4.0 (私)
昨日のサンドイッチで零君を不機嫌にしてからというものの、機嫌取りが大変だった。ぷりぷりと怒っているというのに、一口食べたそれを美味しいと、お店の味のやつ、と褒めてくれたのだ。それが可愛くてつい揶揄ったら悪化してしまったのだ。自業自得である。お願いだから許して欲しいとお願いをしたところ、渋々ではあるが許してもらうことが出来た。ただ、条件としてその日の夕飯は零君の食べたいものを作ること、これからは料理の手伝いをさせること、やたら揶揄わないこと。条件とは。可愛い零君の食べたいものを作るなんて朝飯前、手伝いに至っては私が楽になる、揶揄うことに関しても全くするなとは言わない。正確には機嫌取りが大変だったんじゃなくて、機嫌取りしたら零君が可愛すぎて大変だった。主に私が。天使じゃなくて大天使だったか。と思ったのがつい先ほどのことのように思える朝。昨晩は無理やり零君を寝室に押し込めてきた。大天使様にできることなんてこれぐらいしかない。自室に敷かれた布団を適当に畳み、部屋の隅に避けてリビングに向かうと。既に起きていた零君がソファにかけていた。

「おはよ、早いね」

どうやら本を読んでいたようで、挨拶をすると顔を上げた。

「おはよう」

リビングに置いてある本棚には漫画だったり、専門書や雑誌、売ったり捨てられないと思ったものが所狭しと並んでいる。恐らく、その中の一冊を手に取って見ていたのだろう。

「何見てるの?興味のあるようなやつ、あったかな?」

大きなソファは大人が横になっても余裕があるものである。私は零君の横に座り、その手元を覗き込んだ。

「…キックボクシング入門…って、懐かしいな」

いやぁ、懐かしい。高校生の時に近くにあったジムに通っていた。大学生になってから地元を離れてしまったが、息抜きで大学付近にあるジムには通ったものだ。そう言えばジムに入ったばかりの時に気休め程度に購入し、なんとなくこっちに持ってきたっけか。

「ジムにでも通ったのか?」

「うん、昔ね。今はもう流石にやってないけどね〜」

まぁ、今の仕事柄動けることは動けるが、あまり目立つことはするべきではない。どこから情報が洩れるかなんて分からない時世だし。この少年に嘘を吐くのは些か良心が痛むものがあるが、嘘を吐くのは慣れっこだ。

「…何で習おうと思ったんだ?」

聞きたいけど、聞いて問題無いかが気になるのだろう。少し控えめに聞いてきた。うーん、私が自分の事を話さなさ過ぎたからか。

「強くなりたかったのかな…?ごめんね、10年以上前の話だから目的は覚えてないなぁ」

これに関しては嘘はない。本当に覚えていない。小学生の時は柔道をやっていたので強くなりたいとか、違うことがしたいとか、家から近かったとかそんな理由だろう。

「ボクシングじゃなくて、キックボクシング?」

「…足癖が悪くてね」

そうそう、柔道には蹴り技はない。足技はあるが。だからきっと、今までと違う強さを求めたんだろうなぁ。遠い記憶を引っ張り出しながら返事をすると、ふーん、とどうでも良さそうな相槌を打ち本にまた視線を落とした。

「俺がやるならボクシングの方かなぁ…」

ぺらり、とページを捲りながら零君がぽつりとこぼした。ボクシングかぁ…。

「うん、似合いそうだね」

…将来有望そうなこの子のことだ。ボクシングとかシャレにならないぐらい似合うわ。この顔で細マッチョとかモテる要素しかないわ。ちょっとだけ、ほんとにちょっとだけ引き締まった褐色肌の上半身を想像してしまった。煩悩退散!!

「あ、勝手に見てたけど…大丈夫だったか?」

はた、と思い出したかのようにしょげた子犬のような顔をする。何それあざと可愛い。わざと?

「全然。まぁ、零君の興味のある本があるかは別だけど…好きに見ていいよ」

家には仕事に関わるものは基本置いていない。まぁ、唯一あるといってもパソコンだしロックも厳重にかけてある。本棚くらい問題ない。

「分かった、ありがとう」

興味がなくなったのだろう、後半はほぼ流し読みどころかパラパラと捲るだけになってしまった本を手に取り、本棚に向かう。

「よし、そろそろ朝ごはん作ろうか。手伝ってくれる?」

勿論、昨日のお願いを忘れていない零君は、くるりとこちらを振り返ると元気良く頷いた。今日はサーモンピンクのエプロンを拒否されてしまった。新しく買うかなぁ…。





「なぁ、名前」

昼下がり、照り付ける太陽から逃れるように閉められたカーテンレースはほぼ意味をなしていない。エアコンをつけて涼やかリビングには、ワイドショーで喋るコメンテーターとアナウンサーの無機質な声が響いていた。そんな中。何の前触れもなく零君が私の名を呼んだ。見ていたスマホから視線を上げると、零君も同じように私を見ていた。

「ん?なんかあった?」

本棚から取り出してきた漫画を読んでいたと思ったが、それは間違いではないようで、手元には冊子が持たれている。

「いや、このお祭りって…ここら辺なのかと思って」

ちらっとテレビにも視線を這わせたことにより納得した。テレビでは『今すぐ行こう!夏の遊び場!』といった夏休みならではの特集がされていた。一瞬しか見れなかったが、本日開催の花火大会があるらしい。会場を確認できなかったので、零君の問いには何とも答えにくいものだ。

「ごめん、会場見てなかった…」

「この前行ったショッピングモールが映ってた」

素直に謝った。どうやら、零君はちゃんと見ていたようでテレビに映し出されていた場所について教えてくれた。

「どれ…あ、ほんとだ。ショッピングモールより家寄りだから…ちょっと遠いけど歩いて行ける範囲かな」

スマホで検索してみると、花火大会を知らせるホームページがあった。そこに記載されている日時は間違いなく今日のもので、会場も行けないほどの距離ではなかった。愛車を出すと間違いなく渋滞に巻き込まれる。それが分かっていたから歩きが妥当だと即座に判断した。

「名前、行きたいって言ったら…その、一緒に行ってくれるか?」

どうもこの子は、変なところで遠慮しがちだと思う。パチリと目が合うと、視線を彷徨わせ、また合うの繰り返し。こんな可愛いデートの誘いを断れる奴がいるなら名乗り出てほしい。殴るから。

「良いにきまってるでしょ。昨日に引き続き家にこもってるのも飽きるだろうし」

持っていたスマホをソファに放り投げ、両手で零君の頭をわしゃわしゃと撫でれば、嬉しそうに目を細めて笑う。花火が見たいだなんて可愛いところもあるんだなぁ。まだ中学生だし、夏のイベントを満喫したいんだろう。





交通規制もかかり、人で溢れかえる会場を見て徒歩できたことが正解であるということを物語っていた。空が薄暗くなってきて、屋台を照らす電球や街灯が眩しいと感じるようになった。

「零君。何食べる?」

隣を歩く目立つ少年は、思った通り周囲からの視線を集めていた。すれ違う女の子たちは色めき立った視線を送っている。先日大人買いした服はやはり似合っていて、今更ながら大変良い買い物をしたと満足した。

「…たこ焼き」

じっと一点を眺めいていた零君は、私の声に反応し視線を別の方向へと向けるとそう言った。間をあけて紡がれた言葉だが、声ははっきりと聞き取ることが出来たので問題ない。

「よし、買いに行こっか」

花火大会と言うことで多くの人が集まっている。たこ焼き屋の前に出来た行列に気が遠くなりそうだが、花火が打ち上がる時間はまだ先だ。零君は一瞬めんどくさそうな顔をしたが、自分で言いだしてしまった以上仕方がないと思っているのだろう、大人しく並んだ。

「あ、ごめん零くん。ちょっと欲しいものあるから此処で並びながら待っててくれる?」

置いてかれたり、一人になるのが苦手なのはわかっている。申し訳ない気持ちを抱いたまま伝えると、思いのほかすんなりと了承されてしまった。

「早く戻ってこい」

じっと蒼い眼が私を見つめた。あまりに真剣な眼差しにドキリとしてしまった。列を離れ、向かう先は目的となる屋台。私の勘違いでなければ零君はさっきたこ焼き屋を視界に入れる前にあの屋台を見ていたと思う。食べたい、なんて言ったら私にまた揶揄われると思ったのだろうか。まぁ、万が一違えば私が食べたかったと言えばいい。屋台にいるおじさんにお金を渡し、袋に入った目的のものを受け取った。

「お待たせ〜」

出て行った時よりも少し列が動いていた。流石にこんな迷惑になりそうな行列の中ではナンパされることはなかったらしく、並んでいるだけの光景をみて安心した。私の声に気づいた零君が此方を向くと、私の手に持たれたそれを見て驚き声をあげる。

「何でそれ…!」

「私が食べたかったの、零君は嫌い?」

うーん、やはり揶揄われると思っていたようだ。にこりと笑って、自分が食べたかったことを伝えると慌てていた姿を一変し大人しくなる。

「…別に嫌いじゃない」

「そっか、よかった!並んでる間に一緒に食べよ」

嫌いじゃない、と口では言っているが袋の中身が気になるようでちらちらと袋に視線を送っている。機嫌が悪くなられても困るので言わないが、ソワソワしているその様子は見るからに楽しみを待ち侘びるそれだ。ゴムで縛られていた袋の口を解けばふわりと甘い匂いが広がった。

「わたあめなんて何年ぶりかな…」

袋がパンパンになるまで詰まったそれはわたあめである。うん、零君がわたあめ食べてるとか可愛くない?欲しいの我慢してるとか可愛いから買い与えるよね。パキンと割り箸を割り、ふかふかなわたあめを摘み口に運ぶ。

「何で割りばし…?」

「え?手で食べるとべたべたするし、この広い会場から手洗い場探すの大変でしょ?」

割り箸に巻いて作るタイプのわたあめもあったが、髪につくと厄介だから勿論却下だ。手でちぎって食べることもあったが、やはりあの指先がべたつく感じが好きにはなれなかった。どうやら私の言い分を納得した零君も割り箸を綺麗に割ってわたあめを食べ始める。

「…あっま」

十ウン年ぶりに食べるわたあめは甘ったるくて、これが砂糖の塊であることを思い出した。

「甘いもの苦手なのに買ったのか?」

私の発言に、訝し気に眉を顰めた零君。おお、しまった。私が食べたかったと言ったのが嘘だとバレてしまわないようにしなくては。

「ううん。好きだよ。ただ久しぶりすぎて…こんな甘かったかな?味覚変わったのかな私」

「コーヒーばっかり飲みすぎなのかもな」

ふっ、と笑いながら零君もわたあめを一口。こうやって冗談のように返してくれるあたり、バレなかったみたいだ。本当の話、甘いものは嫌いじゃない。寧ろ好きだ。でもどうだろう、子どもの時はふわふわしてあまいわたあめが美味しく感じたけど、今はそう思えなかった。

「…そうなのかもね」

あの時とは違い、甘いものに夢を感じるような子供じゃなくなったんだろうなぁ。
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