カレンデュラと引き替えに
深月は、煉獄の手を強く握る。
緩く握り返された手には、全く力が入ってなかった。
胸に穴が開いて、血塗れの彼はもう話すべきことを深月や炭治郎に話してしまっていて、その生涯を閉じようとしていた。
手を離さないで、と言いたかったが、深月は口を噤む。
煉獄も深月もわかっている。これが最後なのだ。
もう、煉獄の命は終わるのだ。
深月は溢れそうになる涙をぐっと堪えて、精一杯の笑顔を浮かべる。
彼に最後に見せる表情は笑顔だと、ずっと前から決めていた。
「お慕いしておりました」
煉獄の唇が「ありがとう」と動いたが、それが言葉になることはなかった。
*****
黒板に白のチョークで書かれていく字は、かなり達筆だ。まるでお手本のようなその字は大きくて、すぐ黒板がいっぱいになる。
その字を書いた本人、歴史教師の煉獄杏寿郎が、生徒が板書を写したか確認してから、黒板の文字を消していく。
(あ、お尻にチョークの粉ついてる……)
先程まで前を向いて解説をしていた煉獄が、黒板の文字を消すために背を向けたことにより、深月は彼のスラックスについたチョークの粉に気付く。
彼女の席は一番前で、教壇まで一メートルもない。
黒板を見上げるついでに視界に入ったそれははっきり見えて、かなり気になってしまい、授業に集中できなくなる。
(かわいい!前世より隙だらけ!)
深月には、前世の記憶がある。
これを言えば周りから変人扱いされるのは目に見えているので、誰にも言ったことはないが、その記憶は鮮明だ。
そして、彼女の前世の記憶には、煉獄も登場する。
前世の深月は煉獄のことを誰よりも愛していて、それは今も変わっていない。
ただ、煉獄には、前世の記憶がない。
炎柱の生まれ変わりではなく、歴史教師として生きている。
もちろん、深月のことも覚えていないし、生徒の一人としてしか認識していない。
せっかく再会できたのに、自分のことを覚えていない。
それに気付いた時は辛くて悲しくて、どうしようもないほど落ち込んだが、前世の彼が言っていた。
『考えても仕方がないことは考えるな』
*****
放課後。
深月は生徒の一人として、社会科準備室を訪れた。
今日の授業の内容について、煉獄に質問するためだ。
ノックをして、返事を待って準備室に入れば、煉獄と公民教師の悲鳴嶼が居た。
「雨宮か!どちらに用事だろうか!」
「煉獄先生に。日本史の質問です」
「そうか!では、こっちにおいで」
煉獄は快く深月を迎えて、近くの椅子を自身の横に持ってくる。
深月は悲鳴嶼に会釈し、煉獄に礼を言ってから椅子に座る。
教科書とノートを広げて、いくつか質問する。
十分程経って、質疑応答が雑談になってきた頃、悲鳴嶼が立ち上がった。
「職員室に行ってくる。雨宮、あまり遅くならないように」
「はい」
「俺も気を付けておきます!」
悲鳴嶼は煉獄と深月に優しく笑いかけてから席を外す。
彼を見送ってから、煉獄が教科書に視線を落とす。
「どこまで話していただろうか?」
「えっと、弟さんが中等部に入学したところまで……」
「そうだった!すまん、話が逸れていたな!」
もはや、歴史など全く関係ない話をしていた。
悲鳴嶼もよく黙認してくれていたものだ。
深月は改めて質問を続けようと教科書の頁を捲る。
「ここなんですけど、もしかしてこの出来事と繋がってるんですか?」
「そうだが、どちらかというとこちらの方が深く関わっているな」
煉獄も教科書を捲って、該当のページを見つける。
その際、教科書を押さえていた深月の手を無意識に取って退かした。
不意に手を握られる形になり、深月の心臓は跳ねあがる。解説など頭に入って来なくなった。
握られた手どころか顔まで熱くて、どうしていいかわからなくなる。
百余年ぶりの煉獄の手は、前世と変わらず温かかった。
ふと、深月はあることに気付く。
「先生、剣道やってるんですか?」
煉獄の手に、竹刀だこのようなものがある。
量も硬さも前世ほどではないが、平和なこの時代にしては不自然な手だ。
「ああ、父上が剣道場をやっていてな」
煉獄は深月の手を握っていたことに気付き、そっと手を離す。
名残惜しいが、前世と同じく「離さないで」とは言えなくて、深月は眉を下げて微笑む。
「前と同じですね……」
「ん?何か言ったか?」
深月の呟きはすごく小さくて、煉獄は聞き返すが、深月は「いいえ」と笑って答える。
彼女の笑顔を見て、煉獄はきょとんとする。
その笑顔に、見覚えがある気がした。
彼女は生徒なのだから、休み時間に教室や廊下で友人と談笑しているのを見たことがある。笑顔くらい、見たことあるはずだ。
あるはず、だが──
どうにも、ずっと前に見たことある気がしてならない。
「雨宮。君は小さい頃、うちの剣道場か書道教室に通っていたことはあるか?」
「え?ないですよ?」
深月はにっこり笑って答える。
煉獄は「そうか……」と答えて、何かを考えこむように黙り込んでしまう。
確かに、幼少期の彼女を見た、といった感覚ではなかった。もっと、ずっと昔の話な気がするが、そもそもそんなに昔のことなら、彼女どころか自分も生まれてすらいない。
きっと気のせいだと結論付けて、煉獄は深月の方を見て、目を見開いた。
さっきまでにこにこしていた彼女は、ひどく悲しそうに笑っていた。
「雨宮……?」
「手、離さないでほしかった」
深月の目に涙が浮かぶ。
煉獄はぎょっとしてから、困ったように笑う。
煉獄にとって彼女は生徒だ。
二人きりで泣かせたとあっては、あらぬ誤解を生むかもしれない。
しかし、明確な意思を持って彼女の──女子生徒の手を握ることは、もっと許されない。
「すまん。だが、君は生徒で……」
「違う。もっと前」
深月が何を言っているかわからず、煉獄は首を傾げる。
深月はぼろぼろと涙を溢し、それを隠すように俯く。
それでも、溢れた涙は彼女の膝に落ち、スカートを濡らす。
別に、煉獄のことを困らせたいわけじゃない。
前世のことを思い出してほしいが、無理だともわかっている。
だが、先程無意識とはいえ手を握られたことによって、前世での彼の最期を思い出してしまった。
煉獄のことが大好きだった。
あんなに強かった彼が、たった二十歳で死ぬなんて、殺されるなんて思いもしなかった。
彼が死んだ後の深月の人生は、彼の思い出をなぞるだけのものになった。
何十年も想い続けたせいで、前世の記憶が残ってしまったのだろうか。
煉獄は深月に手を伸ばそうとして、それを引っ込める。泣いているのは可哀想で慰めてやりたいと思ったが、やはり彼女に触れるわけにはいかない。
「雨宮。落ち着くまでここに居ていいからな」
「っ、はい……」
優しい声が降ってきて、深月は唇を噛み締める。
その声は教師としての声で、煉獄個人として発したものではない、と感じた。
生まれ変わって再会できたとしても、深月が愛した『煉獄杏寿郎』はもうどこにも居ないのだ。
前世で、深月を強くしてくれた。
抱き締めてくれて、太陽のような笑顔を向けてくれた。
深月は煉獄を忘れることができないのに、彼が深月を思い出すことはない。
(考えても仕方がないことは考えるな……)
深月は袖でごしごしと涙を拭って、顔を上げた。
「すみませんでした。もう大丈夫なので、失礼します。ありがとうございました」
なんとか笑顔を作り、早口で言って、教科書とノートを閉じる。
それらを持って立ち上がったところで、煉獄に引き留められた。
煉獄は机の横に掛けていた自身の荷物を漁り、あるものを取り出す。
「特別だぞ」
そう言って、誰も見ていない今だけ、と自分に言い聞かせて、深月の手を取ってそれを乗せる。
それは、今朝方コンビニで買ったさつまいもの菓子だった。
深月は不思議そうに手の上の菓子を見つめる。
煉獄はその様子にくすっと笑ってから、立ち上がって彼女の頭に手を伸ばす。
今度は途中で引っ込めることなく、その頭を撫でた。
「本当は、こういうことをしてはいけないんだ。内緒だからな?」
頭から手が離れ、深月は煉獄を見上げる。
彼は優しく微笑んで、深月を見下ろしていた。
深月は手の上の菓子を教科書と一緒に抱き締めて、ぐっと息を詰まらせる。
この笑顔は、炎柱としての煉獄はあまり見せなかった種類の笑顔だ。
「あ、ありがとう、ございます」
深月は頬を赤く染めて、教科書で口元を隠しながら、どうにかこうにか礼を言う。
声が震えないようにするのに必死だった。
少し深呼吸して、気持ちを落ち着けてから教科書を下ろす。
「内緒ですね。わかりました」
ふわりと微笑んで、準備室を後にする。
廊下に出て、人気のない場所に着くと、深月は崩れ落ちるようにしゃがみこんだ。
自分が好きなのは、炎柱の煉獄だったはずだ。
教師の煉獄のことは、あくまでも彼の生まれ変わりとして見ていた。だからこそ、前世の彼と重ねてしまっていたのだが。
しかし、教師の煉獄の微笑みを見てから、自分が好きなのは炎柱なのか、教師なのか、わからなくなってしまった。
「ど、どうしよう……」
前世のことを思い出してもらうより、教師に恋する方が現実的なのだろうか。
そんなことを考えてしまい、深月は小さく溜め息を吐いた。
*****
深月が居なくなった準備室で、煉獄はすとんと椅子に座る。
深月が何を言いたいのかはわからなかった。
泣いている理由も、全く見当がつかなかった。
でも、『手を離さないでほしかった』と言って泣いた彼女を、どうしても放っておけなくなって、相手は女子生徒だというのに、つい触れてしまった。
もしこれが保護者に伝わったら、どんなに深月が庇ってくれたとしても、何かしらの処分を受けるかもしれない。
「やってしまった……」
駄目だと分かっていたのに、止められなかった。
『特別だ』『内緒だ』なんて言って、まだ子どもの彼女の純情を弄んだのではないか、と不安になる。
煉獄はなんとか気を取り直して、仕事をしようと机に向かう。
それでもふと、深月の泣き顔や頬を染めた笑顔を思い出す。
それらの表情にはぐっと来るものがあったが、自分は大人で相手は子どもだと言い聞かせて、仕事に没頭することで雑念を払った。
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