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しのぶれど


自分の耳を平手で打って、鼓膜を破った。

隠からそう聞いて、深月は一瞬何を言われたのか理解できなかった。

彼の後ろに立っている杏寿郎は、いつも通り笑顔だが耳から顎には垂れたような血の跡があった。
それを見て、漸く杏寿郎が怪我をしたのだと理解し、深月はぎゅっと拳を胸の前で握り締めた。

隠は、杏寿郎がしばらく任務に行けない旨や、傷の手当ての方法を説明する。

「それでは、わからないことがあれば鎹烏を飛ばしてください。後はよろしくお願いします」
「あっ、はい!ありがとうございました!」

隠が頭巾の下で微笑んで頭を下げたので、深月も深々と頭を下げて隠を見送った。

「杏寿郎様、とりあえず血をお拭きします。お部屋でお待ちいただけますか?」

深月は杏寿郎を振り返り、いつものように声を掛ける。掛けてから、しまった、と思った。
鼓膜が破れている相手に話し掛けたって、何も伝わらないだろう。

案の定、杏寿郎は深月の言葉を聞き取れず、困ったような顔で首を傾げている。

どうしたものか、と考えて、深月はとりあえず身振り手振りで家の中へ入るよう促す。
それは伝わったようで、杏寿郎は頷いて門をくぐった。


*****


深月はぬるま湯と清潔な手拭いを用意し、杏寿郎の部屋に向かう。
部屋の前で声を掛けようとして、思い止まる。

今、声を掛けたって杏寿郎の耳には届かない。
しかし、声も掛けずに部屋に入るなどできない。

深月は煉獄家の女中という立場だ。
無断で雇い主の子息の部屋に入るわけにはいかない。

(でも、杏寿郎様のお世話をしないと……)

途方に暮れて、深月が項垂れていると、部屋の障子が中から開かれた。
顔を上げると、上着を脱いだ杏寿郎が居て、深月は目を見開く。

「すまん!!次から、入っていいときは障子を開けておく!!」

耳が聞こえないから、声量の調節が難しいのだろう。
いつもより大きな声で杏寿郎が話すので、深月の耳に彼の声がキーンと響く。

それでも、驚いた素振りは見せず、深月は笑顔で軽く頭を下げた。声が届かないので、礼を言う代わりだ。

部屋に入れてもらい、畳に正座する杏寿郎の横に膝をつき、濡らした手拭いで彼の耳から顎を拭いていく。

「痛くないですか?」

途中、深月は杏寿郎の顔をのぞきこんで、できるだけゆっくり唇を動かす。
簡単な言葉なら唇を読んでもらえるのではないだろうか、と考えたのだ。

深月の考えは上手くいったようで、杏寿郎は笑顔で頷く。

「痛くないぞ!ありがとう!」
「よかったです」

深月は微笑んで体勢を戻し、引き続き杏寿郎の顔を拭く。

その間、早くなる鼓動を感じて、深月は杏寿郎にバレないよう唇を噛み締める。

杏寿郎は雇い主の子息だ。女中ごときが恋心を抱いていい相手ではない。
杏寿郎だって、自分のことを女中としか思っていないだろう。良くて妹のような存在か。

それでも、彼の横顔が近くて、彼に触れる手が熱くて、心臓はどんどんうるさくなる。
杏寿郎は怪我をしているのに、どきどきしてしまう自分が嫌になって、深月は溜め息を吐いた。

その吐息を耳元に感じたのだろう。
杏寿郎が勢いよく深月の方を振り向いた。

あまりの勢いに驚いて、深月の心臓が先程とは別の意味でうるさくなる。

「きょ、杏寿郎様……?」
「迷惑を掛ける!すまん!」

杏寿郎は、耳元に感じた吐息を、深月がうんざりしたことによる溜め息だと思ったのだ。

「えっ、迷惑じゃありません!杏寿郎様はお怪我で大変なのに……」

深月はぶんぶんと首を横に振る。
迷惑だなんて、微塵も思っていなかった。

しかし、首を振った上にいつものような早さで喋ってしまい、細かい意図は杏寿郎に伝わらなかった。
それがもどかしくて、深月はまた唇を噛み締めた。


*****


杏寿郎が湯浴みをしている間、深月は自分の部屋であるものを探していた。

それを見つけて、深月は嬉しそうに笑う。

早速それを持って、風呂上がりの杏寿郎の元へと向かった。

廊下を歩く杏寿郎の背中を見つけ、深月は声を掛けながら彼の肩を軽く叩いた。

「杏寿郎様、杏寿郎様!」

杏寿郎は振り向き、深月を見下ろす。
その優しい目は「なんだ?」と言っているように見えて、深月は一瞬息を詰まらせたが、気を取り直してあるものを取り出した。

「これがあれば、杏寿郎様とお話しできます!」

それは、万年筆と雑記帳だった。
いつだったか、杏寿郎が買い与えてくれた物だが、消耗品なので使ってしまうのが勿体無くて、大事に仕舞っていた物だ。

筆や墨では準備に時間がかかるし持ち歩けないが、万年筆ならその心配はない。

深月は雑記帳を開き、そこにさらさらと文字を書いていく。書き終えたら、それを杏寿郎に見せる。

『杏寿郎様の耳が治るまで、これを持ち歩きます。迷惑だなんて思わないので、何かあれば遠慮なく仰ってください』

雑記帳に書かれた文字を見て、杏寿郎は嬉しそうに笑った。

「ありがとう!!」

礼を言ったが、また声量の調節ができておらず、大きい声が出る。
油断していた深月はその声に驚き、びくっと肩を跳ねさせてしまう。

杏寿郎は深月をぽかんと見つめた後、申し訳なさそうに眉を下げた。
彼女の手に右手を添え、万年筆を借りる。

深月は触れた手に一瞬びくっと震えたが、杏寿郎に雑記帳を差し出す。

『声の調節が出来てなかったんだな。俺もしばらくはこれに用事を書くとしよう』

杏寿郎はそう書いて、深月に微笑みかける。

深月は少し頬を染めて、ゆっくりと頷いた。


*****


杏寿郎が怪我をしてから数週間。

深月は、家事の合間に雑記帳を懐から取り出して、頁を捲る。

杏寿郎との会話が詰まったそれは、彼女にとって宝物になっていた。

用事や伝達事項が主な内容だが、杏寿郎からのお礼の言葉や他愛ない雑談も含まれている。

「ふふっ」

深月は思わず笑みを溢して、杏寿郎の字を指でなぞる。

千寿郎には悪いが、この雑記帳は二人だけの会話用だ。
彼を交えた会話の際は、別の雑記帳を使っている。

叶わぬ恋だとわかってはいるが、これくらい許してほしい。
そう思って、深月は雑記帳を懐に仕舞った。

その直後に肩を叩かれて、深月はこれでもかと言うほど全身をびくっと震わせる。

恐る恐る振り向けば、杏寿郎が居た。
彼は湯浴みをしていたようで、少し髪が濡れていた。

「どうしました?」

平静を装って尋ねながら、深月は彼に万年筆と雑記帳を差し出す。

杏寿郎はそれを受け取り、深月への用事を書き込んでいく。

『耳に水が入ってしまった。頼めるだろうか』

返された雑記帳を見て、深月はこくりと頷く。
これからの行為を思い浮かべると、頬が熱くて仕方がなかった。


*****


深月は綿や小さい布を持って杏寿郎の部屋に行き、障子が開いているのでそのまま入る。

杏寿郎は深月に気付き、「頼む」と言うかのように頭を下げた。

深月が畳に正座すると、杏寿郎は彼女の膝に頭を預けて目を閉じた。

耳に入った水を、深月に確認してもらい、拭いてもらうためだ。

隠から、耳の中にあまり水分を残さないように言われているのだ。
鼓膜が破れている上、耳の中が濡れていると、感染症になるかもしれないと説明された。

杏寿郎もできるだけ耳に水が入らないように気を付けてはいるが、上手くいかない日は当然ある。

そういう日は、深月に作業を頼むのだ。

深月にとって、この作業は心臓に悪かった。
ひっそり想っている相手に膝枕をして、自分に身を委ねて目を閉じる横顔を見下ろして、彼の耳に触れる。

何回やっても慣れず、毎回緊張してしまう。

深月はそっと杏寿郎の耳に手を添え、耳の穴を覗く。
震えそうになる手をなんとか抑え、綿や布で水分を拭き取る。

片方終えたら、彼の肩を叩いて、反対を向いてもらう。

反対の耳の水分を拭き取りながら、深月はふと考える。

こんなに杏寿郎の近くに居られるのは、あと少しの間なのだろう、と。

彼の耳が治るのは嬉しいが、治ればこの作業も、雑記帳での筆談も終わりだ。

そう思うと、少し寂しくなった。

杏寿郎の横顔を見下ろして、深月は眉を下げて笑う。

彼は今、耳が聞こえない。目も閉じているし、自分が何を言ってもわからないだろう。

「杏寿郎様。好きです。お慕いしております」

気付けば、そう口にしていた。

叶わぬ恋。伝えてはいけない想い。
わかってはいたが、口にすると随分気持ちが楽になった。


*****


それからまた数週間後。
杏寿郎の耳は完治した。聞こえ方も問題ないようで、任務にも問題なく復帰していた。

深月は、何を思うでもなく日々を過ごしていた。
杏寿郎が怪我をしている期間が特別だっただけで、もともとの距離感に戻っただけだ。

少し寂しくはあるが、耐えられない程ではない。

しかし、それでも、時々思い出にすがりたくなって、雑記帳を捲ってしまう。
杏寿郎の字をなぞって、嬉しくなって一人で笑ってしまう。

その日も、深月は自室で雑記帳をこっそり取り出して、ぱらぱらと頁を捲っていた。

途中で手元が滑って、雑記帳を床に落としてしまう。

それを拾おうとして、深月は首を傾げる。

「あれ?最後まで使ってないよね?」

雑記帳は、最後の頁まで使わなかったはずだ。
しかし、最後の頁に何かが書かれていたように見えた。

雑記帳を拾い、丁寧に頁を捲る。
やはり、会話は途中の頁で終わっていた。

見間違いだろうか、と深月は最後の頁を見てみる。

そこには、見覚えのある字で、こう書かれていた。

『俺も好きだ』

深月は硬直する。

この字は、雑記帳にたくさん書かれている、杏寿郎の字ではないだろうか。
『好き』とは何が。『俺も』とはどういうことか。

少し考えて、思い至る。

「これって、あの時の……」

深月が杏寿郎にこっそり告げた想い。
その返事に思えてならなかった。

あの後、杏寿郎が雑記帳を手にする機会はいくらでもあった。

深月は瞬時に耳まで真っ赤にする。

聞いていたのか。聞こえていたのか。
しかも、これが返事だとしたら──

雑記帳を持ったまま、深月は弾かれたように部屋を出た。

向かう先は、決まっている。





長編の更新を楽しみにしてくださってるんですね!こちらこそありがとうございます!

今回は、両片想い的な関係にさせていただきました……!
書いててとても楽しかったです(*´∇`*)

リクエストありがとうございました!











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