少し振り返って、深月の顔を見る。
にこにこと笑う彼女の顔は、年相応の娘のもので、きっと隊服や刀なんかより袴やリボンの方が似合うのではないか、と思ってしまった。
こんなことを彼女に思う自分が信じられないと同時に、これは鬼殺に命を懸けている彼女に対して失礼だろうとも思い、誤魔化すように煉獄は前に向き直った。
そこで、深月が「あ!」と大きく声を上げた。
既に、先程受けた注意は忘れているらしいが、人通りが少なくなってきたので、何も言うまい、と煉獄は口をつぐむ。
「私、しのぶさんに呼ばれてたんでした。私からお願いしたのにすみませんが、ここで失礼します」
「うむ。気を付けて」
煉獄が何気なく口にした言葉に、深月はぱあっと顔を明るくさせる。
「ありがとうございます!」
煉獄にとっては大したことない言葉も、彼女にとっては嬉しい言葉だったようだ。
あまりに嬉しそうにされるので、煉獄は少し困惑しつつも「うむ」と答える。
ふと、深月が一歩二歩と煉獄に歩み寄った。
近い距離で彼を見上げて、ふわりと微笑む。
「煉獄さん。お慕いしております」
「ああ、知っている。だが……」
煉獄が何か言い掛けたのを遮って、深月はその続きを口にする。
「『だが、俺は君のことをよく知らないし、君も俺のことをよく知らないだろう』ですよね」
このやり取りも、いつものことだった。
深月は毎回、別れ際に愛の告白をして、煉獄は毎回それを同じ文言で断っている。
深月は一瞬だけ悲しそうに眉を下げて、また微笑む。
「私、結構煉獄さんのこと教えてもらったと思うんですよ」
あの任務以降、何度も煉獄と話した。
自分のことをいろいろ話したし、煉獄はいろいろな質問に答えてくれた。
でも、と深月は少しだけ目を伏せて続ける。
「私にとっては、あの夜に救っていただいたことが始まりですので」
この言葉は、今日が初めてだった。
煉獄がどう答えるか悩んでいる数秒間で、深月は煉獄に別れを告げて去っていった。
*****
静かな日常に、煉獄は違和感を覚えていた。
いや、鬼の咆哮も聞こえるし、仲間や人々の悲鳴も聞こえるし、たまに父の怒声まで聞こえるので、そんなに静かという程ではないのだが、何かが足りない、と感じ始めていた。
その正体に気付くのに、そこまで時間は掛からなかった。
(あの子が来ていないのか)
違和感の招待は深月だった。
暇さえあれば、否、おそらくどうにか時間を作っては会いに来ていた彼女が、ここ数日姿を表していない。
最後に会ったのはいつだっただろうか。
少し考えて、深月が初めて違うことを言った日だと思い出す。
『私にとっては、あの夜に救っていただいたことが始まりですので』と、言っていた日だ。
出会ってからそんなに日にちが経っていないというのに、出会った日を懐かしむような目をしていた。
愛おしそうに目を伏せて、柔らかく微笑んでいた。
そう言えば、あの日、彼女は『しのぶに呼ばれている』と言っていた。
見たところ怪我は無さそうだったが、何故しのぶの元へ行ったのか。
「よもや、病を抱えて……」
彼女はいつも元気そうだったが、実は重い病を抱えていたのではないだろうか。
だから、怪我も無いのにしのぶに呼ばれて、あの日だけいつもと違うことを言っていたのではないだろうか。
そこまで考えて、煉獄は自身の思考に驚く。
どうして、ここまで彼女のことを考えてしまうのだろう。
自分に会いに来るかどうかは彼女の自由だ。
あれだけお喋りしていて、病の話など微塵も出てこなかった。
そもそも、自分は彼女の告白を毎回断っているじゃないか。
そんな自分が彼女を心配するなど、お門違いだ。
そう思って、任務のことを考えようとして、普段ならぱっぱと切り替わる思考が、珍しく切り替わらないことに気付く。
どうしても、深月のことを考えてしまう。
彼女の笑顔を思い浮かべてしまう。
「どうしたものか……」
煉獄は小さく溜め息を吐いて、困ったように笑った。
*****
深月が会いに来なくなってから、どれくらい経っただろう。
煉獄は、頭の隅で彼女のことを考える日々を過ごしていた。
さすがに任務に支障は出さないが、彼女のことが気になって、そろそろ蝶屋敷に行ってみようか、とまで考え始めていた。
そんなある日。
「煉獄さーん!」
以前のように、往来で人目も気にせず、手を振りながら大声で駆け寄ってくる深月の姿を見て、煉獄は目を丸くして固まった。
煉獄の異変に気付きはしたが、特に気にせず、深月は明るい笑顔を浮かべる。
「お久しぶりです!お会いしたかったです!お元気でしたか?」
「俺は変わりないが、雨宮は……」
一般的な声量で、注意もしてこない煉獄に、深月は首を傾げる。
「私も元気でしたけど……煉獄さん、どうかされました?」
深月が心配そうに顔をのぞきこむと、煉獄は安心したような笑顔になった。
それを見て、どきっとしてしまい、深月は頬を染める。
「最近、任務が多くてですね!しかもちょっと遠方とかもありまして、全然会いに来れませんでした!」
頬に集中した熱を悟られまいと少し俯きながら、聞かれてもいないことを話し出す。
しかし、それは丁度煉獄が聞きたかった内容で、煉獄は嬉しそうに口角を上げた。
そして、深月に手を伸ばし、彼女の腕を掴んで引き寄せた。
突然、予想していなかった力が腕に加わり、深月は体勢を崩して煉獄の胸に飛び込んでしまう。
一瞬、何が怒ったか理解できなかったが、背中に腕を回され、耳まで真っ赤にする。
「え、あの……」
「おかえり、深月!」
上から降ってくる声は、いつも通り明るかったが、どこか甘さを帯びていて、深月は困惑しつつ顔を上げる。
すると、蕩けるような笑顔を浮かべた煉獄と目が合って、心臓が言うことを聞かなくなる。
煉獄は深月の背中に回した腕に力を込め、口を開く。
「君のことを、もっと教えてくれ」
周囲から聞こえる黄色い声や悲鳴は、彼の耳に全く入っていなかった。
*****
ちなみに、深月がしのぶに呼ばれていたのは、生理痛の相談に対する返事だったのだが、煉獄がそれを知るのは数ヶ月後のことになる。
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