6.5 (俺)
涙を流す名前に何もしてあげることができずに黙ってそれを見ていると、ごしごしと涙を拭いおもむろに立ち上がったかと思うと川に向かって駆け出して思い切り飛び込んだ。あまりにも突然すぎる行動に処理が追い付かず、その場から動けなくなってしまう。目の前の出来事と頭の中がようやく結びつき、慌てて駆け寄るがどうやら底の深いところにいるようだった。
「馬鹿、何やってるんだ」
水中にいるせいで、きっと俺の声は届いてなどいないだろう。独り言になると分かっていても、そう言わずにはいられなかった。川の水が透き通っているおかげで、名前がどこに居るかはよく分かり、酸素を取り込むために水面から顔をあげようとするのも分かった。
水を吸った服が重いのだろう、動きにくそうに顔を顰め、また更に顔に張り付く黒い髪が邪魔なのだろう、より表情を険しくさせる。そんな顔をするぐらなら初めからしなければいいのに、そんな気持ちを込めて見つめつつ、引き上げるために手を伸ばすと届く距離まで近づいて、色の白い手を俺の手の上に重なった。
水を含んだせいで重みを増した服のせいで、名前を引く力が腕だけでなく足にも加わり、ぐっと力を込めた時だった。角がなくつるつるとした石が広がる足場だったのもあり、滑ってしまった。名前を引こうとした力もあったせいで、ぐらりと身体が後ろに傾いた。まずい。頭が真っ白になり、動けないままでいると勢いよく腕を引かれた。それと同時に身体は前のめりになり、頭の中の処理が追いつかないせいで名前の上に重なるように倒れこんでしまった。
「…っ、名前!?」
ギリギリのところで掴まれていない方の手を川底につけることが出来たから、名前の受けた衝撃は多少なりとも緩和しているとは思うが、俺の下にいる名前の状態をきちんと確認しない事には安心などできなかった。丸に掴まれていた方の腕を引き、再び水面から引き上げてその冷えた身体を思い切り抱きしめた。
名前の肌は川の水のせいですっかり冷たくなっていて、俺の肌から伝わるその冷ややかさは気持ちいいというよりも、心配になるほどのものだった。背中にも腕を回し、自分の方にぐっと引き寄せるとトクトクと脈を打つ心臓の音が伝わってきた。その音に酷く安心した。
「え、れ…ぃ、君?」
状況が呑み込めていないのだろう。名前にしては珍しい反応だが、今はそれに対して何か言う余裕なんてなくて、俺の腕の中にいるという安心感をずっと肌で感じていたかった。いけない。秘めるべきだと判断したのは紛れもなく自分自身だというのに、このままだと感情が滲み出てしまう、そう思い雑念を振り払い心を落ち着ける。
「…はぁ、心配した」
ゆっくりと背中に回した腕をほどき、ぴたりとくっ付いていた身体を離す。抱きしめていたせいでよく見ていなかったが、目に見えるような外傷は無さそうだ。
「ご、ごめん…?」
未だに情報の処理が追いついていないのか、心配そうにする俺に対し形だけ謝っているのが丸分かりだ。別に俺は謝って欲しい訳ではないというのに。
「頭、打ってないか?痛いところは?」
じろりと睨み付けてはいたが、分かっていない名前に対してそうし続けたところで意味がない。とりあえず、パッと見は怪我が無さそうだとは言え捻ったり、打ち付けたりしている可能性がある。倒れた拍子に川底で頭を打ち付けていやしないか、背中や肩も打ち付けていないかと気になり触れてみても、痛がる様子がないあたり大丈夫なのだろうか。
「っぷ、あはは」
突如、名前が声を上げて笑いだした。まさか急に笑いだすだなんて思っていない俺は当然だか驚いた。そんなにも俺の驚いた顔が可笑しかったのか、名前は俺と目が合うと更に笑った。
「で?」
ひとしきり笑い終わるのを待った後、たった一文字に含みを持たせて名前を見下ろす。川から上がり、太陽により熱された石の上で正座をしているのは四捨五入すれば俺の倍を生きている女。傍から見ると異様な光景だろう。
「で、と申されましても…」
俺の機嫌が悪いのをちゃんと理解しているのだろう、敬語を使ってまで低姿勢をとる名前。きっと何で俺が怒っているかなんて分かっていない。
「えっと…笑ってすみません…?」
やっぱり。とりあえず謝っていますと言わんばかりのトーンに更に怒りたくなった。名前のことだから、顔を見て笑ったことについて謝っているのだろうが、そうではない。怪我をしていないか心配していることに対して気付かないこと…というよりも、自分の事だというのにまるで興味がないかのようにしれっとしているのがムカつく。この手のことにおいて無頓着すぎる。
言ったところで自覚をする訳でも、意識をするわけでもない相手だというのはここ数日の付き合いで何となくだが感じ取れていた。名前が自分の事を気にかけないのなら、俺が気にすればいい。そう割り切ると同時にどっと疲れを感じ、溜息が出た。
「…その様子だよどこも怪我はなさそうだな」
あまりにも何もない様な、けろっとした表情でいるということは怪我をしていないと取っていいということなのか。嫌みをこめてそう零せば、先程怪我の有無を問われたことをやっと思い出したのか、申し訳なさそうな顔で俯いた。とりあえず、怪我は無さそうでなによりだ。
怪我の問題は片付いたが、次はしとどに濡れた衣服をどうするか、に問題がシフトする。持って来ていたタオルで身体や髪の水気を拭き取るも、びっしょりと濡れている服のせいであまり意味を成していない。
名前が川に飛び込んだ時は驚いたが、今なら本物の馬鹿がいたで終わらせる自信がある。
「…これだけ暑いし、まだ日も高いから…乾いてくれないかな」
「さぁ、どうだろうな」
全く乾かないとは思わないが、山の天気は変わりやすいと言うし絶対に乾くと期待をしすぎるのもどうだろう。名前ほどじゃないから俺の服は大分マシになるだろうが、名前のはちょっと…無理だな。川の水も冷たかったし、風邪を引かなければ良いんだが。
あの後何だかんだ弁当を無事に食べ終え、その最中にも照り付ける太陽のおかげか、俺の服はすっかり乾いた。どうも名前の方に関しては半渇きのようで微妙そうな表情を浮かべていた。いつまでも乾かしてる場合じゃない、と立ち上がった名前に連れられ、俺もその後を追う様に移動する。再び舗装されていない山道を歩き、さわさわと風を受けてざわめく木々を抜けると色鮮やかな景色が飛び込んできた。
「…すごい」
自然と口から零れ落ちた言葉はその一言に尽きた。眩しいばかりの黄色は太陽に向かって伸びていて、雲一つない青空の綺麗なグラデーション。視界いっぱいを覆うように広がった向日葵畑は圧巻だった。強い風が吹き付けると、向日葵の顔もゆらりと揺れて妙な威圧感さえも感じる。
「ふふ、零君とこれが見たかったんだ」
楽しそうに笑いながら俺を見つめ、そしてまたきゅっと目を細めて…今度は締まりのない笑顔を向けられる。俺とこの景色が見たかった、その言葉と今この現実が、どうしようもなく嬉しい。名前の頭の中にそうやって俺が存在しているということが、何とも言い難い喜びになる。緩みそうになる口元を汗を拭う仕草でそっと隠した。
「うわ、高っ…」
ぽかんとした顔で向日葵を見上げた名前から率直な感想が述べられた。確かに、俺や名前よりも背が高いものがあったのには驚きだ。もっとずっと小さかったころに見た向日葵は当たり前だが大きく感じたが、背が伸びた今でも大きいと感じるということにも更に驚いた。
天辺よりも少しだけ傾いた位置にある太陽を追いかけるように向けられた顔を眺めていると、向日葵の隙間から見える人影に気づいた。どうやら絶景スポットのようで、駐車場が用意されていたのもこの場所の為だったと納得がいった。
「はー、綺麗だけど何が悲しくて女同士で来てるんだろう」
「激しく同感。彼氏と向日葵畑デートとかさ…あれ、全くビジョンが浮かばない」
「いや、こんな場所デートにチョイスするとかイケメンしかいないしハードル高すぎるわ」
「…おっしゃる通りで…でもさ、憧れるじゃんー!」
「あー、さっき言ってた花言葉?お前そんな乙女な思考捨てたら?似合わない」
向日葵の向こうから、女の人達の掛け合いが聞こえてきた。確かに背の高い向日葵に囲まれているから一目には付きにくいだろうが、会話がこんなに筒抜けで恥ずかしくないだろうか。賑やかなそのやり取りを聞いていて、俺の動きはぴたりと止まってしまう。彼女たちの口から紡がれた花言葉が、なんだか今の自分にピッタリだと思ったから。
「綺麗だな」
スマホを操作しながらその場を少し離れていた名前が戻ってくる気配がしたから、振り向いて、落ち着かない心臓を鎮めるかのように笑って見せればカシャリと響くシャッター音。しれっとした表情でスマホを構えていた名前は、俺と目が合うと表情を強張らせていく。許可の有無ではなく、写真そのものを撮られたことに対する面白くなさが滲み出て思わず顔を背けた。
「ごめんって、零くんと向日葵が…うん、似合ってたというか…」
男が言われて嬉しい言葉ではない。花が似合うだなんて女々しいだろう。そうは思うものの。先ほどの花言葉がチラついてしまい、不思議と嫌な気はしなかった。
「俺よりも、名前の方が似合うだろ」
昨日も口にしたそのセリフを伝えれば、その言葉に聞き覚えがあったのだろう、口を開けたまま間の抜けた顔をしているのだから思わず笑ってしまった。
「そうかな」
照れくさそうにはにかむのがアラサーとは思えないくらい幼く映り、ドキリと心臓が跳ねる。昨日とは違う反応もあって、どくどくと打つ脈が速くなるのを感じた。
「ああ、名前に似合う花を選ぶなら向日葵だと思う」
「そ、そう…?向日葵の花束とか持ってたらいいかな?女子力上がるかな?あ、でかすぎて花束どころじゃないか」
天道様の下真っすぐにそれに向かって咲く姿は芯の強さを表しているようで、パッとした明るい黄色は性格を表しているようで、他の花と比べても大きいそれは懐の広さを荒らしているようで。単純に名前に似合うと思った。総ての言葉を伝えるつもりはないが、名前に似合う、それだけがちゃんと伝わればいいと思った。素直に言葉で表すと、微かに頬を赤らめながら口早に話だし、自分でツッコミを入れだした。
「…じゃあ、その時は俺が用意してやる」
自分で言っていて恥ずかしくなるのは、きっとあの花言葉を聞いてしまったからだろう。名前が花言葉なんて知っているとは思わないが、その意味を知ったとき、果たして受け取ってくれるのだろうか。受け取ってくれるのなら意味なんて知らなくていい。これは俺の自己満足に過ぎないのだから。
"私はあなただけを見つめる"だなんて知られたら、もうこれ以上傍に居させてもらえないような気がしてしまうから。
4/4
prev next△