3.0 (私)

昨日はとんでもなく疲れた。勿論私だけでなく、零くんもかなりお疲れの様子だった。それでも、泣き言ひとつ言わずに最後まで買い物に付き合ってくれたのだから、零くんはやはり良い子なのだろう。思い切り上体を逸らして伸びをすれば、いつものように小気味よい音が鳴る。昨日購入し、その日のうちに配達してもらった布団からのそのそと起き上がり、適当に畳んだ。余り出入りすることのなくなった久々の自室を後にして、寝室を覗けばあどけない寝顔ですやすやと眠る少年。一昨日の夜と同じようにソファでの寝落ちをしたこの少年を同じように寝室へ運んだのは昨夜の話である。流石に同じベッドや空間で眠るには憚られたので、大人しく自室にて就寝したのだ。…自分の疲れを癒すために買った値の張るベッドではあるが、零君が文字通り天使のような寝顔で眠るのだから明け渡してしまうのも仕方がないと思う。

「…コーヒー飲も」

重たい足取りのままキッチンへと向かい、コーヒーを入れる準備をする。インスタントでも別に構わないが、生憎の謹慎期間だ。時間なら十分にある。親が好きで揃えていた器具をキッチンカウンターの棚から取り出した。
幼い頃、このサイフォンで淹れるコーヒーを見るのが好きだった。こぽこぽと沸き上がるお湯に、ゆらゆらと上下するコーヒー液。アラサーになった今ではあの時のようなドキドキとワクワクを感じることはないが、けれど静かに心躍るような気分にはなる。手順を思い出しながら進め、後はロートの中のコーヒー液がフラスコに落ちきるのを待つだけだ。コーヒーカップを温めるために注いであったぬるま湯を捨て、コーヒー液が落ち終わったのを確認しロートを外す。久しぶりだから果たして美味しくできただろうか。不安を抱えたままカップに注ごうとした時にふと顔を上げると零君の蒼い瞳が此方を見ていた。

「おはよう、ごめんね起こしちゃったかな?」

どうやら集中しすぎていて気付かなかったらしい。器具を取り出すときの物音で起こしてしまったのだろうか。先ほど見かけた天使の寝顔を思い出すと、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

「…自然に目が覚めただけ」

重たげな瞼ではなく、ぱっちりと開かれたそれを見れば納得がいった。そしてその綺麗な瞳の先にはサイフォンに使うロートとフラスコが映し出されている。アラサーはドキドキワクワクしなくとも中学三年生からするとまだまだ興味の対象らしい。

「さっき、このフラスコの中が燃えてなかったか?」

キラキラとした視線は、興味津々ということを分からせるには十分だった。それにしても、いくら集中してたとは言えずぶの素人である中学生の気配が読めないだなんて失態もいいとこだ。

「ボールチェーンのことかな?綺麗だよね。チェーンを伝って泡が上に上がっていくんだよ。フラスコ自体火にかけてるから、泡が反射してそう見えるんだよ」

説明してあげると、まじまじとフラスコとビームヒーターをを見つめる。理科が好きなのだろうか、楽しそうに緩められた表情は年相応で見ているこっちがほっこりする。

「…やってみる?」

カップに注がれることなく、持ったままのそれを思い出したかのようにカップに注ぎながら声を掛けると、バッと此方に向き直り、より一層瞳を輝かせた。

「やる!」

今まで見ていた中で初めて見るような勢いに思わず圧倒されてしまった。とりあえず、フィルターの手入れをして…フラスコとロートが冷めたら洗って準備をしようかな。久しぶりに淹れたからか、少しだけ雑味の残ってしまったコヒーを一口含んで準備に取り掛かった。





「ほんと…君は何でもパーフェクトなんだねぇ…」

横について説明をしながら、手際よく作業する零君。もともと手先が器用なのだろう、迷いなく動く手に感心していれば嬉しそうにはにかんだ。二回目の攪拌も丁寧に行い、ロートの中のコーヒー液が落ち始めた。下に落ちる光景をじっと眺める姿はどこかソワソワしていて、出来上がるのを今か今かと待ち遠しそうにしている。
抽出後のコーヒーの粉の表面はきれいなドーム状になっており、きちんと泡もついていた。…私より上手いんじゃないかと思う程だ。フラスコに入っているコーヒーを慎重にカップに注ぎ、半分ぐらいまで注いだところでその手を止めた。

「名前」

昨日の肉食系女子高生達との間で起きた茶番からか、零君は私を呼び捨てで呼ぶようになった。どうしかのかと思い見つめると、恥ずかしそうに頬を染めてフラスコを私に向かって差し出した。

「…美味くできたかどうか、俺にはよくわからないから名前にも飲んでほしい」

「ありがとう、じゃあ有り難く頂こうかな」

自分で淹れた分を飲み干し、カップを前に出せばフラスコに残った分を注いでくれる。香りを楽しんでいると、はやくはやくと急かす様にこちらを見守ってくるので、思わず笑みをこぼしてしまう。カップに口をつけると、さっきとは違い雑味やエグみのないクリアな味わいがした。

「美味しい…」

ほっと息を吐くようにそう漏らせば、分かりやすいぐらい零君の顔がぱぁっと明るくなった。そして自分用に注いだカップに口をつけると、すぐにカップをソーサーに置く。口に手を当てて固まったかと思うと、これでもかと言うぐらい眉を顰めた。

「…苦い」

パーフェクトな少年とは言えど、味覚は子供だった。コロコロ変わる表情もだが、今の素直すぎる反応が可愛くて吹き出してしまう。

「はははっ、ブラックはまだ早かったか」

悪びれることもなく笑う私に対し、美味しいって言ったのに!と抗議するかのような視線が突き刺さる。ああ、確か幼いとき私も零君と同じように苦さのあまり顔を顰めたことがあったなぁ。

「よし、昨日買った牛乳もあるしカフェオレにしよう」

提案すれば、子ども扱いされたと感じた少年は唇を尖らせ、拗ねた様な表情をしたが、少し置いた後にコクリと頷いた。折角自分の手で淹れたのだから、飲み切りたいのだろう。牛乳を少し温め、砂糖を少々加え甘くしてからカップに注げば出来上がり。ティースプーンでくるくるとかき混ぜてから渡すと、姿を変えたカップの中身をしげしげと見つめた。

「…美味しい」

こくりと一口飲み込むと、眉を下げてへにゃりと笑う。少し甘めのカフェオレが口にあったようで何よりだ。

「コーヒーも美味しいんだけどね…零君才能あるよ。まぁ、飲めるようになるにはあと10年早いかなぁ?」

にやっと揶揄うつもりで笑えば、思った通りジト目でこちらを睨み、ツンとした反応を見せた。

「…さてさて、朝ごはん…っていうよりブランチかな?作るから待っててくれる?」

もともと起きるのが遅くなってしまったうえ、サイフォンを使ってコーヒを淹れて、そんなこんなで日は既に昇りきっていた。食べ盛りであろう少年のことを思うと朝食を抜くのも微妙、ランチにしては早すぎるし…疲れた体に重いものもどうかと思う。昨日の買い物の帰り際に調達した食料品。材料もあることだから、ちょっとだけ手の込んだものを作ってもいいだろう。

「手伝う」

待っているだけもつまらないのだろう。手伝いを折角申し出てくれたのだから、有り難く申し受けようと思う。寝間着替わりのTシャツとハーフパンツが汚れるのも何だったので、サーモンピンクのエプロンをまとわせればとても似合っていた。すごく嫌そうな顔してるけど。





器用なだけあって、試しに使わせてみた包丁も難なく使いこなしていた。玉葱をみじん切りしてもらったときにぽろぽろと涙を流す姿が可愛かったが、すごく罪悪感がわいた。申し訳なくなったので、零君には現在ゆで卵の殻を剥いてもらっている。上手く殻が取れなくて若干苦戦しているようだった。私はと言うと、パン粉をオリーブオイルで炒めてサクサクにして、辛みをとったみじん切り済みの玉葱と油を切ったツナをマヨネーズで和えればツナフィリングの完成だ。食パンを入れた蒸し器と、タイマーを確認すれば、あと少し。零君には剥いた卵の黄身だけを綺麗にボウル移し、白身をまたしてもみじん切りするようにお願いする。蒸し器から柔らかくなった食パンを取り出して、パンの表面に予め準備しておいた特性のマヨネーズを塗り、ちょっと熱めのお湯に浸していたレタスの水分をよくきって乗せる。

「よっと、零君。そこのツナのやつとって〜」

「ん」

短く返事をして、白身のみじん切りを終えた零君が、ボウルに中身を移しながら片手でツナフィリングの入ったボウルを渡してくれた。

「あ、卵ボウルに移し終えたらこのあのマヨネーズと…そこの塩と胡椒適当にかけといて」

レタスの上にツナを均等の厚みになるように乗せる作業をしながら言えば、言われた通りにマヨネーズと塩胡椒を手に取った。

「…適当ってどれぐらいなんだ…?」

こういう時、きっちりした性格だと難儀なもんだと思った。お菓子ならともかく、サンドイッチなんだ、そんなにきっちりしなくったって完成する。

「そういう時は、少なめに入れて…味見しながら足していけばいいよ〜」

ツナフィリングを無事にサンドし終え、次はハムへと手を伸ばす。こちらも同じような手順で取り掛かる。

「…これぐらい?」

真新しいスプーンを取り出し、味見をしてみたものの自信がないのだろう。スプーンを持ったまま不安そうにこちらを見つめてくる。

「どれどれ」

スプーンを持つ手を掴み、自分の方に寄せて残っていた卵サラダをぺろりと舐めとる。どうやらマヨネーズがちょっと足りていないようで、黄身のパサついた感じが舌に残った。

「ちょっとマヨネーズ足そっか…って、どうしたの?」

卵に関しては零君に一任するつもりでいたので、アドバイスをと思い顔を向けると、わなわなと肩を震わせて俯いていた。手を掴んだままだったなと思いパッと手を離す前に、ものすごい勢いで振り払われてしまう。

「…っ、」

褐色の肌がかつてないほどに真っ赤になっていた。どう言葉を紡いでいいか分からないまま、ぱくぱくとただ動く唇。

「あー、…ごめんね?」

ぎゅっと抱きしめた時はそこそこ大人しかったというのに、間接キスは駄目なのか。この歳にもなると段々気にならなくなるというのに…若い証拠だ。あれ、もしかして私みたいなおばさんとは嫌的な?尚のことごめん。

「…ムカつく」

真っ赤な顔のまま、キッと睨まれたかと思うと吐き捨てられた。え、ちょっとまて、めちゃショックなんだけど。
ショックのあまり手元が狂い、オリーブオイルを塗ったハムが滑って落ちた。
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