4.0 (俺)
昨日の朝とは違い、自然に目が覚めた。名前のベッドなのに俺が寝る訳にはいかないと抗議はしたものの、自室は色々と物があるからと言いくるめられてしまった。確かこの寝室には物が少なく、今やクローゼットの中には俺の服の方が多くかかっている。
寝室から出て、洗面所で顔を洗ったり着替えたり…一連の行動をとりリビングへと向かったが、名前はまだ起きていないようだった。居ないことに対して取り乱すことはしないが、どこか寂しい気持ちになる。
ふと目に留まったのがリビングの隅にある本棚。きっちりと並べられた本が気になり近づくと、様々な本がそこにはあった。背表紙を見る限り統一性がなく、漫画のようなものや分厚い小説、専門書のようなものもある。
「…キックボクシング…?」
『キックボクシング入門』と書かれた冊子を手に取って見てみると、真新しいものではなくそこそこ使い込まれたような雰囲気を出していた。キックボクシングを習っているのだろうか。今まで接してきていた面から考えても想像がつかない。そんなことを考えながらお気に入りのふかふかとしたソファに座り、その柔らかな背もたれに身を預けた。優しいけど、芯が強い女の人。でも、どこか残念で…更に物理的にまで強いとなると…何というか、アラサーで独身なのが頷ける。
「おはよ、早いね」
ふいにかけられた挨拶に少し驚いてしまった。悟られないようにすっと表情を戻し、顔を上げて挨拶を返す。
「おはよう」
俺に向いていた視線が、いつの間にか手元に移っている。
「何見てるの?興味のあるようなやつ、あったかな?」
隣の空いたスペースに座りながら、まじまじと本を見つめそのタイトルを読み上げた。
「…キックボクシング入門…って、懐かしいな」
懐かしい、と言うことは昔やっていたということなのだろう。名前は自分のことをあまり多くは語らない。
だからだろうか、こういったことを聞けるのを嬉しく感じる。
「ジムにでも通ったのか?」
「うん、昔ね。今はもう流石にやってないけどね〜」
まぁ、ジムに通う以外でキックボクシングを習う術なんて相当特殊になるだろう。我ながら何でこんな分かり切った質問をしてしまったのかと少し後悔した。そんな気持ちなど当然知らない名前は、気にした様子もなく平然と答えた。
…こんなこと聞いて良いのか分からないが、答えてくれるなら聞いてみたい。どうしたものかと思案した末に、恐る恐る声に出した。
「…何で習おうと思ったんだ?」
あまり自分の事を語らないということは、知られたくないことがあるという事。それを俺の好奇心だけで暴いて良いものなのかが分からなかった。
「強くなりたかったのかな…?ごめんね、10年以上前の話だから目的は覚えてないなぁ」
何故だか、うまくかわされたように感じてしまった。困ったように笑う仕草が、これ以上踏み込んで欲しくないとでも言っているかのように聞こえて胸がつきんと傷んだ。
「ボクシングじゃなくて、キックボクシング?」
「…足癖が悪くてね」
この痛みを誤魔化したくて再び口を開くと、今度は自嘲気味た笑みを浮かべた。困ったように笑われるよりかは幾分ましな表情ではあるが、心がざわついて仕方がない。とりわけ興味のなさそうにふーんと適当に相槌を打ち、表情を悟られないように視線をまた本に落とす。
「俺がやるならボクシングの方かなぁ…」
苦し紛れで、会話の矛先を名前自身のことから背けたくて言葉を発せば、きょとんとした表情を浮かべた後に、薄い唇が弧を描いた。
「うん、似合いそうだね」
ふわりと柔らかく笑った。それだけで、ぎゅっと心臓を握りしめられたような痛みがどこかへ行ってしまう。今までの痛みや不安など、この表情を前にすると一瞬にして姿を隠してしまうのだ。
「あ、勝手に見てたけど…大丈夫だったか?」
名前の表情が良くなったとはいえ、許可をもらわずに見てしまった事を思い出し、そう尋ねればまたしても目を瞬かせて不思議そうにこちらを見た。
「全然。まぁ、零君の興味のある本があるかは別だけど…好きに見ていいよ」
良かった。機嫌を損ねたわけでは無さそうだ。だけど、あんな表情をさせたくないし見たくないと思うと今この手にある本は見ないでおこう。そう思った。
「分かった、ありがとう」
パラパラと読むつもりもなく適当に捲り、許可してくれたことに礼を伝え本棚にしまう為ソファから腰を上げる。
「よし、そろそろ朝ごはん作ろうか。手伝ってくれる?」
背後から投げかけられた声は、さっきまでの顔つきが嘘だったかのように爽やかなもので、何も考えないようにと決めた俺は出来る限りの元気をもって頷いた。そしてまた今日もサーモンピンクのエプロンを押し付けられたが、全力で拒否した。さっき感じたあの表情や違和感は何だったのかと思うぐらいのノリに、狐につままれたんじゃないかと思った。
何をするわけでもなく、エアコンが効いて涼しいリビングでただくつろいでいる。名前はスマホに視線を落としていて、テレビに見向きもしていない。俺はというと、本棚にあった峠をせめる走り屋の漫画を読んでいた。この漫画の登場人物の乗る車が、名前の黒い愛車と色違いだという。車のことはよく知らないが、名前の愛車は格好いいと思った。
リビングの広さに合わせた大きなテレビは、どうやら夏休み向けの特集を組んでいるようで、漫画からテレビに視線を変えれば先日行ったショッピングモールの外観が映し出されていた。
「なぁ、名前」
じっと真剣にスマホを眺めている名前に声をかけると、視線を上げて俺の方をしっかりと見据えた。
「ん?なんかあった?」
先程までお互いに声を発することもなく、テレビの音声以外は無音だっただけに何かあると思われたのだろう。
「いや、このお祭りって…ここら辺なのかと思って」
特に何かあったわけではない。だが、テレビで流れていた特集が気になったので、ここから近い場所ならば多分土地勘があると思った俺はテレビを盗み見ながら言った。花火大会。わざわざ暑い中、人ごみに紛れなくても…とは思うのだが、どうしてか名前と一緒に行きたいと思ってしまったのだ。
「ごめん、会場見てなかった…」
「この前行ったショッピングモールが映ってた」
テレビの音声さえも聞き入れてなかったのは安易に想像がついた。テレビに映し出されていた建物の話を出せばピンときたのか、手に持ったままのスマホで検索を始める。
「どれ…あ、ほんとだ。ショッピングモールより家寄りだから…ちょっと遠いけど歩いて行ける範囲かな」
スマホを見つめたままそう教えてくれた。ショッピングモールまでは前回車で行ったから、近いかどうかは分からなかったが歩いて行ける距離ならば好都合だ。名前に車を出してもらうという罪悪感がわかずに済むから。
「名前、行きたいって言ったら…その、一緒に行ってくれるか?」
いつも通り伝えればいいものの、緊張してしまい言い淀んでしまう。一緒に行きたいとは思ったが、それを伝えていいか分からなかった。ただ、名前が最初に俺を迎え入れてくれたとき、暇を持て余すこの人に付き合って欲しいと言ったぐらいだから断られる事は頭になかった。
「良いにきまってるでしょ。昨日に引き続き家にこもってるのも飽きるだろうし」
にかっと笑って、いつの間にか空いていた両手でわしゃわしゃと一見乱暴そうにだが優しい手つきで髪をかき混ぜる。徐々に沸きつつある感情が、生まれて初めて抱くものなのをいいことに分からないふりをしてその手を享受した。
当たり前だが土地勘のない俺は、目の前にいる名前に着いて行くことしかできない。歩を進めるにつれて人の数が増し、屋台の賑わいを感じるようになっていく。花火が映えるような暗さではないものの、薄暗くなってきた空の下では街灯や屋台から下げられた提灯がぼんやりと光っている。いろんな屋台があるなと思ってあたりを見渡すと、わたあめを売っている屋台が目についた。特別好き、という訳ではないのだが無性に甘いものが食べたいと思ってしまったせいか、目が離せない。
「零君。何食べる?」
くるりとこちらを振り向き、問いかけられた。女の人のファッションは良くわからないが、肩の部分が思い切り露出している。俺とは真逆の白い肌に黒の服が合っているが、何となく、道行く男がチラチラと視線を送っているのは気に食わなかった。
「…たこ焼き」
返事をしないのも怪しまれると思い、適当に目についたたこ焼屋。それを伝えれば、同じように屋台を見つめて小さく頷いた。
「よし、買いに行こっか」
まだ花火が打ち上がる前なのもあって、とにかく人が並んでいる。正直、こんな行列に並んでまで食べたい訳ではない…が、自分で言った手前仕方ない。他にもたこ焼きを売っている屋台はあるものの、ここの屋台だけ人数が異常だ。それほどまでに美味しいと言う事だろうか。
「あ、ごめん零くん。ちょっと欲しいものあるから此処で並びながら待っててくれる?」
そんな事を考えていると、名前は前後の人たちにぺこりと浅く頭を下げた。一人にしないで、そんなこと人前で言えるわけがない。買い物に行った時の事もあり、申し訳なく思っているのだろう、俺の顔色を窺っているようだった。
「早く戻ってこい」
これが今の俺に言える精一杯の言葉。一人でも大丈夫、でも本当は行ってほしくない。名前本人に伝えるつもりはないが、気づいてもらえるのなら気づいて欲しい。そんな我儘な気持ちを汲み取ってくれやしないかと、思わずじっと見つめてしまった。俺と目が合うと、一瞬だけ表情を強張らせ、すぐに何もなかったかのように笑って列を抜けた。それにしても、名前の欲しいものとは何だろうか?欲しいものがあるのなら、俺の欲しいものよりも自分のものを優先すればいいというのに。…俺がもっと、名前と同じぐらいの歳で大人だったなら、もっと自分の欲を出してくれただろうか。いや、そもそもこうやって一緒に出掛けてくれただろうか。そんなバカみたいなもしも、を考えては自嘲する。
「お待たせ〜」
思ったよりも早く、帰ってきた。ぼんやりとバカなことを考えては、その考えを掻き消しての繰り返しをしている時だった。そして、戻ってきた名前の手元にあるものを見て、思わず驚いて声を上げてしまう。
「何でそれ…!」
先程までじっと眺めてしまっていたわたあめを売っていた屋台に置いてあったものであった。何故名前がそれを持っているのだろう、買ったことは間違いないが、どうして?
「私が食べたかったの、零君は嫌い?」
恐らくだが、俺が見ていたことに、きっと気づいているだろう。つまり、今の言葉は俺を気遣っての嘘と言うことが容易く想像できた。変に揶揄ったりするくせに、こういうときは空気の読める大人になるのだから…たちが悪いと思う。
「…別に嫌いじゃない」
「そっか、よかった!並んでる間に一緒に食べよ」
俺の考えていることが全部、読まれているんじゃないかと思うぐらい、名前は俺のことをよく見ていると思う。それに対して、俺は名前のことをよく知らない。何となく感じたその不公平さに、少しだけ冷たい態度をとってしまう。少ししか動いていない行列の先を確認し、縛ってあったゴムを外した。
「わたあめなんて何年ぶりかな…」
そうやって、わたあめみたいにふわりと笑い甘い匂いを堪能し、手元に持っていた割り箸を一善、パキンと丁寧に割りわたあめをごそっと摘まむとそれを咀嚼した。
「何で割りばし…?」
「え?手で食べるとべたべたするし、この広い会場から手洗い場探すの大変でしょ?」
初めてみる光景に、ぽかんとしてしまう。だが、その言い分も最もで納得する。名前に倣い俺も同じように割り箸を割る。久しぶりに食べるわたあめは甘かった。甘いことは甘いが、何かこう求めているような甘さと違うような気がした。
「…あっま」
名前の口の中からわたあめがなくなり、一番に言い放った言葉には甘いものに恨みでもあるのかと言わんばかりの声色が含まれていた。
「甘いもの苦手なのに買ったのか?」
わたあめなんて、甘いに決まっている。それなのに、この甘い甘いわたあめにたいして顔を顰めるなんておかしくないだろうか?もしかして、物欲しそう…な顔をしたつもりはないが、それを汲み取り無理して買ったのなら申し訳ないという話どころではない。
「ううん。好きだよ。ただ久しぶりすぎて…こんな甘かったかな?味覚変わったのかな私」
「コーヒーばっかり飲みすぎなのかもな」
何とも微妙な顔で言い切られてしまい、それ以上追及できなかった。聞いたところで、答えてくれないのは何となく分かっている。今の俺に出来ることと言えば、納得したふりをして名前を安心させることぐらいだろう。
そう思い、冗談めいたことを言ってわたあめを食べれば、安心したような顔をした。
「…そうなのかもね」
絞り出したような声で名前が呟いたけど、その声があまりにも憂いを含んでいたから思わず聞こえないふりをした。
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