6.0 (俺)
「いやぁ、きもちいーねー」
開けっ放しになった窓から入り込む風が容赦なく髪を乱す。見ていた風景が全く別物に変わる頃には、ただ髪を乱すだけの風が爽やかなものに姿を変えていた。助手席に座っているだけだったが、どんどん移り変わりゆく風景は見ていてとても楽しかった。自然あふれる光景は、名前に世話になるようになってから初めて見るもであり、その豊かさはとても心地の良いものだった。
「暑いけど、悪くないな」
じりじりと照り付ける太陽。夏特有の暑さも、肌にまとわりつくようなじっとりしたものではなく、さっぱりしたもののように感じる。気怠くなるような暑さではないからか、夏を満喫しているような、そんな妙な満足感があった。
昨日は昼過ぎから行動をしていたので出来ることに限りがあったが、今日は朝早くから準備をしてドライブに出た。
別に朝早いことは苦ではないが、いきなり部屋に入ってきて叩き起こされるのは勘弁してほしい。
「はいっ、駐車完了〜」
ちらほらと他にも車が停まる中、名前の黒いスポーツカーも同じように駐車した。手分けして荷物を持ち、そのまま自然に作られられたのか人為的に作られたか見分けのつきにくい山道を進めば、さっきよりも近づいた水の音。
「…!」
きらきらと降り注ぐ木漏れ日の下をくぐり抜ければ、眩しいほどに反射する水面と水辺独特の涼しさ。こっちに来てからとは言わず、今までに俺が見たことのない様なほど透き通りきれいな川があり、思わず息を飲んでしまった。
「うはー、めっちゃ綺麗!零君!これはもう行くしかない!」
名前は木陰に荷物を置くや否や一目散に駆け出した。その途中で靴や靴下を脱ぎ捨てるあたり器用なのだろうが、そんなものは求めていない。散らかされたままなのがどうも気になってしまった俺は、それを片付けて同じように履いていた靴下と靴を脱いで邪魔にならない場所に揃えて置いておく。
「ーっ!つ、冷たぁ!」
よほど冷たかったのであろう、名前の驚いたような声があたり一面にこだました。川の水は確かに冷たい印象があるが、そんなにも驚くようなことなのだろうかと思い同じように水に足を浸ければひんやりを通り越して刺すような冷たさが爪先から広がった。
「わっ、ほんとだ…」
透き通った水では俺の色黒の肌がよくわかり、入水したことによって水面がゆらゆらと揺れては浴びた光を反射する。さわさわと揺れる木々の音、さらさらと流れる川の音、爽やかな風がひゅるりと吹く音。全身に受ける自然の音が新鮮で、深く吸った空気は今までにないぐらい新鮮で、この場所に連れてきてくれた名前に対して改めて心の中で感謝した。当の本人を盗み見てみると、何やらスマホを操作しているようだった。
「空気も美味しいし、良い所だねぇ」
膝よりも少し下まである丈のパンツが濡れないような深さの位置で、足踏みをすれば跳ね上がる透明な飛沫。俺でも取らないような子供っぽい行動には呆れてしまうが、何故だろうかそんな一面が可愛らしくて笑ってしまう。
「俺、海とかよりもこっちの方が好きだな」
「私も。人でごった返したりしてないし…何よりもここ、落ち着くね」
海には海の良さがあるだろうが、不思議と名前が楽しそうにしているこの空間が好きだと感じた。足の裏から伝わる冷たさのせいだろうか、じわりと滲んでいた汗がひいたような気がした。
「ん、零君このおにぎり美味しいよ」
「…こんなの誰が握っても一緒だろ」
川辺にある木陰で、早起きして準備をしたお弁当を広げていた。おかずは全て名前が用意をしてくれて、俺が作ったものといえばおにぎりだ。誰が握っても一緒とは言ったものの、上手く握るコツなどもあって苦戦した。名前は上手だと褒めてくれたが、納得のいくものができたのは最後の2つくらい。それに比べて、名前の作ってくれたおかずは安定の美味しさだ。これだけのものを俺がおにぎりと作っている間に作り上げたのだから流石としか言いようがない。…唐揚げを作っている時には握り終えていたが、油はねを気にしてか近寄らせてすら貰えなかった。思い出すと悔しい気持ちになるが、口の中に入れた際の旨味のせいで段々とどうでもよくすら思えてきた。
「零君が作ってくれたから美味しいよ」
名前はズルい。そんなことを言いながら、ふわりと微笑むなんてズルい。俺だって、手伝ってはいるがいつも俺のために作ってくれる手料理にはそう思っている。ただ美味しいだけじゃなく、俺のために作っている、それがもう嬉しいんだ。だからだろうか、そんなにも嬉しそうに笑われてしまうと勘違いしそうになってしまう。
「名前が作る方が美味しいと思うけど」
ぐっと気持ちを押し込めて、頭の大半を占めていたこととは別の本心を口にすればついうっかり口が滑ってしまい、母さんのよりも美味しい、と付け足してしまった。何となく、ホームシックという訳ではないが…そんな心配をかけてはいけないと思い今まで声にすることのなかった家族の話。
「零君のお母さんだって一生懸命作ってるんだから、そんなこと言わないの」
出来るだけ優しく、言い聞かせるようなトーンに気を使わせてしまったのだなと思った。気まずさからなのだろうか、言い終えると手に持っていたおにぎりを一口齧り、咀嚼する。
「そういえば、名前の母さんってどんなひとなんだ?」
今まで語られることはなかったが、知りたいと思ってしまった。料理上手な感じがする、と続いて呟くと、名前は目を見開いたまま微動だにしなかった。名前が自分のことを多くは話さないのは知っていた。俺の母親についての話題から生まれた気まずさを少しでも転換できたらと思ったが、選んだものがまずかった様だ。
「…そうだね、お母さんの料理は控えめに言って世界一だったなぁ」
驚いていた表情を一変させ、ほろりと綻ばせた。懐かしむようなその表情からは、嬉しさも物悲しさも感じ取れた。
「お母さんもお父さんも、もうこの世にはいないけど、一番大切な人たちで自慢の両親だったよ」
ぶわりと強い風が吹きつけ、名前の黒く細長い髪が舞う。俺の至らない配慮のせいで、名前に辛い顔をさせてしまった。その現実がチクチクと胸を刺し、真っすぐ見ていられなくて思わず伏せてしまった。
「皮肉なことに、私がプレゼントした海外旅行先でさ…事故に遭ったんだ」
「…名前…」
ぽつりぽつりと掻い摘んで呟かれた内容にしっかりと耳を傾けるも、力なく紡がれる言葉はあまりにも小さくて、木々のざわめきも相まって聞き取れない部分もあった。その中で俺が分かった事といえば、名前が両親を大好きだったこと、そしてその死が自分のせいであって、今もなお責め続けているということ。一体誰が名前を追い詰めたというのだろう、自分の両親の死を受け止め、こんなにも悲んで心を痛めている人がそんなことをする筈ないというのに。
「…馬鹿だね、私。今でも考えちゃうんだ、私があんなプレゼントしなければ、って」
眉間にしわを寄せて、今にも泣きだしてしまいそうな顔は初めて見るもので、見ている俺まで悲しく、苦しい気持ちになる。
「…でも、名前の母さんと父さんはきっと嬉しかったと思う」
何も知らない俺が言える台詞ではないのかもしれない。でもきっと、名前が両親のことを誇りに思っていたのと同じぐらい、両親もきっとまたそうだったと思う。両親の愛情があったからこそ、名前は両親のことが今もまだ大好きなのだろう。そんな両親が、嬉しくないと思うはずがない。
「大丈夫、きっと母さんと父さんにとっても…名前は自慢の娘だったって、俺は思う」
あくまで俺の想像であって、名前の両親が実際のところどう思っていたかは分からない。正直俺は名前ほど自分の両親のことを誇りに思ったり、自慢に思ったりすることはないが、名前から受け取れる両親への想いはきっとこれ以上ないほどの幸せで、自慢になるものだったんじゃないかと思う。拙い俺の言葉を受け止めて、少しだけホッとしたかのように表情を崩す。俺の気持ちが全部伝わったかどうかは分からないが、名前が自分のことを責め続けるのなら、俺がそれを和らげてあげたい。ただの自己満足でしかないが、それによっていつもの名前に戻ってくれるのなら何だってできる気がした。
「ありがとう」
眉を下げて笑い、はらはらと涙を流すその姿が頭から焼き付いて離れないぐらい綺麗に思えたのは、これから先きっと無いんじゃないかと思った。
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