3.0 (俺)
パチリと目を覚ませば、昨日の朝と同じく名前の香の残るベッドだった。ああ、そうだ。昨日は買い物ですっかり疲れてしまい、風呂を出てあのふかふかしたソファでだらっとしていたら寝落ちしていた。自分でここに来た記憶がないから、きっと名前が運んでくれたのだと思う…。あの人だって疲れていたはずなのに、こうしてベッドを占領してしまった。俺が申し訳ないと謝ったとしても、名前はきっと聞き入れてはくれないのだろう。自分で思っていた以上に疲れていたようで、ベッドサイドにある時計は9時を示していた。あの人はもう起きているだろうか、そう考えながら寝室を出るとコーヒーの香りが鼻をくすぐる。コーヒーの匂いはキッチンからするもので、リビングのドアを開けるとその匂いが濃くなった。理科の実験の授業で使うような器具をじっと見つめる名前。
フラスコとその上に乗るロートと思わしきものに、オレンジ色の炎のようなものが昇っていく。その不思議な、それでいて美しい光景に思わず目を奪われた。フラスコに入っていた水がなくなり、やがてロートからコーヒーが落ちてくる。初めて見る光景にワクワクしてしまい、挨拶も忘れて見入ってしまった。
「おはよう、ごめんね起こしちゃったかな?」
フラスコから注がれるコーヒーを眺めていると、カップに視線を落としていたはずの瞳がパッと上がり、目が合った。名前は目が合うと申し訳なさそうに、控えめに笑う。
「…自然に目が覚めただけ」
俺のことを起こしてしまったと思っているのだろう。どう返すのがベストなのかよく分からなかったから、つい素っ気ない返事をしてしまう。そんなことよりも、と言うのも何だけど俺はどうしてもこの目の間にある器具たちが気になって仕方がなかった。さっき、名前が手際よく扱っていたのを見る限りコーヒーを淹れるためのものなのだろうが、初めてみるそれはひどく興味深かった。
「さっき、このフラスコの中が燃えてなかったか?」
部屋に入ったときに見えた光景を思い出し質問すれば、どう答えていいか考えているのだろう、間を空けてから答えてくれた。
「ボールチェーンのことかな?綺麗だよね。チェーンを伝って泡が上に上がっていくんだよ。フラスコ自体火にかけてるから、泡が反射してそう見えるんだよ」
なるほど、説明に納得がいった俺はそれぞれの器具を、名前のしていた扱い方を思い出しながら交互に見つめた。
「…やってみる?」
その言葉に反応した俺は、勢いよく名前に顔を向けた。繊細そうな器具からして、大事に扱っていたことが分かったから、そう言ってもらえるだなんて思わなかった。
「やる!」
図々しいかもしれない、心の片隅でそう思うも、好奇心には勝てなかった。自分自身でも引くぐらいと感じるやる気に、驚いたような表情を浮かべ、すぐに普段通りにこりと笑うと名前は準備するといってシンクに向かった。
「ほんと…君は何でもパーフェクトなんだねぇ…」
名前に横に立ってもらい説明を受けながら作業をする。言われた通りに動かすだけだと思うのだが感嘆と呟かれてしまい、つい頬が緩んでしまう。さっきまで名前が行っていた動作を思い出し、更に耳にした支持をそのままに竹べらを動かし丁寧に攪拌する。するとロートの中にあったコーヒー液がフラスコへと落ち始めた。あと少しで出来上がる。フラスコに徐々に溜まっていくコーヒー液を眺め、早く終わらないだろうかと心が躍った。終わったのを確認し、フラスコを手に取り温めていたカップに慎重に注いでいると、名前のコーヒーを飲む表情が頭に浮かんだ。ぴたり、と手を止めて名前の方に向き直ると不思議そうにこちらを見ていた。
「名前」
昨日の一件から、俺は名前のことをそのまま呼び捨てのまま呼んでいる。嫌そうな顔を見せることもないので、気にしてないんだと思う。平気で呼び捨てすることはできるのに、素直な気持ちを表現するのは簡単じゃないんだと思った。
「…美味くできたかどうか、俺にはよくわからないから名前にも飲んでほしい」
「ありがとう、じゃあ有り難く頂こうかな」
名前に飲んでもらいたい。美味しいかどうかを聞くよりも、ただ単純に初めて自分が淹れたこのコーヒーを飲んでもらいたいと純粋思った。残っていたぶんのコーヒーを流し込むように飲み、空になったカップを差し出してきたので、そのまま慎重に注ぐ。淹れたてのコーヒーの香りを確かめるように、カップを顔に近づけているが、俺としては早く飲んでもらいたい、そんな気持ちでいっぱいだ。はやる気持ちが抑えれず、名前に伝わったのだろう。こぼれるような笑みを浮かべると、カップに口づける。
「美味しい…」
少し驚いたような表情とともに呟かれた言葉に、ぶわりと心の奥底から嬉しい感情が沸き起こる。その感情の高まりに直視することが出来なくなった俺は、自分用に注いだカップへを手に取りコーヒーを一口飲んでみた。想像していたよりも苦くて、眉間にしわが寄るのが自分でもよく分かった。
「…苦い」
前に飲んだ缶コーヒーは果たしてこんな味だったろうか。胃が荒れてしまいそうな苦みが舌に残り、変な感じがする。
「はははっ、ブラックはまだ早かったか」
突然、名前が声を上げて笑った。にこりと笑ったり、にやにやと悪ガキみたいに笑う姿は見たことがあったが、こんな風に快活に笑う姿は初めてだ。初めて見る一面に驚きと嬉しさがこみ上げるが、それ以上によくもこんな苦いものを美味しいと言ったな、と恨めしい気持ちが勝った。
「よし、昨日買った牛乳もあるしカフェオレにしよう」
力いっぱい睨む俺のことさえも、咎めるつもりのないような優しい目線で見つめてくるのだから悪態はつきにくい。精一杯の主張としてムッとしてみるも、名前の提案を目の前にして素直に頷いてしまった。すると、手早く牛乳を小さな鍋で温めて少し砂糖を加える。俺の使っているカップにそれを注ぎ足し、スプーンで混ぜれば出来上がった。さっきまでの色とは変わり、柔らかそうな色合いからはコーヒーの香ばしい匂いが牛乳で抑えられたような印象があった。
「…美味しい」
思わず顔を顰めてしまった苦みはすっかりどこかへ行ってしまった。甘ずぎ無いけど、苦くもないそれは素直に美味しいと感じた。
「コーヒーも美味しいんだけどね…零君才能あるよ。まぁ、飲めるようになるにはあと10年早いかなぁ?」
名前は自分のカップに注がれたコーヒーを見つめ、そうぼやくと俺の方をちらりと見て更ににやりと笑った。揶揄われているのが十分に分かったから、出来る限りの冷たい視線を送ってやった。
「…さてさて、朝ごはん…っていうよりブランチかな?作るから待っててくれる?」
そういえば、サイフォンやり方を教えてもらっていたせいで朝食をすっかり忘れていた。それに気づいた途端、胃が空腹を訴えてくる。
「手伝う」
正直、待っているだけも手持無沙汰だ。折角だから手伝うついでに普段することのない料理を教えてもらうのも悪くない。名前の作るごはんは美味しいと思う。何となくであるが、腹を満たすだけの食事とは違う何かを感じるのだ。手伝いを申し出た俺に対して名前は楽しそうに、サーモンピンクのエプロンを無理やり着せてきた。ふざけるな。
コーヒーを淹れるときもそうだったが、名前は教え方も上手だ。調理実習ぐらいでしか触ったことのない包丁を握り、言われるがままに玉葱を刻む。授業で学んだみじん切りを思い出しながら包丁を使ったが、そんなことよりも涙が止まらない事が嫌で玉葱は苦手だと思った。涙を滲ませながらみじん切りをしていると、見かねたのだろう、ゆで卵の殻を剥いてほしいとお願いされた。つるんと綺麗に剥けるものもあったが、小さい殻がうまく取れなくて苦戦するものもあった。名前を横目で見ると、普段から料理をしていることがよく分かるぐらい手際よく動いていた。パン粉をキツネ色になるまで炒めたり、きれいな布巾で俺がみじん切りした玉葱を揉んだり、食パンを入れた蒸し器を確認したり…。段々手伝えているか心配になってきた。そう不安に思っていると、次の指示を受けたのでその通りに白身と黄身を分けることにした。
「よっと、零君。そこのツナのやつとって〜」
「ん」
蒸し器から取り出した柔らかそうな食パンに、先程味噌と混ぜていたマヨネーズを塗り、レタスを乗せていた。その上に更に乗せるのだろう。短く返事をしてお目当てのそれを手渡す。
「あ、卵ボウルに移し終えたらこのあのマヨネーズと…そこの塩と胡椒適当にかけといて」
みじん切りし終えた白身をボウルに移していると、更なる指示を受ける。その間も名前はツナを丁寧にレタスの上に乗せる作業を休めない。
「…適当ってどれぐらいなんだ…?」
ふと思った。適当とは…初めて作るものに対していきなりハードルが高すぎやしないか?思い悩んでいると、横から助け舟を出してくれた。
「そういう時は、少なめに入れて…味見しながら足していけばいいよ〜」
なるほど、と納得しマヨネーズと塩、胡椒を少しずつ足しながら様子を見ても、見た目が大幅に変わることがないせいか、やはりピンとこない。新しいスプーンを引き出しから取り出し、ひとさじすくって口に運ぶ。卵サンドの卵、って感じだけど何か違うような…。
「…これぐらい?」
もう少し足した方がいいのだろうか、いや、しかしこのもう少しが命取りになるかも…。どうすればいいのか、そう訴えるようにじっと見てしまう。
「どれどれ」
俺の不安など知りもしなさそうなトーンの声が聞こえたかと思うと、スプーンを持っていた右手を掴まれた。そして、右手の中にあるスプーンをおもむろに、ぺろりと舐めたのだ。
「ちょっとマヨネーズ足そっか…って、どうしたの?」
だから、なんで、この人はこういうことを恥ずかし気もなくやるんだ…!!何とも言えない感情がじわじわと侵食し、肩が震える。この熱が、名前の掴んだ掌から伝わるんじゃないかと思い、右腕を振り払った。
「…っ、」
振り払う際に、視線が絡んだ。焦って更に熱を増す顔を見られた。だというのに、名前は何も気にしていないような、分かっていないようなきょとんとした表情で俺を見てくる。ここまで取り乱しているのが俺だけなんだと思うと、色々と言葉にならなかった。
「あー、…ごめんね?」
何に対してのごめんかを教えてもらいたい。間接キスに対してなのか、俺のこの反応がどういうものか分からなくてなのか。多分…前者に対してだとは思う。このデリカシーのかけらもない名前のことだ。そんなに恥ずかしい事なのか?と思ってるに違いない。
「…ムカつく」
確かに、俺はまだ子供で名前はいい歳した大人だ。それ故の余裕なんだろうが、無性に腹が立ったから、そのままの気持ちを吐き捨てた。言葉が耳に届いたようで、この世の終わりみたいな顔に早変わりする。手に持っていたハムがつるりと落ちたのを見てざまぁみろと思った。
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